今から20~30年ほど前、自然科学の分野では、生命現象の解釈をめぐって、
還元説と生気説が激しい争いを繰り広げていた。
還元説とは、あらゆる生命現象は物質の化学反応で説明できるという立場で、
分子生物学の台頭によって強力に支持された考え方である。
一方、生気説とは、生命現象には必ずしも化学反応だけで説明できないものも多くあるとして、
生命現象を個別に取り上げるのではなく、全体的な文脈の中から解釈することを提唱する立場である。
こちらは生態学や行動学といった分野から支持を受けた。
現在、この論争は一応、還元説の勝利ということで決着がついたと考えられている。
分子生物学が生命現象の解明に多大な貢献を果たしたことは自明であり、
従来、統計的手法でしか処理できなかった謎の多くが、これで解明されてしまったからである。
生気説は、複雑系研究が一つの砦として残っているが、
残念ながら有益な成果は上がっておらず、単なるシミュレーション研究の水準にとどまっている。
おそらく生気説はこのまま衰退することになると思うが、
その着想自体が、自然科学の発想に馴染みにくいということも論争に影響を与えたはずである。
なぜなら科学者の多くは、論理を超えた法則に魅力を感じないからである。
しかもそれを科学的手法で証明できないとなれば、
論争の結末が次第に還元説へと導かれていくのは必至だったと言えるだろう。
ところで、これと似たような議論は、政治学の分野にも存在する。
有名なのが、合理主義をめぐる論争である。
合理主義とは、あらゆるアクターは自己利益の最大化を目指して行動すると想定し、
それに基づいてアクターの政治行動を説明しようとする考え方である。
一方、政治行動はそのように単純なものではないとして、
歴史や制度、文化的・社会的要因に着目して分析する立場もある。
従来の研究手法では、後者の立場が主流であったが、
現在は前者の立場での研究が主流を占めており、
政治学の学術雑誌などでも、ほとんどが合理主義をベースにした研究となっている。
もっとも、こうしたアプローチの由来としては、
今日的には唯物史観が色濃く影響を与えているのだが、
それはともかく、アンチ合理主義の立場からの批判が著しく弱いのは、
多分、合理主義派が駆使する数式や統計的手法をほとんど理解できないからであろう。
しかし逆に、合理主義派の反論もいまいち正鵠を射ていないのは、
アンチ合理主義者が強調する文化的・社会的要因を自分の研究に含み込ませると、
合理主義を支える前提が崩れてしまうため、そうした批判には無視を決め込むしかない。
その結果、両者の議論は常に平行線を辿ってしまうのである。
先日、書店を何気なく散策していたら、
英国の保守思想家マイケル・オークショットの邦訳が重版されていたので、
遅ればせながら手にとって読んでみた。
マイケル・オークショット/嶋津格他訳
『政治における合理主義』
(勁草書房、1988年)
この文献は、まさしく合理主義を礼賛する者には強烈なカウンターとなる内容だが、
ここで強調されていることは、突き詰めて言えば「理性」の限界である。
情報として手に入る技術知と並んで、オークショットは生活から立ち上がる実践知の価値を見出し、
その二つが不可分なものであることを指摘して、合理主義の自己完結性を批判する。
自然科学では、存在の意味が問われない物質の世界であるがゆえに、
実質上、還元説が勝利を収めた。
だが、存在の意味をも問われる政治学の世界では、
化学反応のように政治プロセスが進むはずもなく、
その点では、確かに理性の限界を感じないわけにはいかないように思われる。
ここに政治学の難しさがあるのであって、
単純に物事の是非を決めてしまわないところに、その醍醐味があると言えるのである。
還元説と生気説が激しい争いを繰り広げていた。
還元説とは、あらゆる生命現象は物質の化学反応で説明できるという立場で、
分子生物学の台頭によって強力に支持された考え方である。
一方、生気説とは、生命現象には必ずしも化学反応だけで説明できないものも多くあるとして、
生命現象を個別に取り上げるのではなく、全体的な文脈の中から解釈することを提唱する立場である。
こちらは生態学や行動学といった分野から支持を受けた。
現在、この論争は一応、還元説の勝利ということで決着がついたと考えられている。
分子生物学が生命現象の解明に多大な貢献を果たしたことは自明であり、
従来、統計的手法でしか処理できなかった謎の多くが、これで解明されてしまったからである。
生気説は、複雑系研究が一つの砦として残っているが、
残念ながら有益な成果は上がっておらず、単なるシミュレーション研究の水準にとどまっている。
おそらく生気説はこのまま衰退することになると思うが、
その着想自体が、自然科学の発想に馴染みにくいということも論争に影響を与えたはずである。
なぜなら科学者の多くは、論理を超えた法則に魅力を感じないからである。
しかもそれを科学的手法で証明できないとなれば、
論争の結末が次第に還元説へと導かれていくのは必至だったと言えるだろう。
ところで、これと似たような議論は、政治学の分野にも存在する。
有名なのが、合理主義をめぐる論争である。
合理主義とは、あらゆるアクターは自己利益の最大化を目指して行動すると想定し、
それに基づいてアクターの政治行動を説明しようとする考え方である。
一方、政治行動はそのように単純なものではないとして、
歴史や制度、文化的・社会的要因に着目して分析する立場もある。
従来の研究手法では、後者の立場が主流であったが、
現在は前者の立場での研究が主流を占めており、
政治学の学術雑誌などでも、ほとんどが合理主義をベースにした研究となっている。
もっとも、こうしたアプローチの由来としては、
今日的には唯物史観が色濃く影響を与えているのだが、
それはともかく、アンチ合理主義の立場からの批判が著しく弱いのは、
多分、合理主義派が駆使する数式や統計的手法をほとんど理解できないからであろう。
しかし逆に、合理主義派の反論もいまいち正鵠を射ていないのは、
アンチ合理主義者が強調する文化的・社会的要因を自分の研究に含み込ませると、
合理主義を支える前提が崩れてしまうため、そうした批判には無視を決め込むしかない。
その結果、両者の議論は常に平行線を辿ってしまうのである。
先日、書店を何気なく散策していたら、
英国の保守思想家マイケル・オークショットの邦訳が重版されていたので、
遅ればせながら手にとって読んでみた。
マイケル・オークショット/嶋津格他訳
『政治における合理主義』
(勁草書房、1988年)
この文献は、まさしく合理主義を礼賛する者には強烈なカウンターとなる内容だが、
ここで強調されていることは、突き詰めて言えば「理性」の限界である。
情報として手に入る技術知と並んで、オークショットは生活から立ち上がる実践知の価値を見出し、
その二つが不可分なものであることを指摘して、合理主義の自己完結性を批判する。
自然科学では、存在の意味が問われない物質の世界であるがゆえに、
実質上、還元説が勝利を収めた。
だが、存在の意味をも問われる政治学の世界では、
化学反応のように政治プロセスが進むはずもなく、
その点では、確かに理性の限界を感じないわけにはいかないように思われる。
ここに政治学の難しさがあるのであって、
単純に物事の是非を決めてしまわないところに、その醍醐味があると言えるのである。