長野県の南にある下條村というところへ移住した。
私と同年代。独りで、十部屋もある家を借りて。
アウトドア派の彼は、晴耕雨読どころか渓流釣りや
スキーもそこでどんどん楽しむのだという。
私はアウトドアどころか、年中「動かざること
壊れた洗濯機のごとし」という人間なのだが、憧れてはいた。
いつか小さな漁港の町で暮らし、一坪くらいの畑を持ち、
そこでなんとか実った野菜と、漁港で「欲しけりゃ持ってっていいよ！」
と漁師さんが放ってくれる小魚を食べ、本を読んで、
ネットフリックスやアマゾンプライムで思う存分、映画を観る。
そうして、ある日、静かにこの世を去る……という暮らしに。
だから、大都会横浜から地方の村に、単身移り住んだ人の
生活実態を知りたいなあ、と思っていたところ、
「信州の冬は寒いけど、ようやく暖かくなったから、よければ
いらっしゃい」というお招きが紋次郎Ｋ氏から届いた。
彼は横浜にも拠点がある。用事で時々戻ってこられるのだが
友人である明眸Ｓ氏をピックアップして信州に戻るから、
私もその車に同乗してかまわない、と。
喜んで二泊三日の旅をさせていただくことになった。
かくして、明眸Ｓ氏とともに紋次郎Ｋ氏の車で、午前10時、
横浜某所を出発。四時間で下條村に到着……の予定だったのだが
ナビの調子が悪かったらしく、着いたのは午後5時過ぎ。
ほぼ走りっぱなしで7時間かかった。
しかし公共交通を使って行くとなると9時間以上かかるという。
思えば遠くへきたもんだ。
紋次郎K氏宅で合流したのは信州在住の男性二人。
剣客T氏とザビエルS氏である。
私も以前、信州の旅でお二人にお世話になっている。
それにしてもこのあたりは立派な門構え、蔵付きという
お屋敷ばかり。
だから10部屋もある家は「このあたりのスタンダード」なのだとか。
その広い家の中を一通り案内していただき、裏の畑も
見せていただいて、すぐ夕飯の支度。
甲斐甲斐しく働くのは男性陣。私は何にもしない。
郷土史家のH氏がみえて、この地域の話をしてくださった。
私はほぼ独占状態で、次々と繰り出される話を興味深く拝聴。
室町時代に始まる下條村の歴史、万葉集に複数残る「菅野荒野」という地名。
ここには昔、吉岡城という城があり、城下町だったそうだが、
その暮らしが「吉岡唄」という地域唄で伝えられていること。
戦国時代にここを支配した武田信玄のこと。
地域のコミュニケーションとしていまに残る「狼煙（のろし）」
の再現と、その存続を担う「武田信玄狼煙会」のイベントのこと。
さらに、なぜこの地域に「人形舞台」や「下條歌舞伎」などの高い文化が
残っているのか……などなど。
いきなり下條村の魂に触れた気分。
ディナーは紋次郎K氏お手製のトレトレ新玉葱入りビーフシチュー、
茗荷の芽を載せた冷や奴、おかかたっぷり新玉葱のスライス。
剣客T氏が豪快につくってくれたのは、新鮮なタケノコを刻み、
サバ缶とエノキダケをぶちこんだ味噌汁。
「米を炊くのを忘れたから、御飯は無し！」と紋次郎K氏が
途中宣言したが、素晴らしいデザートが登場したので誰からも
文句は出なかった。
剣客T氏の奥様が作ってくださったパウンドケーキ。
上に載っているのはフルーツではない。
細かく刻んだ野菜の甘煮！ とびきり美味しかった。
話を聴いたり食べたりで私も忙しかったので、気がつけば
この日、撮った写真はこのケーキのみ。
二泊三日の旅はこうして始まった。
食事が終わると、私は後片付けも手伝わず、ザビエルS氏の
車でホテルに送っていただいた。
郷土史家のH氏も帰宅なさったはずだが、残る男性三人はこの家に泊まる。
紋次郎K氏、明眸S氏、剣客T氏は、前身が優秀な行政マン。
ザビエルS氏は実業家として華々しく活躍した後、わけあって
敬虔なクリスチャンになったという方。
政治、行政、時事問題と、この夜はさぞかし談論風発だったに違いない。
