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History, Strategy, Ideology, and Nations

広報外交のリアリズム

2010年02月15日 | THEORY & APPROACH
 以前、このブログにおいて、「スマート・パワー」が持つ「賢明さ」というのは、
 結局のところ、リアリズム的思考に傾斜していき、
 それが自国の国益を正当化するための方便に堕することになると指摘したことがあった(1月月20日分参照)。

 元来、「スマート・パワー」論の最大の弱点は、
 何をもって「賢明さ」と判断するのかという点が曖昧すぎることにあると考えられるのだが、
 その提唱者であるジョセフ・ナイ教授が、今朝の『The Daily Star』紙に掲載した論評を読んでいても、
 やはりその点が一向に解消されていないことが大きく引っかかった。
 
 ナイ氏の主張によれば、国際政治における評判の役割は、ひいてはその国の信頼性にかかわることであり、
 長期的な視点で、他国との間に信頼し合える関係を構築していくことが目的とされている。
 その手段として、広報外交(Publuc Diplomacy)が重視されるわけだが、
 それは単純なプロパガンダと違って、政府以外のアクターとも協働しながら進めていかねばならず、
 政府の役割は、必然的に越境的な情報ネットワークを促進し、強化する方向となるとしている。
 
 Joseph S. Nye, Jr.,
 "Smart power needs smart public diplomacy"
 The Daily Star, February 15, 2010

 おそらくこうした議論に直接的な反論を試みることはなかなか難しい。
 なぜなら、確かにそれは正論であるし、外交上、必要なことでもあるからである。
 また、「長期的な視点」という文言を持ち出されてしまうと、
 提案されたものがいかに間接的で影響力の小さいものであったとしても、
 それが蓄積された効果を考慮しないわけにいかないので、
 やっぱり有効だという結論に持っていかざるを得なくなる。
 
 日本にも、「一生、幸せでいたいのなら、自分に正直に生きろ」という言葉がある。
 確かに、本当に正直であったなら、自分が負う責任の重さから回避されて楽になるであろうが、
 おそらく周囲はそれによって大いに振り回されることになるであろう。
 また、そうした「甘え」が許されるのは、夫婦や家族といった本当に気の許せる相手でしか無理であろう。
 信頼を得ることは、個人のみならず、国家においても大切なことではあるが、
 信頼を得るために、何ができるかを峻別し、それが実践可能かどうかを判断することは、
 また別の考え方が必要なのである。

 まして、国際政治というリアリズムが渦巻く世界の中で、
 果たしてどこまで「信頼性」といったものが秩序維持に貢献しているのかは、実証不可能な問題である。
 実際、あれほど親日であった日本が、いまや米国との距離を置こうと画策しているのは、
 米国自身の行動に問題があったのではなく、
 中国の台頭と日本のナショナリズムが奇妙に符合した結果、もたらされたものである。
 つまり、米国の意志にかかわらず、信頼性は突如、内政的な理由によって崩れることもあるし、
 逆に言えば、回復されることもあるのである。
 そうした状況を座視することなく、信頼性を回復、もしくは促進させたいとするならば、
 それは結果的に政治工作やプロパガンダを伴った工作活動に関与するしか方法がないだろう。
 
 ナイ氏の論評が曖昧であるのも、本当はこうした側面を持っていることに気づいているからではないか。
 もしそれに気づいていないとすれば、
 さしものハーバード大学教授も、あまり大したことがないと言わざるを得ないだろう。
 だが、ナイ氏ほどの知性がまったく分かっていないとは考えにくいので、多分、気づいているはずである。
 そして、それをあえて言わないのは、それこそ「信頼性」に関わるからであろう。
 言及しないことは、「嘘」ではない。
 ここに、広報外交のリアリズムがあるのかもしれない。