goo blog サービス終了のお知らせ 

いもあらい。

プログラミングや哲学などについてのメモ。

クオリアをめぐる冒険(1)。

2008-02-20 04:25:00 |  Study...
クオリアに関する話。

論客コミュニティの方でクオリアのまとめを、ということだったのだけれど、それをするとすご~く長くなると予想できたので、こちらで。
思考の流れを追ってもらうのが一番分かりやすいだろうと思ったので、自分の思考の歴史を追っかけていくような形でまとめていきます。



はじめに



今となってはそれがクオリアに関する問題だったのだと分かるけれど、そうと知らずにクオリアに関する問題に初めて出会ったのは中学校のとき。
友達に次のように聞かれたんです。
「自分はこう景色を見ているわけだけれど、もし他の人にはその景色が逆さまになって見えていたりすることなんて、あるのかなぁ?」

彼の言わんとしていたことは、次のようなものでした。

例えば、黒板を見れば天井に近い方が上に、床に近い方が下に見える。
普通に考えれば他の人にも同じように見えているだろうけれど、場合によっては天井に近い方が下に、床に近い方が上に見えている人もいるんじゃないだろうか?
これは言葉で確かめようとしても、確かめようがない。
なぜって、たとえ天井に近い方が下に見えていたとしても、その人は常にその映像で見ているのだから、自分たちにとって下に当たる方向がその人にとっては上になってしまうので、やはり「天井に近い方が上に見える」と答えるに決まっているから。
なので、他の人にどう見えているのかは実際にその人になってみないことには分かりようがない。

彼が何に悩んでいたかといえば、その考察から、自分の見ている世界と他人の見ている世界がまったく違うものかもしれないということでした。
自分にはこう見えているのに、他人には全く違うように見えている。
確かにそれは恐怖でしょう。
なので、そんなことはなく、みんながみんな同じように見えているのか、ということを彼は問題にしていたのです。

この考えを聞いて、考えたことなかったけれど考えてみれば確かにそうだなぁ、と当時驚いたことを覚えています。
目から入った情報が、それこそ上下逆さまに脳に伝えられているということを知っていましたから、上下が逆さまに見えている人がいたとしてもおかしくはないと思いましたし。

そこで、自分が答えられたのは、次のような内容でした。

確かに他人が見ている世界が自分の見ている世界と異なっているかどうかは確認のしようがない。
けれど、逆に考えれば、たとえ他人の見ている世界が自分の見ている世界と違っていたとしても、そのことを知りようがない。
なら、意思疎通が出来ている以上、他人が見ている世界が自分の見ている世界と同じであると考えたとしても、何も不都合が起こらないのだから、そう考えてしまってはどうか。

この考え方は、今から考えればオブジェクト指向の「カプセル化」に相当する考え方です。
内部でどういう処理をされているのかは分からないですが、外から見れば同じ結果になっているのだから、その2つを区別する必要がないわけです。

なお、ちょっと考えれば分かると思いますが、この答えは彼の悩みの根本を全然解決していません。
むしろ、悩みの根本を肯定してしまっています。
ただ、悩みの根本を肯定する代わりに、その見方を変えることで心理的な負担を減らしているわけです。
そして、この悩みの根本というものこそがまさにクオリアの問題の1つであり、解決することが原理的に不可能な問題なのです。

クオリアの定義



さて、ここまでにも「クオリア」という言葉を何度も使ってきましたが、その定義について書いておきたいと思います。
・・・といっても、単純です。
「私にとって、どう見えているのか、感じているのか」というものがまさにクオリアです。
たとえば、▲を見れば、▲という図形が見えていて、△や■は見えないでしょう。
このとき、「▲のクオリア」といえば、まさに見えている▲が▲のクオリアにあたります。

しかし、この説明をしてすぐにクオリアというものがどういうものか伝わればいいのですが、多くの場合誤解が生じます。
特に多い誤解が、客観的理解による誤解です。
クオリアというのは感覚それ自体という主観的なものなのに、認識や情報といった客観的なものと誤解してしまう。

この誤解を回避する一番の方法は、「現象学的還元」を知ることでしょう。

例えば、「自分が自転車に乗っている様子を書いてください」というと、次のような絵を書きませんか?

