駄馬にも乾杯を

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【宝塚記念】半世紀前の優勝馬を襲った「悲劇」ハマノパレード編

2024-06-19 09:41:57 | 競馬

【宝塚記念】半世紀前の優勝馬を襲った「悲劇」

 

★この馬好きだったなぁ

★当時他にも菊花賞2着馬スィンホウシュウとか同じくタマホープなんて言うトップにはなれなかったが実力は同等っていう感じの馬をよく応援したもんだw

 



18年ぶりに京都で開催される宝塚記念
 今週末23日は令和6年上半期の掉尾を飾る宝塚記念(G1)。京都競馬場で行われた年は結構あって、直近は単勝1.1倍のディープインパクトが駆けた2006年。1991年には横山典弘がメジロライアンで父子二代制覇を成し遂げる。もっと昔の1974年にはキャリア初の2番人気に甘んじた怪物・ハイセイコーがファンを嘲笑うかのように5馬身差の圧勝を演じた。

 しかし今も心に痛むのが1995年6月4日、阪神・淡路大震災の影響で代替開催となった淀の坂に散ったライスシャワーである。京都競馬場には改修後も鎮魂の石碑が建っている。今年もお参りしてからスタンドに向かうことにしよう。

 本稿では語られることも少なくなった、ライスシャワー以上の悲劇に包まれた伝説の名馬を取り上げたい。1973年の優勝馬ハマノパレードである。

悲劇に包まれた名馬ハマノパレード
 高素質の声も高かった同馬は1971年にデビュー、札幌五輪のあった72年の春までに3勝を挙げるも毎日杯、京都4歳特別を大敗しクラシックロードを断念、休養に入る。


 これが功を奏したか同年秋に復帰して連勝後挑んだ阪神大賞典で天皇賞・秋を勝ったばかりのヤマニンウエーブを破り3連勝で重賞初制覇。明けて5歳(馬齢は当時)の京都記念でも菊花賞馬ニホンピロムーテーを下し駒を進めたのが宝塚記念。

 当時はファン投票上位馬しか出馬投票できず8頭立てとやや寂しくなったが、直前の天皇賞・春の勝ち馬で同期のタイテエム、母子宝塚記念制覇を狙うナオキが1、2番人気でハマノパレードは4番人気。晴れ・良馬場でゲートは開く。

 絶好のスタートを切ったハマノパレードは“必殺仕掛人”田島良保を背に自慢の快足で後続を引き離して逃げ、直線に入ってタイテエムに詰め寄られるもクビ差振り切りゴール!当時の日本レコードで優勝、秘めていた素質が開花した瞬間であった。

 しかし喜びの日々は長く続かなかった。ハマノパレード陣営は3週間後の中京・高松宮杯に出走を決意、今から思えば無茶なローテーションだが当時は一流馬が別定重量で出走できる貴重で高額賞金のレースで、後に怪物ハイセイコーや天馬トウショウボーイも宝塚記念と高松宮杯を連覇している。

 1番人気は前年の天皇賞・春勝ち馬ベルワイドに譲るも、2番人気のハマノパレードはスタートを決め8枠から内に切れ込み宝塚記念の再現のように逃げる。直線に入っても脚色は衰えず、誰もが勝利を確信した残り150mでもんどりうったように転倒、勝ったのは2番手につけていたタケデンバードで彼は前年のクモハタ記念でも世紀の誤審騒動の中優勝、“魔性の馬”“死神”などと嬉しくない称号を戴くこととなった。

 一方、ハマノパレードは予後不良と診断され安楽死の処置が取られたと公式発表される。しかし、51年たった今も私のトラウマとなっているのだが、大手スポーツ紙の記者が「ハマノパレードは名古屋・食肉検査場に移送されて処分され食肉となった」と持論を展開、それが証拠に卸売市場で“馬370円”の相場が立ったと記し世間を震撼させた。

※がーん!これは知らなかった

 

 事の真偽は確かめようがなく、さもありなんと思わせる昭和の時代背景もあるが、悲劇は繰り返してはならない……そう改めて思う令和6年である。

 


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