彼が広島の焼け野原で出来たのは、ただ太鼓を打って歩いて祈る事だけでした。
それは彼には未だ経験したことの無かった、死者を弔う儀礼が否応なく求められ、慎語はお経の暗記は怪しかったのでひたすら南無妙法蓮華経で弔います。
死に行く人々の為にも祈り、そうした人達の多くはこの題目の祈りを唱和しながら逝けました。
広島の救援には3日程しか関われませんでしたが、多くの被災者を焼け跡から天臣の臨時病院に引き連れて来ました。
それでも爆心地まで歩いて回ったので相当な被曝を受け、急性被曝症は何とか生き延びますが、慢性被曝によるガンに苦しめられる事となります。
慎語は8月10日には長崎に帰り着き、辛うじて護衛二人のお陰で即死を免れたセラと再会します。 彼女は虫の息の状態で、慎語に自分の転生トゥルクを探し出して欲しいと頼みます。
彼女の頼みを断った事のない慎語は、このまま浦上で救護に当たったら間違いなく自分の命が持たない事を悟っていたので、大きな葛藤を抱きながらもすぐに故郷を後にします。
大陸に渡る船は光珠(彼女も浦上に住んでて亡くなる)の配下がすぐに手配してくれ、若い護衛も2人従い(生き残った生徒)、慎語は19歳以来ふたたび大陸に渡ります。
体調が優れないなか、終戦直後の混乱期の大陸を旅するのは容易ではなく、若い2人のお陰で何とかラサまでたどり着き、トゥルクが転生した事を報告します。
慎語は僧院で手厚い介護を受けてなんとか元気を回復しますが、体内に入ったプルトニウムは排出されずに常に被曝を受け、ガン細胞は常に発生し続けますが、それとの戦いは彼独自の方法で共存の方向で平和が保たれます。
これはつまり、糖質制限によるガンの兵糧攻めが自然の食生活で出来る様になる事で(超小食)、それを可能にしたのはセラの到達したブレサリアンとしての腸内細菌を慎語が引き継いでいたからとします。
こうして奇跡的に生き残った慎語は、髪の毛も抜けたので本格的に出家して、日本スタイルのお祈り行進をチベットスタイルのと織り交ぜてやりながら、トゥルクを探す旅を続けます。