     ○←頭
 ○┬○┤   ―
 ↑|―+―― ―
 手| | | ―
  ○   ○←タイヤ


でもよく考えてみてください。
実際に自分が自転車に乗っているときの様子って言うのは、自分が実際に客観(自分の外側)に立って見ることは出来るでしょうか?
自分に見ることが出来るのは、次のような景色だけじゃないでしょうか?

     空
――――――――― ←地平線
地 /道 路\  面
 /○―┬―○←自分の手
/   |←自転車のハンドル


このように、主観に表れる風景のことを、哲学用語で「現象」といいます。 
私の内に現れるいくつもの現象を統合することで、実際に見ることは出来ないけれどもし客観的に見れたとしたらこうなっているはずだ、という絵が最初に書いた絵になるわけです。

本来、その客観的なものというのは統合の結果として起こるのだから、本当にそうなっているのかどうかは確かめようがありません。
これはカントなんかも指摘しているところです。
なので、現象に立ち返って、実際に見えている現象だけを根拠に哲学をしていこう、というのが現象学(運動)であり、現象に立ち返る行為のことを現象学的還元といいます。

さて、クオリアというのは何なのかということを考えるときには、この現象的還元というのが必須です。

先ほどの自転車の例を使ってみましょう。
1つ目の絵に書かれた手は、手のクオリアではありません。
これは認識された手であり、実際にこう見えた、というわけではないからです。
一方で、2つ目の絵に表れている手は、手のクオリアです。
なぜなら、実際に「こう見えた」という手なわけですから。

すなわち、現象学的還元がなされ、「私にはこう見えたよ」と主観的にされたもののうち、そこに表れている個々の感覚(どう見えたか)のことをクオリアというわけです。
よく脳の仕組み云々を取り出してきてクオリアについて話す人がいますが、そこで出てくるのは客観的な「主体が違うことによる認識の違い」(例えば、夕日の赤は見る人によって感じ方が変わってくる、など)に過ぎないのです。

物理的なプロセスがどうなっているかとか、脳の状態がどうなっているのかなどは、どうでもいい。
むしろ、忘れなければならない(エポケー)。
なぜなら、それらは現象として表れないものだから。
もっと単純に、「こう見えるよ」というその見えているもの、見えている感覚こそがクオリアなのです。

なお、特に視覚に注目して定義を伝えましたが、実際には私に感じられる主観的な感覚全部がクオリアの対象になります。

例えば、りんごを触ったときのツルツルした手触り、コーヒーを飲んだときの香り、暖かさ、味、音楽を聴いたときのメロディ、、、そういったもの全て、私が感じたその「感覚」自体をクオリアといいます。

クオリアに関する第一の問題



さて、クオリアの定義の説明が長くなりましたが、最初の話に戻りましょう。

クオリアの定義がちゃんと伝わっていれば、彼が思った疑問が次の質問とほぼ同じ内容を意味していることが分かるかと思います。
「自分の感じているクオリアは、他人の感じているクオリアと同じなのか?」
(※上下逆さま云々の話だと、厳密には、自分の現象と他人の現象が同じなのか、という言い方になりますが、同じような意味合いなので上のように表現しました。)

そして、クオリアの定義がちゃんと伝わっていれば、この問題には「同じかどうか分からないし、確かめようもない」と答えることしか出来ないということが分かるかと思います。
(もし出来ると思うのであれば、定義がちゃんと伝わっていないのです。現象的還元についてもう一度じっくり読んで考えてみてください。)
なぜって、クオリアは「私が」どう感じたかなので、例えば仮に他人の脳を自分につないで自分に感じさせたとしても、そのとき感じた感覚というのは結局「私が」他人の感覚の元になる信号をどう感じるのかに過ぎず、他人がその信号をどう感じるのかというのを知ることは出来ないからです。

