因みにこの「改革開放」は、1861年に若冠25歳で清朝の政権を握った西太后も行い、ずっと鎖国状態で衰退していた老大国に改革と開放をもたらしました。
彼女は清朝の支配体制を終わらせたので逆恨みも受けましたが、「暗黒大陸」だった中国に光をもたらした、真の愛国者という評価が中華圏では定着しております。
西太后は儒教を大事にしましたが、それよりも仏教により傾倒していた様で、自分自身を観音菩薩に重ね合わせようと一生懸命に祈っていたそうです。
そんな彼女の人生に興味を持たれた方には、世界的ベストセラー作家ユン·チアンの「西太后」(中国語版は「慈禧」)をお勧めします。
話を儒教に戻しますと、この非常に理智的な宗教も死後の世界を説いており、ユン·チアン曰く「死んだ身内や大切な人たちの仲間入りをすると信じられていた。」そうです。
そのため墓地はとても大切にされ、そうした「おびただしい数の先祖代々の墓とそこで眠る死者の霊」によって近代化が妨げれたと述べています。
あと儒教で面白いのは、「学聖」という言葉が大きな意義を持っているコトです。
それは学校で教える学科の9割方を「学聖の教え」にしてしまう程で、慈禧が力を注いだ学校の近代化には、そうとうな苦難が伴いました。
同じく25歳の秀祥がアメリカ西部ナヴァホの地で、それまで農業など全くやって来なかった人々にその極意を伝授するのも、同じ様な苦難が伴ったと考えられます。
時に秀祥と慈禧は「無限の孤独と苦悩」(ユン·チアン)に落ち込んでしまいますが、そんな試練も「慈」として味わい「禧」へと変えていく若さが2人にはありました。