真の動物福祉牧場を目指して

四海奔騰雲水怒り 五洲震濤風雷激し

これは文化大革命の争乱を人民が表現した七字烈句です。
何がそんなに五洲を震濤させたかと言うと、当時国家主席だった劉少奇が毛により打倒された事で、それまで学校や単位(職場)で革命を指揮して来た工作組の権威が根底から否定され、それは既存の権威全てが革命の対象となる状況を生んだからです。

こうした社会の激変を最も純粋に支持したのは十代の紅衛兵達で、彼等はずっと専制政治による洗脳を受けて育って来たので政府の方針(最高指示)に疑問を持つことは出来ず、理想の社会主義が実現されないのは腐った大人達が幅を利かしてるせいだと信じて、反革命の烙印を押された教師達(全国で2/3に上った)を吊し上げました。

当然、大学生が一番激しく政治闘争を行い、彼等の中には最高指示に疑問を持つ者達も出てきて、そうしたグループも紅衛兵を組織したので事態は奔騰しました。

希聖の使命はそうした政治的な霧を晴らす事で、それは学生達に共産革命の真の歴史を伝える事でした。

希聖、少奇、沢東、そして人民解放軍の元帥となる徳懐と、湖南の地は革命の柱となる人材を多く産み出しましたが、これは彼等の一つ上の世代から引き継がれた伝統と見なされます。

太平天国については前にも触れたのでリマインダーを載せるに留めまが、この国の実質的な根拠地は湖南でした。
首都とされたのは南京ですが、始め30万の反乱軍だったのが500万人にまで膨れ上がったのは湖南の農民達が参戦したからで、清軍に攻められて南京が滑落する前に湖南に退避していれば、太平天国はずっと長く存続したとされます。

この太平天国の敗北には、欧米列強の力も大きく関わっており、当時第二次アヘン戦争で屈服させられた清朝は、直ぐにその敵から軍事援助を受けて太平天国を討伐しました。
ここではフランス外人部隊も投入され、この悪名高い傭兵団は今でも存続しております。

こうした戦乱の世を闘った親から産まれたのが毛沢東の世代で、湖南の地は必然的に革命の根拠地となりました。
ここは全国に拓かれた革命根拠地の中で最後まで生き残り、第五次囲巣でとうとう制圧され、共産党は虫の息でなんとか落ち延びます。

これが伝説的な長征の始まりであり、曹希聖はこの敗走戦において第一等の功績を残し、毛沢東をして「希聖が居なければ共産党は存続し得なかった」と言わしめました。



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