それは1953年にフランス人として生まれたシルヴィアにとって宿命的で、彼女の青春時代には、フランスから独立を勝ち取る為のベトナム戦争(1955~75)がずっと闘われていました。
この無駄に長かった戦争に、無理やり参加させられるコトを拒んだ若者たちがヒッピー-ムーブメントを起こし、徴兵拒否で捕まるコトを嫌ったヒッピー達はインドを目指しました。
シルヴィアは女子なので徴兵される心配はありませんでしたが、同年代の男子達に連帯を示してヒッピーとなりインドに行きます。
こうした逃避行も男女が合わさればロマンチックなモノとなり、当時のインドは物価が欧米の1/10位だったので、若者でもなんとか食べて行けました。
そんなシルヴィアと秀祥が、ヒッピーの聖地カトマンドゥのチベット人街ブッダナートの仏舎利塔で出合ったのは、1969年でシルヴィアは16歳、秀祥は15歳としました。
そのくだりについては「仏舎利塔の功徳」で描きましたが、シルヴィアはチベット難民にシンパシーを持ち、難民キャンプの学校でずっとボランティアをしてくれて、そこでも子供たちに踊りを教えました。
彼女にとって踊りは、食べて行くタメの手段であると共に、国境を超えて言語も超え、歓びを分かち合える最高の芸術でした。
特にインドでは踊りが非常にウケて、シルヴィアは何処の街角で踊っても大歓声を集めました。
中でも1番盛り上がったのは、ブッダナートの仏舎利塔でのパフォーマンスで、ジャックと秀祥のギター-デュオと共演した時でした。
シルヴィアは106歳になっても当時の思い出を克明に覚えており、それを「秀祥の福音書」の第8章「踊り子シルヴィア」で楽しく描き出します。
彼女の文章は非常にダンスしており、飛び跳ねるようなリズムで、様々な景色や人、音や言葉が描写されます。
それは一見ハチャメチャな文章の様ですが、シルヴィアは賢者の血筋を引く名家の出でもあり、前衛文芸の『ユリシーズ』と共通する音楽的な名文に成ります。
「踊り子シルヴィア」の章では、晩年をダラムサラーで秀祥のアドバイザーとして暮らしたコトや、秀祥が最期まで亡命チベット人社会のタメに尽力したコトも語られます。
中でも特に彼女の筆が踊ったのは、秀祥が「癒しの輪」によって多くの人を癒す奇跡についてでした。
その描写は「学聖アゼル」の章でも成されますが、「踊り子シルヴィア」ではより情緒的な観点から、この「奇跡」に迫るコトとします。 −−
−− 秀祥は晩年ますます、「癒しの輪」の奇跡を多く生んで行きました。
その儀式の前に彼女は、心の痛みや体の病を抱える人々の話をよく聴き、それに並外れた共感を示していました。
この「共感」こそ、キリストも起こした「癒しの奇跡」の核心のような気がし、そこから「慈悲の心」によって癒しの波動が発せられるのではないかと思います。
波動医学については2059年現在、解っていないコトがまだ沢山ありますが、それが生体水とソマチッドの活性化を促し、ミトコンドリアの活性化につながって癒しをもたらすコトが解って来ました。
それはもちろん、AWGなどの波動医療機器によって調製される特別な「有効波動群」によるモノですが、人類は伝統的にそうした「ヒーリング・ライト」を手から発して来たとも伝えられます。
外気功やレイキに於ける、人の手から発せられる波動の解明はまだ成されていませんが、それが多くの人を癒して来たコトは認められるべきでしょう。
わたしは女なので、厳密な作用機序の解明は男に任せて、ただその「奇跡」を信じて広めるコトに致します。
わたしが思うに、こうした「共感の技法」をマスター出来るのは特別な才能を持つ人だけで、それには男女は問いませんが、計り知れない程の苦悩を積む必要性はありそうです。
秀祥が14才にして喪った故郷は素晴らしい所だったと聞き、そこで彼女は多くの友人や師に恵まれていたそうです。
しかしそこは中国共産党によって滅ぼされてしまい、亡くなった人々の想いを背負って秀祥は生きて行くコトとなりました。
わたしは彼女が、毎晩決まった時間に涙を流していたのを見ており、その涙は決まって彼女を前に進めて、涙は後ろへ流していました。
そんな才能に恵まれた友人を、最近新たに得られたコトは大きな歓びで、彼女は中国での革命運動のリーダーです。
その名も徳流河(ドゥルーガ)と言い、「勝利の女神ドゥルガー」から取ったそうです。
わたしは彼女ならばきっと、秀祥の後を引き継いで世界に「ヒーリング・ライト」を広めてくれると信じています。 −−