はしだてあゆみのぼやき

シナリオや小説を書いてる橋立鮎美が、書けない時のストレスを書きなぐる場所

いち原作ファンとして映画版『この世界の片隅に』の見過ごせない改変について その2

2017年03月20日 | Weblog
2.こうの漫画特有の難しさ

 私は映画版の解釈に不満たらたらなわけですが、その不満が生じる原因はこうの史代氏の描く漫画にもあることは無視するわけにはいきません。

 元々こうの氏の漫画の特徴として、さりげなさがあります。さりげなく描写された伏線を見つけ出したり、能動的に解釈したりしないと意味を汲み取れない箇所が少なくありません。このさりげなさが能動的に読み取っていくこうの漫画独特の面白さを産むのですが、わかりづらさにも繋がっています。
 元々わかりづらい表現を抱えているので、読者ごとに異なる解釈が生じることは避けられません。故に、片渕監督が映画版で見せた解釈と私の解釈が異なるのも、ある程度は仕方がない面もあります。

 そして、このさりげなさに実験的な作風が相まって、漫画でしか表現しえない面白さを原作漫画は抱えています。
 いきなり重要シーンのネタバレとなりますが、原爆投下の翌日に隣保館から出てくる場面を見てください。(下巻 p.83)


 コマの右端にさりげなく「黒い何か(人影?)」が描かれています。私がそうであったように、初見でこの「黒い何か」を見落とす人は少なくないでしょう。このコマだけをピックアップするとまだ目につきますが、漫画を読んでいると人物と台詞に視線が向くため、本当に見落としやすくなっています。
 そして、次のページでここで人が死んだという台詞に驚いて、慌ててページを戻して読み返して衝撃を受けたことと思います。黒焦げになりながら広島から歩いてきた被爆者を、人間だと気づかずに見過ごしていたという作中人物の驚愕と後悔を、読者にも体験させる驚くべき仕掛けです。
 しかし、ページをめくって戻れない映画では、最初からはっきりとわかるように「真っ黒に汚れた人がしゃがみこんでいる様」が描かれていました。

 このような漫画表現に特化した描写を駆使している原作である以上、映像化に際して表現を変えたり、多層的な意味が削られたりするのは仕方がない面もあることは理解しています。


 そして、この“さりげなさ≒わかりづらさ”は漫画的表現に限ったものではありません。描写している戦中の社会に対する批判的な視点も、はやりさりげなくわかりづらく描かれています。
 『ユリイカ』2016.11月号からの孫引きになりますが、こうの氏はインタビューで以下のように語っています。元のインタビューは『複数の「ヒロシマ」 記憶の戦後史とメディアの力学』(福間良明,吉村和真,山口誠 編著 青弓社)に収録されているようです。

「戦争中の資料を調べると、竹やり訓練でトルーマンとかチャーチルに見立てた的を刺したり、紙に描いてわざわざそこを歩くようにしたり、という描写があるんですけど、そういう特定の誰かを糾弾する様子は排除しました。というのも、庶民は自分たちが悪いという罪の意識も責任感もないまま、簡単に戦争に転がってしまうことがありうることを、いまの時代に伝えなくてはいけないと思ったのです。そういうのを入れちゃうと「この時代の人はこういうことをやっているからダメなんだ」と思って終わりなんですよ。[……]描くことで、逆に、いまの私たちとは違うんだっていうような、甘えのようなものが出てくるような気がしたのです」

 こういう問題意識の下、こうの氏は戯画的とも言える軍国主義下の社会の描写を避けるため、主人公すずに「戦争や軍に興味がなく、できるだけ遠ざけようとする」というパーソナリティを附与しました。そういうすずの目を通して見た世界からは、戦争に関するものは極力排除されています。
 しかし、まったく描いてないわけではありません。軍や戦争に無頓着なすずの目には映らなくても、彼女の周りにいる軍関係者や軍に好意的な人物から、当時の軍や社会への違和感の表明や批判的な言及がさりげなく為されています。

 ピンとこない方も少なくないでしょうから、1つだけ例示しておきましょう。義母サンが、海軍記念日に海軍中佐の講演会に参加した帰りの言葉です。(上巻 p.127)


 この「大ごとじゃ思えた頃が懐かしいわ」の台詞は、海軍記念日を祝して日の丸や旭日旗がたくさん翻る呉の街を見ながらのものです。足が悪いのに講演を聞きに行きたいと願うほど海軍(日本軍)に好意的な典型的な呉市民であるサンから見ても、1944年5月の海軍記念日の祝い方や社会の様相が「大ごと」=尋常ではないと感じられたことが読み取れます。また1944年以前のサンの記憶する“普通の時代”においては、海軍の街・呉においてもこれほど日の丸や旭日旗が翻ってなかったことも推測できます。この日の講演の演題は女子勤労動員や防空疎開でしたので、戦況の悪化の兆しも「大ごと」に含まれるかもしれません。
 これが映画版になると、同じ台詞が米を瓶で精米しながら発せられ、呉の上空を飛ぶ戦闘機や兵士の出征を見送る民家の情景を写していきます。「大ごと」の対象は、悪化した食料事情や戦況を指していると解釈するのが自然でしょう。日の丸や旭日旗が多数翻る世相の変化への漠然とした不安という要素は消えてしまいました。

