さて、だいぶ間が開きましたが、「松戸市立博物館」の続きです。
松戸市立博物館には、「公団 常盤平団地」の復元展示があります。
「公団 常盤平団地」は昭和35年入居開始の団地で、当時の居住者の平均は
「世帯主の年齢は20~30代、月収3~4万円くらい、年齢が若い割には比較的高収入、東京の中心部に勤めるサラリーマン、家族形態は夫婦のみ又は夫婦と幼児」
という形態であり、現在風に言うと、まさに「勝ち組」が住んでいたのです。
実は、建設当時の「公団団地」は、若い夫婦にとって、まさに「六本木ヒルズ」並みの、憧れを抱いた住宅だったのです!!
…今じゃすっかり、「ボロイ」「汚い」「狭い」「貧しい」等などのネガティブなイメージしかない「公団団地」ですが、当時は、「団地族」と呼ばれ、人々の羨望の的だったのです!!
ちなみに、昭和35年版『国民生活白書』では、この「団地族」という言葉を、
「世帯主の年齢が若く、小家族で共稼ぎの世帯もかなりあり、年齢の割には所得水準が高く、一流の大企業、公官庁に勤めるインテリ、サラリーマン」
と、説明しています。
公団団地は「抽選」で入居が決定するのですが、当時の倍率は10~20倍まで上昇し、「宝くじに当たるよりも、当選するのが難しい」と言われていました。(今考えると、信じられませんね…。)
当時、まだまだ木造・風呂無し・非水洗トイレのアパートが一般的であった中で、「公団団地」は
「鉄筋コンクリート」「清潔な水洗トイレ」「各家庭に風呂完備」ステンレスのダイニングキッチン」
という、まさに若い夫婦の憧れが、全世帯に完備されていたのです。
補足ですが。
「公団団地」とサラリと書いてしまいましたが、「公団」とは昭和30年に設立された「日本住宅公団」の略称(通称)で、現在は「都市再生機構(UR)」と名を変えて存在しています。
でれすけは、すでに存在しない「公団」という言葉を連発して書いていますが、団地に対する愛着と、「公団」の実績の偉大さに経緯を表して、ここでは「公団」と旧称で書いていきます。
さてさて、前置きが異常に長くなりましたが(本当はもっと書きたいことがいっぱいあるのですが。)、早速本題に移りましょう。
松戸市立博物館の2階、「総合展示」では、初めて人々が松戸にやってきた約3万年前からの歴史が展示されいます。
「公団 常盤平団地」は、「都市へのあゆみ」として最後に展示されています。
それでは、「都市へのあゆみ」のコーナー、始まりです!!
まず、最初に目に入るのが「常盤平団地の案内図」。
常盤平団地は、「団地」の定番とも言える、四角くて4~5階建て位の「中層フラット棟」だけではなく、単調な団地にアクセントを加える目的で建てられた「星型住宅(スターハウス)」なんかも建てられています。
でれすけが子どもの頃住んでいた団地にも、星型住宅が3棟建っていました。
星型住宅は中層フラット棟とは異なり、北側から入り、螺旋階段で各居室へ向かうため、階段室に光があまり入らず、昼間でも薄暗い「星型住宅」が怖かった思い出があります。
…しかし、団地巡りを始めてからは、そのデザイン性の高さと、収納から採光等、全てにおいて先人の知恵が凝縮されている「星型住宅」にすっかり魅せられ、今では「星型住宅」のある団地を発見すると、テンションがあがってしまうのです…。
また、案内図からは分かりにくいと思いますが、「公団団地は、冬至の日でも、日照時間が4時間確保できる方角」を向いて建っています。
でれすけが、幼い頃過ごした団地も、南向きで、冬でも窓を開けて日向ぼっこをしていました。
団地の外観です。
常盤平団地は、窓枠は木製ではありませんが、でれすけが幼い頃過ごした団地の窓枠は、木製でした。
しかも、でれすけが幼少期を過ごした団地は、今年取り壊されたのですが、2007年まで、木製の窓枠のままだったそうです…。
常盤平団地の「玄関」です。
やたらとでかい「のぞき窓」、牛乳受け…懐かしいです。
牛乳受けは、でれすけが過ごした昭和50年代には使われなくなっていましたが、昔は牛乳配達が一般的で、どこの家庭も当たり前のように使用していたそうです。
ちなみに、でれすけ家では、「家族共用の家の鍵」の隠し場所にしていました。
今考えると、バレバレですね…。
「玄関の鍵」の補足ですが、大規模に「シリンダー錠」を導入したのは「公団団地」が始まりとされています。
現在では当たり前のシリンダー錠ですが、「公団」が導入したことによって広く普及したのです。
このような小さな所からも、「公団」の果たした役割の大きさを感じます。
玄関から、反対側のお宅の玄関を見てみました。
ちなみに、ここの団地のドアの色は「白」ですが、団地のドアの色は、十人十色ならぬ「十団地十色」とでも言いましょうか、様々な色があります。
でれすけが幼少期に住んでいた団地は、1階ピンク、2階青、3階黄色、4階緑と、階によって色分けされていました。
牛乳受けとインターホンのアップです。
初期に入居したお宅のインターホンの音は、クイズ番組で「不正解」の場合に使われるような「ブ~!!」という音が一般的でした。
その後、入居したお宅では、「正解」音みたいな「ピンポ~ン」という音になりました・・・。
「インターホン」が、一般的では無い時代に、インターホンも完備されていた「公団団地」。
若い夫婦が憧れるのも納得がいきます。
さて、今回は、玄関までで終わってしまいましたが、次回からは、部屋に潜入していきます!!