(つづく)
メモ:(2)は、なぜ勘違いしやすいのか、自分が実際していた勘違い、問題は問題たるのか、本質的な問題は何なのかという気付き、というところまでの予定。


大切な『ココロ』。

2008-02-20 01:24:00 |  Study...
『ちょびっツ』のエピソードからCLAMPの『ココロ』に関する考え方についての考察。

アレにもヒトにも一番だいじなもの――CLAMPはこの『ちょびっツ』という作品の中で『ココロ』、そして『思い出』『記憶』というものを一番だいじなものとしてあげていると思う。
それは6巻での店長さんと裕美ちゃんとの会話から見て取れる。

ただここで気を付けなければならないことがある。
それは『ココロ』が『思い出』『記憶』と同等のものとして扱われているときとそうでないときがあるということだ。
前者は問題がないと思う。
問題は後者だ。
このときの『ココロ』は、いうなれば『魂』ということが出来るようなものだ。
具体的にいうと8巻97ページなんかがある。
そしてこのシーンは重要な意味を持つ。
「あるよ。ちぃの心はオレの中にある。」
この秀樹の言葉だ。
ちぃには命はない。
それにパソコンだ。
それでも秀樹はちぃを他のものといっしょくたにすることが出来ない。
それは「本須和」が「ちぃ」に『ココロ』を与えているからだ。

このことはもっと一般化、抽象化が出来る。
人間は命のないものに対しても愛おしいという感情を抱くことがある。
それは日比谷さんがいっちゃんさんに言った言葉、「おもちゃだって分かってるのに、生きていないって分かってるのに、どうしてこんなに可愛いと思ってしまうのかしら」「どうしてこんなに心配だったり嬉しかったりするのかしら」(7巻100ページ)からも見て取れる。
それに対するいっちゃんの「千歳が生きてて心があるから可愛いんやろ」っていう言葉の通りだと思う。

ものがただ存在するだけではそれに最初から『可愛い』などの『価値』や『評価』は存在しない。
それを誰かが見て、そして何らかしらのことを『心』で感じて始めてそういった『価値』『評価』を持つ。
それと同じように、そのものに対して『心』があると『心』が感じて始めてそのものに『心』が生まれる、といえるのではないだろうか。
そして自分自身の『心』は自分自身がその『心』を感じることで、また他人によって『心』を見て取られることで初めて『心』が生まれる。
これは自分自身がその『心』を感じ取れなくなったとき、つまり気が狂ってしまったときに、他人にはそれがその人の『心』が壊れてしまったと見えることと一致するので妥当だといえるだろう。

そして重要なのがその『心』がどこに生まれてくるかだ。
それは『価値』や『評価』がそうであるように、『心』がある、と思われたそのものにでなく、そう思った『心』に『心』は生まれてくるのだと考えられる。

しかしこれでは分かりにくい。
そこで実際に存在する『心』をそのまま『心』、『心』によって作られる『心』を『ココロ』とし、さらにその『ココロ』がどこに生まれてくるかをはっきりさせると次のようになると思う。
すなわち、「それが生きているものでも、生きていないものでも、それに対して”それには『ココロ』がある”と『心』が感じたとき、その『ココロ』はそう感じた『心』に生まれる」。
具体的にいうと、秀樹の『心』がちぃに『ココロ』があると感じたときちぃの『ココロ』は秀樹の『心』に生まれる、となり、これは作品の状態に一致するといえるだろう。

そしてこのことがとても重要な意味を持つのは、これが前に見て取れるように「生きていないもの」だけでなく「生きているもの」にも言えるということだ。

近年、凶悪な犯罪がたくさん起きている。
多くの人が”よくもまぁあんなひどいこと出来るものだなぁ”と思うようなものもある。
でも、これはまさに上のことが当てはめて考えていくと納得がいく。

普通、人を殺すなんてことは出来ない。
それは殺そうとする人が殺されそうになっている人に『ココロ』を感じるからだ。
たとえ殺してしまったとしても何らかしらの嫌な思いが残るだろう。
でも、もし殺そうとする人が殺されそうになっている人に『ココロ』を感じなければ殺そうとする人にとってその殺されそうになっている人はそこらの石ころと同じ、『心』のないもの、大切に思う必要のないもの、たとえそれが死のうが殺そうとする人には関係のないものとなってしまう。
だからこそ普通の人には信じられないような残酷なことも出来てしまうと考えられないだろうか。
このように近年の凶悪犯罪の分析において先に述べたような考え方は重要だといえると思う。

