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地球物理学者が語る手賀沼物語その2 ―香取の海から住宅地へ―

2021-04-01 13:18:17 | 日記
手賀沼の周りは古墳だらけ
 6千年前頃の縄文時代、海面が最も上昇した時、低地の手賀沼は海で、周辺の高台は島となった。その後徐々に海面が下がり海は後退し、手賀沼は海から川へ、さらに沼となっていった。
 手賀沼の周りには3-7世紀に筑造されたと考えられる古墳がたくさん見つかっている。この頃、手賀沼は霞ヶ浦を通して外海とつながる内海の一部であった。この内海は香取の海(かとりのうみ)と呼ばれている。香取の海は平安中期まで、陸奥(東北の一部)と外海を結ぶ重要な水上交通路で、交易が盛んであった。手賀沼周辺の台地上には多くの集落が展開された。さらにその地域を治める豪族も出現した。古墳づくりは大和政権の文化である。大和政権はしだいにその勢力範囲を日本中に拡げてゆくが、各地の豪族と同盟を結び、統合してゆく。手賀沼周辺には香取の海を通り、古墳文化が伝わったと考えられる。

手賀沼周辺の谷津
 平安時代が終わった頃の手賀沼周辺は、丘陵と谷(谷津)が連なり、その間は急な崖となる地形を呈していた。この崖地形を「はけ」と呼ばれている。はけの下の道は「はけの道」である。手賀沼の周りには今もはけの道があるが、ここが当時の湖岸線であった。はけの道では丘陵で溜まった地下水が湧水として湧き出る。はけの湧水は生活用水、農業用水となる。湧水を利用して丘陵地に囲まれた谷での田んぼの開発も進んでいった。

写真1 手賀沼北東にある「はけ」、湧水池と田んぼ。右奥に見える住宅は湖北の高級住宅街。湧水池には昔ホタルがいたそうである。

戦国時代には手賀沼周辺は水上交通の要衝の場として、また農業地として発展したと考えられ、根土城や松ヶ崎城など、豪族によって城も建てられている。

手賀沼は江戸時代の観光スポット
 縄文時代、海面が上昇し香取の海が現れたが、その後徐々に下降し、海岸線は後退していった。一つの大きな海である香取の海は小さくなり、今の霞ヶ浦となった。またいくつかの湖沼が取り残された。手賀沼はその一つである。江戸時代になると、周囲34km、面積10平方キロメートルの閉じられた沼となり、わずかに布佐などにあった小さな水路を通じて利根川に繋がっているのみとなった。
 江戸時代の手賀沼周辺ではウナギ、魚、鴨、鶏卵、野菜などが生産された。これらは江戸に運ばれ、江戸人の台所を潤した。また利根川沿いの木下、布佐は銚子、九十九里からの魚を運ぶ、鮮魚(なま)街道の荷揚場でもあった。木下から船に乗り、香取、鹿島の三社参りや潮来、銚子まで訪れる行楽が人気であった。手賀沼周辺は、成田山と共に最もポピュラーな観光スポットだった。
 手賀沼の干拓は江戸時代に開始された。昭和になると干拓事業が本格化し、手賀沼の東半部分が田んぼになって消滅するなど形も大きく変わった。面積は3.7平方キロメートルまで縮小し、江戸時代と比較するとおよそ3分の1になった。その間に周辺の宅地化が進展し、生活排水の大量流入によって沼の水質は急激に悪化することになった。

写真2 手賀沼、手賀大橋と新興住宅街。手賀沼湖畔は干拓で田んぼになり、さらに一部は住宅化が進展した。湖岸線は徐々に後退し、手賀沼は小さくなっていった。

(つづく)



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