 この批判性のさりげなさが原作漫画の面白さであると同時にネックにもなっていて、批判的な側面を弱めたり無視したりして解釈する読者が少なくないように思えます。極端な読み方の中には「こうの氏は当時の社会をありのままに描写して、軍や日本を批難してないから良い(大意)」なんていうものもあります。酷いものになると「イデオロギー的に偏った作品は当時の軍や日本を悪し様に描いているけれど、こうの氏が初めて当時の日本を正しく描いてくれた(大意)」などと、戦争を題材とした既存の作品を貶めるだしに使う人もいるようです。

 けれど、引用したインタビューにある通り、戦時中の戯画的な熱狂はあえて「排除した」ものであって、排除された漫画の描写が「当時の社会のありのまま」ではないことは明らかです。本末転倒というか、漫画『この世界の片隅に』も他の戦争を題材とした作品同様に、作り手が意図をもって過去の事象を取捨選択して構成した創作作品という当たり前のことが忘れ去られてしまっているようです。

 そして、映画版は原作漫画の批判性を薄めて、極端な読み方を助長するような改変が為されているように感じています。こうの氏があえて「排除した」という前提を知ったうえで、映画版に関する片渕監督のインタビュー等を読むと不安が募ります。過去の戦争作品の“記号的な戦時中描写”に異を唱えて、徹底的な調査をした自負があるのはわかるのですが、映画版の“リアルな戦時中の情景”を強調しすぎると、歴史修正主義に利用されかねないと思うのです。

 こういう危機意識のもと、原作漫画と映画版の描写の違いを読み解いていきたいと考えています。
 
 なお映画版の台詞の引用は、記憶に頼るのは不安だったので映画の脚本やコンテを参照したというノベライズ版に準拠しています。

いち原作ファンとして映画版『この世界の片隅に』の見過ごせない改変について その1

2017年03月20日 | Weblog
1.導入

 さて、いきなり反感を買いそうなテーマを掲げましたが、どこから語ればいいでしょうか。
 原作漫画と映画版の違いをネチネチとあげつらって解釈していく予定なので、基本ネタバレ上等のスタンスで語っていくつもりです。未読・未見の方はご注意ください。

 まずは、この問題に対する私の基本的な立場を明らかにしておきましょう。
 私は古いこうの史代ファンでした。『夕凪の街・桜の国』でブレイクする以前から注目をしていて、具体的には2001年の夏コミで『こっこさん』の同人誌版を購入して以来のファンです。以来、主にコミティアでサークル“の乃野屋”の新刊チェックをするようになりました。その頃に入手した同人誌版『夕凪の街』や『ぴっぴら帳・完結編』のサイン本は今でも宝物です。即売会にはすっかり足を運ばなくなりましたが、今でもこうの史代氏の商業新刊が出ると購入するくらいには好きではあります。

 一方、片渕須直監督にも恨みはありませんでした。
 むしろ『アリーテ姫』は好きな作品です。映画版『この世界の片隅に』(以下、映画版と略します)でも評価されている考証の手間のかけ方といい、理詰めの展開といい、今でもいい映画だと思っています。『BLACK LAGOON』のようなミリタリ趣味を題材とした作品も、娯楽作品として楽しんでいました。
 ただし、映画版のクラウドファウンディングには“嫌な予感”がして、迷った末に不参加を決めました。片渕監督のミリタリ趣味に沿って原作を切り取ったら、原作の良さが毀損されるのでは……と、恐れてのことです。
 予感が的中した今となっては、当時の判断を褒めてやりたい気分です。

 私が原作の良さ、漫画『この世界の片隅に』を読む醍醐味や「他の作品では味わえないユニークな面白さ」と考えているのは、朝日遊郭のリンやテルとの交流の部分です。戦前、戦中の遊郭を内部の芸妓の視点で描いた作品や、逆に外部の客(軍人)の視点から描写した作品は珍しくないと思うのですが、当時の庶民の(中ではかなり恵まれた)女性の視点から見た作品に出会ったのは初めてでした。もし、そういう視点の作品が他にあるなら知りたいと思います。
 そこで描かれているすずとリンたちとの価値観の相違や衝突こそが、原作漫画の特有の価値であり面白さだと思い、高く評価していました。だからこそ、私にとって肝心な遊郭周りの描写をごっそりカットした映画版には辛口です。

 また、原作漫画は主人公すずの“絵描き”としての半生をも描いた作品なのですが、映画版の絵描きとしてのすずの解釈には色々と納得いかない点があり、そこにも不満を感じています。

 このようなスタンスで、私が映画版に感じている不満を書き記していきたいと思います。
 私の視点や指摘が独自性の高いものだとも思っていません。これから私が指摘していく内容の大半は、同じような意見をネット上で見かけたことがあるものです。そうした映画版への違和感、不満点を記すと、しばしば映画版の熱心な支持者に批難されているのを見るにつけ、賛同しているこうの史代ファンもここにいるのだと書いておきたくなったのです。