心の本質(リクパ)と云うのはかくも大きな概念で、世界は心の持ちよう一つでどうとでも変わるので、そのリクパを見極めようとした先人達の伝統知(宗教)にはリスペクトを持ちたいと思います。
チベットの伝統社会では、リクパに対してセムはかなり卑下して捉えられており、それについては精神文明に生きるソギャル-リンポチェの解説が特出してトンガっているので、また長めに引用させて貰います。
-- つまりセムは、考え、計画し、求め、弄する心、怒りに燃える心、煩悩や否定的な思考の波をつくりだし、みずからそこに溺れる心、経験を細分化し、概念化し、固定化することによって、つねにおのれの存在を主張し、正当化し、確認しつづける心なのである。通常の心とは、たえまなく気移りしているにもかかわらず腰の重い、外からの影響の虜、習慣という惰性の虜、条件づけの虜なのである。師たちはセムを、開け放しの戸口に置かれた、外からの風に吹きさらされる蝋燭の炎にたとえる。
ある角度から見ると、セムはゆらめき、不安定で、貪欲で、際限なく他人のことを気にする心である。そのエネルギーは外に向けて消費される。わたしはときどきそれが鍋の中で炒られて飛びはねる豆のように思えたり、せわしなく枝から枝へ跳びうつる猿のように思えたりする。ところが別の見方をすると、通常の心はまやかしの鈍重な落ち着き、独善的で自己防衛的な居直り、身に染みついた習慣の石のような図太さといったものを持っている。
セムはあくどい政治家のようにずる賢く、懐疑的で、不信に満ち、ペテンと悪だくみの達人であり、ジャムヤン-キェンツェが書いたように、「だましあいゲームの名手」なのだ。この混沌とした、混乱した、無節操な、同じことを繰り返すだけのセムの体験のなかで、通常の心の体験のなかで、わたしたちは変化と死に見舞われるのである。
そしてその対極に、心の本質が、けっして変化や死に左右されない、もっと奥深い心の本質がある。今それはわたしたちの通常の心のうちに、セムのうちに秘められている。わたしたちの混乱した思考と感情に包まれ覆い隠されている。 --
こうした精神文明の見解は、私たち物質文明の人間には納得し難いかも知れませんが、我々みんなにもセムの霧が晴れたリクパの世界を体験する機会が、49日間のバルドゥで与えられるとされています。
チベットでは、バルドゥの予行演習とされる夢でもセムからリクパが解脱すると考えられ、そのリクパを夢の中でしっかり捉えるように促されます。
私は、セムとリクパを対極に置く考え方にはあまり賛同しませんが、夢の中ではリクパが優勢となってセムはむしろ余計な夾雑物と感じることはあります。
リクパは安定した満足感をもたらし、それは全ての命と経がっている安心感とされます。
次回はこのリクパを全生命に普遍化した仏性(ブッダ ネイチャー)の思想について書きます。