老人はずっと天井を見上げていた。
雨漏りのシミでぐずぐずに汚れた天井だった。天井だけでなく、部屋全体が砂利混じりの埃と、ぼろぼろの家具から剥がれた屑にまみれていた。×状に打ち付けられた窓板が全てを物語っている。庭には人の背丈ほどもある雑草がボウボウと茂っているため、外から中を窺い知ることは出来ない。
黄色く変色した布団に横たわり、老人は口を半開きにしたまま、空ろな顔で、ただ、宙を見上げていた。
その白濁した眼球は、もう、何も見えていない。
ただ言い様のないどんよりした苦痛と諦観の相のみ。
老人は破れ家で、孤独な死を迎えていた。
『ご老人』
ふと、静かな声が耳を打った。
そんな馬鹿な、と老人は今際の際の頭で思った。耳は既に聞こえなくなっているし、何より此所にはもう誰もいないじゃないか。嫁はだいぶ前に逝ったし息子たちは儂をほったらかしで今どこで何をしているかも全く知らない。近所の連中もこの一帯の治安悪化で皆逃げちまった。もう、誰ァれも居やしない。
『ご老人』
…ああ、そうか。これがお迎えって奴か。
『残念ですが、死者幻想の類では御座いません。ご老人。あなたはまだ生きておいでだ』
声は苦笑しているようだった。
『今日、私はあなたのお力を借りに参上したまでです』
こんな、死にかけの老人に…かい?
ひたりとした感触がある。声の主は、片手で老人の額に触れているようだ。
見知らぬ相手なのに、妙に心地よかった。
『ここにひとつの魂魄が御座います。位相の異なる場所から来た者です。そして寄る辺もなく消え去る運命にある者です。…あなたと同じように。
この者と契約を交わせば、あなたは寿命を手に入れることが出来ます。それこそ、無限に』
………
『無論、無理にとは申しません。ヒトとしての天寿を全うすることに意義をお持ちであれば、それを尊重致しましょう』
………儂は今まで真っ当な人間であることに誇りを持って生きてきた。だが、その結果が、これだ。もう、みんな、善悪も、何もかもくそくらえだ。新しい人生が手にはいるなら、何だってするさ。
‥何よりそいつがちょっと可哀相だしな。
老人も苦笑した。枯れ枝のような右手が差し上げられ、何かをつかむように動く。
その手が、確かに握りかえされた。
悪霊と爺と
「御老体、飯だ」
「むむむ…」
ちゅんちゅん。朝の凛とした空気に、ビルの所々から立ち上る白い煙。空は雲一つなく澄み渡っている。冬の朝。
縁側に腰掛け、車椅子を側らに老人Xは目の前の膳を見つめていた。正確には、
「何を惑っておる、早く食するがいい。我(われ)が腕によりをかけた料理だぞ」
「や、そりゃわかっとるが」
見るからに手の尽くされた、病院食も真っ青な、
「おまえさんなぁ」
大量の薬膳粥を。
「朝は
白飯味噌汁・ゆで卵に干しガレイのあぶりと何度言ったらわかるんじゃ! こりゃ、スープに飯突っ込んだだけじゃろ!」
「10時間煮込んで出した肉汁のスープに、手に入る限りの薬草だぞ!? 老いたニンゲンには粥と決まっている。食えないものをねだるな」
米とて最近高価なのだぞ。と付け加えるのは、朝日を背に老人Xの正面にずんと鎮座する、異形の生物だった。否、注意して見ると後ろの庭木が透けているところから、どうやら精神体――俗に言う幽霊の類らしい。
夜市の道に張り巡らされた時空トラップの主がひとり、アジ=ダフーカである。
ゆうに5メートルを超える巨体を狭そうに縮こませ、三つの頭に何故か三角巾を付けて(当人にシャレのつもりはないだろうが)、黒い鈎爪でちんまりと湯気の昇る鍋を抱えている。背中の羽が陽の光で瑠璃色に透けていた。
「ハン、お得意の魔法で儂の歯を復活させりゃよかろうに」
「魔法とてロジックは存在する、この世界では既に失われて久しいものの再構築は不可能だ!
‥ええい! 嫌なら食うなッ」恐ろしげに吼えるが、
「へっ。んじゃ、共にあの世へ旅立つかのぅ」
「お願いですから食べてください御老体殿」
あっさり負けた。
老人Xはしぶしぶといった動作で匙を取り、ひとすくい口に運んだ。
咀嚼。
お、と驚きに皺だらけの顔が伸びて、飲み下す。
「どうじゃ?」
自信満々の笑みを浮かべ、三眼の首が尋ねる。答える側も笑顔。
「まっずいなぁコレ!」
コンクリート街の片隅に、遠吠えじみた悲鳴がこだまする。
老人Xが食事をとっている間、アジは布団を干すことにした。
破れ家に水道は通っていないので、辺りのマンホールから失敬する。汚水から不純物を分離させ真水を取り出し、玉にして布団にぶつけ、何度か続けて洗い、破かないように絞って竿に干す。
爪先で引っ張り形を整えながら、アジは鬱々と罵っていた。
「この我が、何故、給仕の真似事などせねばならんのだ。こんなニンゲンごときに、しかも老いたニンゲンに、我が毒息ひとつで死に絶えるような輩に!」
我のような大物竜にこのような仕打ちは非道いっ、不釣り合いだっ、断固抗議する!