また、作られた『ココロ』はあくまで『ココロ』であって『心』ではありえないというのがまた重要だ。
これは別のCLAMP作品、『東京BABYLON』で繰り返し述べられる『誰かの苦しみを完全に分かることなんて出来ない』というのにつながる。
苦しんでいる人の姿を見てその人の『ココロ』を自分の中に感じてその人がどれだけ苦しんでいるかは少しは感じられる。
でもその人の『心』そのものを作るわけでもないし、その人の『心』そのものに触れられるわけでもない。
だから完全に理解するなんてことが出来るはずがないわけだ。

こういった『ココロ』というものがどういうものかが『パソコン』という生きていないものとの恋愛を媒介にして描かれ、そしてその『ココロ』がどれだけ大切なものかが『ちょびっツ』からは読み取れるだろう。



ということで、『『ちょびっツ』の「ツ」の字』に投稿して、載らなかった原稿。
クオリアに関する話を書いていくのにちょっと必要になると思ったので、アップ。
いやー、偉そうに書いてるなぁw

ただ、『ちょびっツ』がいろいろな示唆を含んでいるのは事実で、人工知能とかクオリアについて考えている人には一度は読んでもらいたい作品。
上の文章も、たぶん実際に読んでもらわないことには何を言っているのか分からないでしょうし。

一応、自分の思想の歴史としては、CLAMPに傾倒して、関係性というものに重きを置いていた時代で、今考えていることと少し異なる部分(『心』に関する部分とか)がありますが、それでも十分に意味のある考察だと思っています。



そうそう、昔も凶悪犯罪が云々の反論があると思いますが、今日買った養老猛司の『自分は死なないと思っているヒトへ』という本がちょうどその答えになっているように今感じています。
(ちなみに、まだ読み途中ですが、この本、めちゃ面白いです。オススメ。養老猛司は本当に賢い人だなぁ、と思わされます。)


「哲学」の問題。

2008-01-25 19:39:00 |  Study...
見てはいけない。のエントリで少し触れていた「哲学」それ自身のはらむ問題に関して。

とりあえず、当該箇所を引用しておくと、以下。

哲学ってそういうものなんだけれど、「なぜそれが問題なのか」というのが分からないと、どうしょうもないものがあって、しかもそれが問題に思っている当人にしかなかなか伝わらないことがあるんですよねぇ・・・
西洋哲学をやっている人からしたら「どうしてそれが問題なのか」が分からず、東洋哲学をやっている人からすれば「それで(=その解決策で)何が問題があるの?」という感じのものが今自分が抱えている問題であるのだけれど、その2つの態度に表れるところこそがまさに問題であるという問題であって。



一応コメントに残しておいたメモも引用しておくと、

「納得出来ればいい」ということを標榜を掲げて理論を作るなら、その「納得できればいい」というそれ自体は納得できるものなのか。
構造主義的に、「真実」を求めることが重要なのではないとしたら、そのことを重要視するのは、「真実」を求めることを重要視していることになるのではないか。
理論を作ってはいけない、というのなら、その言説自体はひとつの理論なのではないだろうか、といったことをたしか悶々と考えていた気がする。



で、なんかパソコンのなかを漁っていたらむかし(2006年10月)思うがままに書いたメモが残っていて、あぁ、そういえばそんなことを考えていたなぁ、と思ったので、以下にアップ。(一部修正)



人間も動物。
これはくつがえしようのない事実であって、どうしようもない気がする。
けど、それは「真実」なのか、といわれると、むずかしい。

というか、今ぶつかっている壁がまさにそれともいえるきがするんだけれど、「言葉」というものが人間によって作られたものであるならば、真実なんてものも結局は言葉で表現されるものしか表現できないんじゃないか、ということ。

