風の谷軌道を訪れたのは昭和41年、夏の終わりのことだった。
かねて面識があった松郷の中学教諭、宇園参八氏から葉書が届き、「さきのアベック台風禍で軌道の復旧が長引いています。この様子では恐らく、運休明けの滞貨搬出で予備のコッペルに火が入るはずです。」というのである。要は撮影行への誘いだった。当時から宇園氏は教鞭をとる傍ら、七国山鉄道およびその子会社線に関する踏査研究に没頭中で、何冊かの書物を自費で出版されてもいた。
申訳ないことに私はと云うと、チンケなディーゼルが薄汚れた鉱車を牽く、「たかがカゼノタニ」、何処にでもある産業軌道、といった程度の認識しか持ちあわせていなかった。おまけに交通もすこぶる不便ときて、全く食指の動く対象に入っていなかった筈だが、手紙の末尾・・・
「正真正銘『現役』のコッペルを見る、これが最期の機会かもしれませんねぇ」
・・・という捨て台詞がどうにも引っ掛かり、とうとう重い腰をあげる気になったのだった。
宇園氏との約束の日、早朝から自宅を出て電車、汽車、と乗り継ぎ松郷市へ。県庁前から国鉄のバスに揺られること1時間半、ようやく『小杉谷』という人気のないバス停に降り立った時には、もう正午をまわっていた。次のバスまで三時間もあったが宇園氏は来ていなかった。
宇園氏との約束はすっぽかされる事のほうが多かったので特段驚きもしない。また一人で探索か、と腹を据え、帰りのバスの時間を確認、まずは『軌道のありか』から探す事にする。
すっぽかす方もすっぽかされる方も、とにかく皆がおおらかだった。もし携帯電話などという物があったらこうはいかない。
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レールを探してウロウロしていると、突然かすれたタイフォンが響き、それまでの静けさが嘘のような機械音とともに、ロッド式ディーゼルに牽かれた鉱石列車がバス停のすぐ傍を走り抜けていった。
なんのことは無い、土に埋もれた軌道は、今しがた走って来たバス道路の端を遠慮がちに併走していたのだった。
とりあえず列車の来た方角へ歩いてみる。バス道と軌道をはさんだ山側の傾斜地には比較的近年のものと思しき小さな鉱山跡があったが、それは『閉山』というよりも『夜逃げ』と云ったほうがふさわしい、時間が止まったような風情をみせていた。鉱山跡を過ぎると村の自治会の掲示板があり、八幡社の秋季大祭が近いことを知らせている。見れば脇道の奥には鳥居もあって、どこからか囃子の笛太鼓の音が聞こえたような気がした。それにしても、たまに通る自動車の土埃で口の中がざらつく。
今度はさきほどのバス停のほうからナベトロの長編成がやってきた。こちらは積車だった。かなり大型の真新しい機関車が牽いている、新造機だろうか。
これはもっと奥を見に行くほうが面白そうだ、と『鉄道屋の直感』でバス停のほうへ戻ることにした。
実際は、この『直感』で痛い目をみる事のほうが多かったのだが・・・
そのまま歩くと、件のバス停を過ぎた辺りから軌道は道と別れ、昼なお暗い渓谷沿いへと険しさを増してゆく。 運休明けの巡察か、青い機関車が人車とも制動車とも判じ難い怪しげな車輌を従えて走り去った。最初にバス停で見たカマと似ているが、ロッドは付いていない、よくよく見ると実に好くまとまった端正な姿をしている。どこのメーカーの作だったのか・・・
旅客扱いは無いと思い込んでいたこともあって、この単端式には面食らった。
四角四面で魅力には乏しいカタチ、とは云え、さすがに当時国内で『生きた単端式』を見ることは出来なくなっていて、貴重品である事に変わりはなかった。
当時はまだまだこの手の小軌道の情報は皆無にちかく、こういう「出会い頭の発見」の余地が我々『しろうと』にも充分残されていた。考えようではむしろ好い時代だったかも知れない。
小さな鉄橋のわきで、夏草に埋もれた案内板をみつけた。
『お万の淵』 平家物語に絡めた悲恋の言い伝えだったと思う。この鉄橋は、世をはかなんだお万が身を投げた、という伝説の底無し淵のうえに架かっていたようだ。
せっかくなので鉄橋下に降り淵を眺めていると、轟音とともに見たこともない素性不明の機関車が頭上を通り過ぎた。なんとも車輌趣味の見地からは侮ることのできない鉄道、と云わざるを得ない。宇園氏が踏査に夢中になる気持ちにも、「さもありなん」 納得したことだった。
結局この日はすっぽかされたのだが・・・
蒸気機関車のホイッスルに慌てて線路端に駆け上がる。今日のお目当て、コッペルだ。 カメラを構えた私に気づいてか、あるいは橋の強度に不安でもあるのか、コッペルは精一杯の徐行運転で通過してくれた。
