テレビとうさん

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「主義」 と 「思想」Ⅱ

2020年01月13日 | 主義・体制
 【ネタ切れに付き、過去記事の「編集・加筆」です。】

「思考」: 個人的な自分の考えや、結論を出す為の過程。
「思想」: 個人的であり、周囲に影響を及ぼす可能性を含んでいる統一的な思考。
「主義」: 組織的な行動の指針で、国家や政府などの統一的な原則や思想。

 共産主義や独裁主義下では、「思考の自由」は保障されても「思想の自由」が保障されない事は、その定義上容易に判ります。但し、「保障される」とは言ってもそれは命の保障であって、再教育施設に強制入所させられる事もあります。恐らくこれは、憲法には「義務教育の無償化」が書かれていて、共産党は「福利厚生の一環」であると自慢する筈です。

 民主主義や自由主義下では「思想の自由」が認められているにも拘らず「自由主義思想でなくてはならないと規制」される事もあります。つまり、自由主義下でも「共産主義」が認められない事が考えられ、実際に共産主義(政党)を非合法化している自由主義国も有ります。しかし、自由主義国では共産(主義)思想それ自体をを取り締まる事は有りません。これは、内心の自由を認めているからであり、可能性だけでは犯罪要件にならないからです。例えば殺人願望を持っているだけでは、逮捕され無い事からも理解できます。

 日本では、「破防法に基づく調査対象団体」の指定はあるものの「共産党」は公党として認められています。若しかすると日本は「自由主義国」では無いのかも知れません。

 ある人が「思想」を持つ場合、その思想が自由意思なのか、或いは洗脳された結果なのかは本人は当然ながら、他人が判断する事は殆ど不可能です。学校での平和教育で「戦力の不保持こそが、強力な平和への意思表示です。」と教えられた場合と、「自衛力の強化によって侵略を防ぎ、結果として平和を勝ち取ることが出来る。」と教えられた場合では、平和への手段として正反対の「思想」を持つ事になります。どちらも「平和主義」「平和思想」と言える事から、一つの「主義」や「思想」にも多面性が有る事が理解できます。

 民主主義国では、この多面性を統一する為に選挙が行われ、勝った方を「正」として政策に反映されます。ところが、「民主主義国」では国民に主権が有り、主権の無い国(政府)が決めた事に従う必要はないと考える人も出て来ます。この「民主主義」も「平和主義」と同様に、多面性が有ります。国民主権が優先され「国家主権の優越性」を認めない場合と、民主主義で選ばれた政権に「優越的な国家主権」を与える場合です。

 更に日本のように「自衛隊が自国を守る事は憲法違反」と云うような「国家主権を否定」する事も容認される国が在ります。国内事情によって「国内的」に国家主権を認めなくても、国民意識が高ければ様々な困難を乗り越える事も出来ますが、「対外的」に自国の国家主権を否定した場合には最悪の事態が予想されます。例えば、侵略を受けてから「国民投票」をしても間に合いません。と、言うより、現在の日本はその状態にあります。

 これらの混乱は、個人的な統一思考である「思想」と、団体・組織の統一的な思想である「主義」を取り違えて、個人が「主義」を主張する事に有ります。「民主思想」や「平和思想」を個人的に主張する事には問題はないのですが、「民主主義」や「平和主義」等を自分の「主義」だと主張する事は、間違いです。

 政治的な「主義」はあくまでも国家の「統一的な思想」なので、「民主主義国家」を標榜するのなら、国家に主権が有ると考えるのが正しいと言えます。「国民主権(主義)」が成立するには、対外政策である自衛権などを除く国内政治に限るか、対外的に鎖国が出来る程の軍事力を持つ事が必須になります。



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