それでは、また。
松戸市立博物館には、「公団 常盤平団地」の復元展示があります。
「公団 常盤平団地」は昭和35年入居開始の団地で、当時の居住者の平均は
「世帯主の年齢は20~30代、月収3~4万円くらい、年齢が若い割には比較的高収入、東京の中心部に勤めるサラリーマン、家族形態は夫婦のみ又は夫婦と幼児」
という形態であり、現在風に言うと、まさに「勝ち組」が住んでいたのです。
実は、建設当時の「公団団地」は、若い夫婦にとって、まさに「六本木ヒルズ」並みの、憧れを抱いた住宅だったのです!!
…今じゃすっかり、「ボロイ」「汚い」「狭い」「貧しい」等などのネガティブなイメージしかない「公団団地」ですが、当時は、「団地族」と呼ばれ、人々の羨望の的だったのです!!
ちなみに、昭和35年版『国民生活白書』では、この「団地族」という言葉を、
「世帯主の年齢が若く、小家族で共稼ぎの世帯もかなりあり、年齢の割には所得水準が高く、一流の大企業、公官庁に勤めるインテリ、サラリーマン」
と、説明しています。
公団団地は「抽選」で入居が決定するのですが、当時の倍率は10~20倍まで上昇し、「宝くじに当たるよりも、当選するのが難しい」と言われていました。(今考えると、信じられませんね…。)
当時、まだまだ木造・風呂無し・非水洗トイレのアパートが一般的であった中で、「公団団地」は
「鉄筋コンクリート」「清潔な水洗トイレ」「各家庭に風呂完備」ステンレスのダイニングキッチン」
という、まさに若い夫婦の憧れが、全世帯に完備されていたのです。
補足ですが。
「公団団地」とサラリと書いてしまいましたが、「公団」とは昭和30年に設立された「日本住宅公団」の略称(通称)で、現在は「都市再生機構(UR)」と名を変えて存在しています。
でれすけは、すでに存在しない「公団」という言葉を連発して書いていますが、団地に対する愛着と、「公団」の実績の偉大さに経緯を表して、ここでは「公団」と旧称で書いていきます。
さてさて、前置きが異常に長くなりましたが(本当はもっと書きたいことがいっぱいあるのですが。)、早速本題に移りましょう。
松戸市立博物館の2階、「総合展示」では、初めて人々が松戸にやってきた約3万年前からの歴史が展示されいます。
「公団 常盤平団地」は、「都市へのあゆみ」として最後に展示されています。
それでは、「都市へのあゆみ」のコーナー、始まりです!!
