冬桃ブログ

「魔」が消えるとき

  向こうから来る人の顔が、暮方の闇で定かに見えない。
 あれは誰だろう……と立ち止まってしまう時刻。
  それを「たそがれ(誰そ彼)時」と言う。
  明け方の薄闇は「かはたれ(彼は誰)時」。
  なんとも趣きのある日本語だ。
  「逢魔が時」も夕暮れ時のこと。
  だんだん濃くなる闇には、魔物も潜んでいる。
  私も長いこと、この「魔」を毎晩のように見ていた。

 30歳くらいの時、新築の戸建てを飛び出して、
小さなアパートの一室で独り暮らしを始めた。
 環七沿いに建つ鉛筆ビル。ワンフロアに1Kの部屋。
 外を行きかう車のせいで、部屋はいつも揺れていた。
 半端ない排気ガスが窓から流れ込み、咳が止まらなくなった。
 おまけにその部屋には魑魅魍魎が棲んでいた。
 電気を消して眠ろうとすると、暗がりがじわりと動き出す。
 少しだけ明るくすると、闇はその薄明りを受けて
さらにおどろおどろしく揺らぎ、血走った目や赤黒い唇をちらつかせる。
 
 恐怖のあまり、毎晩、煌々と電気をつけていた。
 朝の光が垣間見えると、ようやくそいつは消える。
 私は30分か一時間くらい、切れ切れの眠りにありつく。
 でも遮光カーテンなどなかったので、昼の光が容赦なく差し込み、
その短い眠りを奪っていく。
 いつになったら眠れるのか……。
 
 わかっていたのだ。
 これは自分の中にある罪悪感や不安が生み出した、
ただの幻想なのだと。
 でも、狭い室内を覆うかのような魑魅魍魎は、
あまりにリアルで恐ろしく、私の心身をずたずたにした。
「どうしたの、麻薬中毒患者みたいな顔して!」
 町でばったり会った友人が、叫ぶように言ったものだ。

 二年くらいもそんな状況だったのだが、なんとか
そこを脱し、ちゃんと眠れる暮らしに入った。 
 それでも、独りで夜を過ごさなければならない時には
その部屋の一隅に、あの魑魅魍魎がしつこく立ち現れた。

 ホテルという空間が大好きで、公私ともによく泊まった。
 それもビジネスホテルなどではなく、できれば由緒ある
ホテル、個性的なホテルを選んだ。
 「ホテルのカリスマ」と呼ばれる方と、何度か話をする機会があった。
「気に入ったホテルに泊まったら、なるべく出かけたりしないで、
部屋はもちろんのこと、ロビーや庭も含めてホテルそのものを
堪能してください。良いホテルは、そうしていただけるように
できてますから」という、その方の言葉に納得し、食事も
ルームサービスでとり、ただただホテル内を歩き回り、
部屋でぼんやりし……という過ごし方が好きになった。
 泊まるのは絶対に独り。たとえ親しい人が一緒でも
別々の部屋にしてもらった。

 なのに、快適なベッドに横たわり、明かりを落とすと、
あたりまえのことだが部屋のあちこちに闇が出現する。
 その闇に凝視され、頼みの綱の睡眠薬も効かなくなる。
 だからいつも寝不足だったり旅先で体調を崩したりしたが、
「ホテル好き」は変わらず、国内外でいろんなホテルに泊まった。
 おかげでいまではかなり緩和されたが、もちろん、どこにでも
そこなりの「魔」はいる。

 ベネチアの歴史的なホテルは、よじ登らなければならないほど
ベッドが高く、天蓋付きだった。「魔」が出て当然だったが、
朝方、起き上がったとたん、背筋が寒くなった。
 誰かに見下ろされている。

 天蓋のせいでゆうべは気が付かなかったが、ヘッドボードのすぐ上に、
マリー・ローランサンの絵が掛けられていた。
 なんとも恨めし気な目をした女二人。
 この目に一晩中、見つめられていたのかと思うと、
あらためてぞっとした。

 そういえば、横浜の某ホテルでは、同じくヘッドボードの上に
お墓の絵が掛かっていた。
 私は仕事で週一回、そのホテルに泊まっていたのだが、
さすがにフロントへ行き、「来週から絶対、お墓の絵の部屋に
しないでください」と言った。にもかかわらず、次の週も墓の下だった。
 で、そのホテルを取ってくれていた会社の担当者に「なんとかして」
と訴えた。担当者が抗議に行くと、ホテル側はしゃあしゃあとして
「どの部屋にも横浜名所の絵を掛けております。あれは外人墓地ですから」
と言ってのけた。
 担当者は「だからといって、誰が墓の下で眠りたいと思いますか!」
と怒ってくれて、ようやく次の週から、別の「横浜名所」の下で眠ることができた。

 私の「室内の一角に潜む魑魅魍魎」恐怖症は長く続いたのだが、
再びの一人暮らしが始まってから数年後、うそのように消えた。
 その前は相変わらず、自宅の闇でも怖かったのに、いまは
寝る間際までホラー映画や夏の怪談話特集などを平気で観ている。

 これは私の中のなにかが克服されたというより、たんに
歳をとって感性が鈍くなっただけではないだろうか。
 喜んでいいのか憂うべきなのか……。
 

 この写真は、いまはなき私の飼い猫「ノア」。
 カーテンの向こうにいるのだが、明かりの関係で化け猫みたいな写真になった。
 野良出身で最後まで心を許してくれなかったが、私にとっては愛しい家族だった。
 いつでも出てきてくれていいよ。幽霊でもいいから一度くらい抱っこさせて!

 
 
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