まずは "Bold" からで、この言葉を一部のアメリカ人はとても好んで用います。
一般的には「大胆」とか「真っ直ぐ」と訳され「つるっ禿げ」という意味も持つこの言葉は、「小心」や「ねじ曲がり」の対義語でアメリカの田舎の人々が一番の美徳とするモノです。
"as" もこの歌では大きな意味をもち、ラストの "just as axes" を「ただ先祖がそうであったように」と訳しましたが、私たちはみんな先祖と似たり寄ったりだと言えます。
これを文学テーマとした作家ではフランスのモーパッサンが挙げられ、今回の旅では「水の未来」の次に「モーパッサン短編集」が手元に在ります。
今、本州の南端からフェリーで屋久島に向かっていて(一晩かかる)、島でキャンプしながらじっくり読もうかと思っております。
さて、いよいよ "Love" について語りますが、まずは日本語の「愛」との違いについて述べます。
それは英語圏ではキリスト教が主流で、そこでは「神の愛」が一番大事な要素とされ、タテマエ上「人の愛」も神に習ったモノで神聖とされています。
日本でも「愛」を神聖視する向きはありますが、とうてい "Love" の域には及ばず、歌のタイトルでも「愛」はそれほど多用されていません。
そもそも日本人はシャイで、愛を語るコトが苦手な民族ともされています。
この点は中国人も同じ気がし、個人的な愛情は軽視されて、より大きな「愛国」などが重視されています。
しかし中国は最近革命で誕生した国で、その政権は過去の伝統文化を否定し葬り去って来たので、「愛国」は人工的で浅はかなモノとなっています。
一方で、「神の愛」の体現を究極目標とする "Love" の国々では、もう「愛国」などという視野の狭い時代遅れの言葉は消えつつあります。
それよりも個人的な愛情の方が遥かに重視され、歌のタイトルでも "Love" は実にバリエーション多く用いられています。
それらの歌では、愛情とは相手を求める心であり、その相手を特別な存在として重視するコトだと唄われています。
これが「Play the Game (クイーン)」の基本要素で、それを踏まえて日本人もどんどんゲームをプレーする様になると善いでしょう。
さて、最後に物語で締めますと、チベット人にとって「愛国」とは特別な存在であるトゥルク(転生者)への愛情と等しく、それは己も転生する者と自覚して、それを善き方向へ導いてくれる神聖な存在です。