まず、最初に目に入るのが「常盤平団地の案内図」。
常盤平団地は、「団地」の定番とも言える、四角くて4~5階建て位の「中層フラット棟」だけではなく、単調な団地にアクセントを加える目的で建てられた「星型住宅(スターハウス)」なんかも建てられています。
でれすけが子どもの頃住んでいた団地にも、星型住宅が3棟建っていました。
星型住宅は中層フラット棟とは異なり、北側から入り、螺旋階段で各居室へ向かうため、階段室に光があまり入らず、昼間でも薄暗い「星型住宅」が怖かった思い出があります。
…しかし、団地巡りを始めてからは、そのデザイン性の高さと、収納から採光等、全てにおいて先人の知恵が凝縮されている「星型住宅」にすっかり魅せられ、今では「星型住宅」のある団地を発見すると、テンションがあがってしまうのです…。
また、案内図からは分かりにくいと思いますが、「公団団地は、冬至の日でも、日照時間が4時間確保できる方角」を向いて建っています。
でれすけが、幼い頃過ごした団地も、南向きで、冬でも窓を開けて日向ぼっこをしていました。
団地の外観です。
常盤平団地は、窓枠は木製ではありませんが、でれすけが幼い頃過ごした団地の窓枠は、木製でした。
しかも、でれすけが幼少期を過ごした団地は、今年取り壊されたのですが、2007年まで、木製の窓枠のままだったそうです…。
常盤平団地の「玄関」です。
やたらとでかい「のぞき窓」、牛乳受け…懐かしいです。
牛乳受けは、でれすけが過ごした昭和50年代には使われなくなっていましたが、昔は牛乳配達が一般的で、どこの家庭も当たり前のように使用していたそうです。
ちなみに、でれすけ家では、「家族共用の家の鍵」の隠し場所にしていました。
今考えると、バレバレですね…。
「玄関の鍵」の補足ですが、大規模に「シリンダー錠」を導入したのは「公団団地」が始まりとされています。
現在では当たり前のシリンダー錠ですが、「公団」が導入したことによって広く普及したのです。
このような小さな所からも、「公団」の果たした役割の大きさを感じます。
玄関から、反対側のお宅の玄関を見てみました。
ちなみに、ここの団地のドアの色は「白」ですが、団地のドアの色は、十人十色ならぬ「十団地十色」とでも言いましょうか、様々な色があります。
でれすけが幼少期に住んでいた団地は、1階ピンク、2階青、3階黄色、4階緑と、階によって色分けされていました。
牛乳受けとインターホンのアップです。
初期に入居したお宅のインターホンの音は、クイズ番組で「不正解」の場合に使われるような「ブ~!!」という音が一般的でした。
その後、入居したお宅では、「正解」音みたいな「ピンポ~ン」という音になりました・・・。
「インターホン」が、一般的では無い時代に、インターホンも完備されていた「公団団地」。
若い夫婦が憧れるのも納得がいきます。
さて、今回は、玄関までで終わってしまいましたが、次回からは、部屋に潜入していきます!!
それでは、また。
年末、実家に帰ったついでに、少し足を伸ばして公団芦花公園団地をはじめ、公団烏山南住宅、公団烏山第一団地、公団芦花団地を見てきました。
テラスハウスの烏山第一と市街地住宅の南住宅を除いて、全ての団地で建て替えが進んでいましたが、全て高層で、昔の面影は無く、「住みにくそうだなぁ…」というのが正直な感想でした。
特に、公団芦花公園団地では、昭和33年に完成して以来、約50年かけて育ててきた木々も、かなりの数が伐採されていて、大きなショックを受けました…。
とにかく、最近のUR住宅は、戸数を増やすことに一生懸命で、住む人の「暮らし」には目を向けていない作りだなぁ~と、素人目には映ってしまいます。
昭和30年代に建設された団地は、「陽当たり」「人的交流」に関しては、文句無しだと思います。
特に、公団芦花公園団地は、【NSツイン】という、北側入り口のタイプの中層棟と、南側入り口の中層棟が向かい合っている、あまり普及しなかっためずらしい配列の団地だったため、自分の住む棟と向かい合った別の棟に住む住人とも交流を深める事ができるというメリットがありました。
そのため、普通は、自分の住む棟の住人との交流が深い中で、他の棟との交流もかなりあったという、めずらしいタイプの団地でした。
昭和30年代築の団地は、エレベーターなどが無く不便な他、近年は入居者の高齢化が進み孤独死なども問題となっていますが、良いところも沢山あります。
古い団地を全て否定せず、良いところはどんどん吸収して、新しい団地を作って欲しいなぁ~、と、個人的には思っています。
低層・中層・高層、全てにおいて長所・短所はありますが、それらをうまく組み合わせた団地、見て見たいです!!
本当に、どこの団地に行っても、陽当たりがバッチリで、戦後たった10年で、よくもここまでの設備を整えた団地を建設できたもんだなぁ~と、感心してしまいます。
今建替えられている芦花団地は、住戸数を増やす為に高層棟や西向きの棟も建てられていて、昔のようにどの部屋も南向きで、ベランダで日向ぼっこが出来る計画ではありません。
低層、中層、高層を上手く組み合わせてたヒューマンスケールな団地は出来ないものでしょうか?
団地レポートを楽しみにしています。