「ああ…こんなせせこましい所でなく、戦場で力を奮いたい。存分に魔力を駆使したい。砦を吹き飛ばし、敵を粉微塵にしたい。そして我の驚異に震えるニンゲンを、恐怖ごとむさぼりたい。――しかしこの世界ではそれも叶わぬ」
はぁ。溜息が漏れる。たてがみがしゃらしゃらと揺れ、色がぼんやり変わってゆく。
水が余ったので、ついでに洗濯物も片付けた。魔力で操った水は的確に汚れを洗い流し、真っ白のシーツとパンツが風に揺れる。
呪詛は、いつしか己がここにいる訳の探索に変わっていた。
「何故、何故、何故。…思考をたどるといつもこの迷宮に陥るな。あの老体の頭にも記録がない。だが、奴ごときが我を召還したとは考えにくい。しかし、我自身にも身に覚えが……」
つかの間の沈黙。
「自己分析データは各頭部に保持してるのに、おかしいな」
四つ目の首がひとりごちる。
「なんか、感触が、引っかかる」
額に角のある首がぽつりと言った。
「感触? 感触。感触感触かんしょく。………そうだ。手、の、、、
誰かの、手。てが」
三つ目の首がぎょろぎょろ目を旋回させて、思考の底から何かをさらいかけた、
そのとき。
『手がどうかしたのかね、ダフーカ嬢?』
「「「ンぎゃあ!?」」」
アジは飛び上がって驚いた。アハハと朗らかな笑い声に、三首そろって真っ赤になって振り返る。
誰もいない。
「なななななっ…! だ、誰だ、隠れてないで姿を現せぃっ」
『ふふ、私はここですよ』
「!」
悪戯っぽい響きと共に、つうと三つ目の鼻先を感触がなぞった。
瞬間、急速に思考が組み変わる。
そうだ、思い出した。手は。柔らかくて気持ちいい、この手は。
あの御方のだ。
来てくださったのですね。
『こうして触れるのは久しぶりですね。貴女の肌はすべすべで、』
鼻先を愛撫し、口元を通って顎下、のど元へと。冷たい蠱惑的な指先の動きは、触れる箇所を熱くさせてゆく。
『それでいて鱗は鋭すぎず小さすぎず、面白い触感で。飽きませんね、ずっと触れていたくなる』
隆とした胸元に達すると、ぐっと強めに指を食い込ませた。
「ふ」
その刺激に、ふるりと霊体が揺らめく。
アジの巨体が、手なずけられた猫のようにくたりと沈み込んだ。全身の羽根が赤紫がかった輝きを放っている。それを弄びながらなだめるように撫で続ける、手。
『失礼、戯れが過ぎましたね』
「…あ、…いや別に…今日は」
『ええ。ところで今日窺ったのは、貴女にお任せしている罠と、近日増えてきた夜市小路探索をしようとする輩の排除の件でしてね――』
声はそう言って用件を訥々と告げていった。
撫で続ける手。その優しげな様子に反し、
声には昏い陰湿さが多分に含まれていた。
アジはそれに気付くことなく、夢心地のままうなずいていた。
思考を停止し、恍惚にぼんやりとしたアジの頭には、与えられる言葉は絶対のものとして刻まれてゆく。
そうして、どれほど時間が流れただろうか。
アジがはっと顔を上げたとき、まだ目の前の洗濯物は水をしたたらせ風に揺れていた。
ぱちくり、と目が瞬く。
「うむ? 今何を考えていたかな」
はて、と三つそろって首をかしげた。どうしても思い出せぬ。たった1秒ほどの間の思考なのに。
「全く、御老体のせいでストレスが溜まっているのか。ええい我としたことが、忌々しいのう」
己を叱咤させると、
「おいっ!」
アジは苛立ち紛れに振り向いて老人Xに呼びかけた。
「いい加減もう食事は終わったろう……………な?」
老人Xは縁側にいなかった。
代わりに、外通りから若い女の悲鳴が聞こえてくる。
きゃーっ、なにこのジジイ!
うほほほほボインちゃ~ん♪ 待っておくれぇえええ
キャーー
「………」
‥寒い風が、脇を吹き抜ける。
そしてアジは、次第にわなわなと震え始めた。
手の中の洗濯かごが、バキッと盛大な音を立てて粉砕された。
「ジ ジ イ ―――!!! いい加減にしないかぁああああッッッ」
怒声を伴って飛び出す怪物。
その犠牲者は、はたして憑き人か、セクハラ被害者か。
はたまた、悪霊自身か。
その判定は、いつか来る滅びの時に下されるであろう…
THE・小休止
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あとがき:
なんだかようやく活きたキャラを描いた気がしますorz設定画ばかりの夜市キャラ’Sですが、頑張ってエピソードなど書いていくよ!
*キャラ設定等*
(前にデータが消えた話は保留になりました。もうちょっと練り直してから出直してきます)
…で。
後半。自分の脳内で繰り広げられたシーンの印象としては、猛獣使いやブリーダー的な和やかスキンシップだったのですが…\(^o^;)/ナンダカナ…
のっけからコアな路線行っちまったな…w(何
まぁこんなカンジで、
拙い書き手ですがおいおいやっていこうと思います。
どうかヨロシクお願いしますですm(__)m
ちなみに次話は某なりきりエチャの顛末を予定しております。
(エチャ内容バレって大丈夫だったかな…==;)
…ん? ところでスープの肉は何だって?
やめといたほうがいい、聞いたら飯が不味くなるよ。