果たしてこのフォトラン?が、『正真正銘、現役のコッペル』を見た、まさしく最期になった。誘ってくれた宇園氏には感謝しないといけない、ただし結局この日はすっぽかされたのだが・・・
人里離れた山の中、の筈だったが、不思議なことにまたお囃子の音が聞こえた。ふと見ると鉄橋の脇に小道があり、遠くに見覚えのある鳥居が見えるではないか。
帰りのバスの時間もあるので、今日の探訪はここで切り上げることにして、小道に入り鳥居を目指して歩いた。
気持ちのよい雑木林を15分ほども歩いたろうか、鳥居をくぐり先だっての自治会掲示板の傍に出た。その時はなんとも思わなかったが、あとで考えるとあの軌道の路線配置は一体どうなっていたのか? また『八幡社』は何処にあったのか?どうにも説明のつかない事ばかりだ。
バス道を歩き始めると、さっきとは違う単端式がユサユサと追い抜いていった。こちらは中々風情のある佇まいを見せていた。
バスを待つ間、件の『夜逃げ鉱山』をのぞいてみる。ある時突然人々が消え去ったかのような、生々しい「ひとけ」を感じて、さすがに構内の探検はやめにした。事故でもあったのだろうか。なにやら妙な寒気と、やたら人恋しい気持ちに襲われ、とにかく帰りのバスが待ち遠しかったのを憶えている。
さて、もう五十年ちかく昔の話にお付き合い願った。
百鬼夜行だった車輌たちのこと、おかしな路線配置のこと、不気味な鉱山跡のこと、いま思うと宇園氏に聞きそびれた「ひっかかり」がいくらもある。この探訪後、氏と会うことは一度もないまま、残念なことに一昨年帰らぬ人となられたが、松郷市の図書館には氏の研究成果『宇園文献』が未整理のまま保管されている、と聞く。
実は最近、この体の動くうちにそちらへ通よってみようか?と考えはじめたところだ.。あの日半日がかりで向かった松郷の町も、いまや新幹線で30分の隣駅になってしまった。とうに齢七十を過ぎてしまった私でも通えなくはない。
『宇園先生の置土産』をきちんと整理、ひもといて五十年来の「ひっかかり」をすっきりさせる事、くわえて郷土の産業史研究にいくらかでも資する事が出来るならば、これ以上の弔いはないだろう。
そうだ、『最期のコッペル』の借りもある・・・
ま、あの日は結局すっぽかされたのだが・・・
直木賞を授かっても、
9ミリナローを続けてください
ウチも早くこういうのやりたーい!!
多種多様な列車が来るのも、妄想ならではですね
皆様こんばんわ
産業軌道の怪しさ、うまく伝わりましたでしょうか?
トワイライトに振りすぎてホラ話ならぬホラー話に・・・
まーくん
「運材者」のバージョンアップはどうですか?
来年は「運材者の逆襲」をゼヒ
カワイさん
「作文」が・・・ 腕組みして考えつつ、ふと「オレなにやってるんだろ」とか・・・
雀坊さん
キィハンター、堪能しました~
ちなみに「尾小屋5号のキットが出ない」これ、どういうワケなんすかね?
浜リン@今日も半田付け さん
戦地寝る、おっともといセンチネル料理、美味しそうですねぇ~
今日はまたひときわコテコテの味付けを
例のお揃いのものですか?
風景と文章に目を奪われて
今、気がつきました
「産業軌道のムード」読み入ってしまいました・・・自分もその昔ナローゲージモデリング内のAさんの「尾小屋や頚城の記事」や高井薫平さんの「軽便追想」など文章と風景写真で過去を疑似体験旅行できる書物が大好きなので・・・・凄く楽しめました・・・・次回のストーリーも楽しみにしております
あらためまして、おじゃまいたします。
当地では現在男鹿和雄展が開催されていまして、先日観に行って来たばかりなものですから、
今、私の頭のなかでは、ナガウラワールドと男鹿ワールドが大きなうねりになってクラクラ状態です。
これからも楽しませていただきま~す。
例の難あり品です。
サイズがトロッコシリーズにビンゴ
絶妙な歪み捩れがいやらしいほどリアルで
まーくん
「2号機」怖いっす!ロボ~~!!
KBMC@Hさん
自分も「夕陽に映える鉄道」や「鉄道賛歌」にシビれて、いつかは自分のモケイでこういうのを、と企んでました 喜んでいただいて休日一日ツブした甲斐がありました
>次回のストーリーも・・・・
ひえ~っ!もう勘弁してください~~
いずみ@雑木林のガソさま
おぉ~!すごいです、ご明察です~
実を言うと、このお立ち台も「ねずてん」を脇に置いて身ながら作ってました。
男鹿和雄展、いいですね。ボクも行かないと!
北九州ではどうなんでしょうか?さっそくネットで調べてみます。有難うございました