すると、いくらその言葉を乗り越えようとしたところで、――発展的に、東洋哲学的な「乗り越えないようにしよう」としたところで、――さらに非能動的に「乗り越えない」ことでも、その行く先にあるものは言語による壁でしかない気がしてならない。

身体性を取り戻すのか、言葉の世界に逃げ込むのか。
真理を求めたい、という欲求は永遠に心理を遠ざけ、真理なんかいらないという欲求は、しかしそれが何を産もうか?
そこから生まれるものがまた真理という心の安定にあるのであれば、それは結局真理を求めてしまっている。

現象学的・構造主義的。
これは自分が立脚するところだと考えていたけれど、相容れない姿じゃないのか、という気もする。
ともに己を、ただ信頼できるものだけを頼ろうとしているように見えて、その求める先にあるものは外の世界の真理であって、その姿は矛盾のみをはらんでいるように思えてならない。
それは真実じゃない、ということを認めることは、それが真実であるということをメタに認めていて、どうあがいても自己矛盾を生み出してしまう。

そして、そのことを問題に思うのは「自己矛盾が問題である」という意識にあるとしても、しかし、じゃあ「それを問題でない」とみなしてしまった場合には、「なぜそれを問題でないとみなしたかったのか」という目的意識そのものがすでになくなってしまって、その行為自体に意味がなくなってしまう。

悟りを開くことは、しかしながら悟りを開く意味をなくならせる。
西洋哲学の限界を超えていたと思われる東洋哲学であっても、それ自体が東洋哲学の存在の無意味を生み出してしまう、という構造。
これは、東洋哲学の域に近づいて矛盾を減らしてきた西洋哲学に対しても、いや、だからこそさらに強く、あてはまってしまう。
この壁を越えられるものは果たしているのか・・・



・・・何も考えずに問題の周りを回っている状態で書いたから、自分で読んでいてもよく分からないところがある^^;

ここで挙げている問題の流れを簡単に追うと、まず、

1、真理じゃなくたっていい、とする。
    ↓
2、その姿をメタ的に眺めると、「真理じゃなくたっていい」という命題が真理であることを求めている。(1つ目の矛盾)
    ↓
3、なら、矛盾をしたって構わない、とする。
    ↓
4、なぜ、「『なら、矛盾をしたって構わない』と考えたのか」を考えてみると、「矛盾してはいけない」という意識があったからと気付く。
    ↓
5、これは、「矛盾してはいけない」という意識から「矛盾したって構わない」という考えが出てくるのは矛盾。(2つ目の矛盾)
    ↓
6、上の問題を解決しようとすると、その解決しようとしたこと自体が矛盾をまた生み出すということを無限に繰り返す事態に陥る。なら、解決しなければいいのかというと、その場合は解決されなかった矛盾が依然として横たわったままになる、という事態が発生する。

この問題を解消するには、3、を解決しようとするから問題なのであって、1、を解消するようにすればいいわけです。
しかし、それは「じゃあ真理って何なの?」という問題を生むわけです。
万人が万人をして「これは真理だ」とみなすものが、果たしてあるのか、ということです。
哲学で、まるで真理を体現しているかのように扱われている数学の世界ですら、万人が納得するとは限らないわけですから。
(もっというと、それが真理であっても真理でなくっても(=公理であっても公理でなくても)それぞれで矛盾のない世界(理論)が構築される、ということが証明されています。なら、その証明されたものこそは真理と呼んでいいのではないか、とすると、それはあくまで「証明」されたものであって、前提とそこで使われている論理を認めるのならば、という条件が必要になってくるわけです。なので、その前提と論理に納得の出来ない人がいるのであったなら、その証明されたものはその人にとっては真理ではありません。)

そもそも、なぜ1、のようなことが言われだしたのかといえば、構造主義によって「文明」の存在が普遍的な真理ではないことが指摘されたからなわけです。
そして、1、を解消するということは構造主義がもたらしたよりリベラルな哲学の議論を狭っ苦しい世界へと押し戻すことに他なりません。

そんなこんなで、このことを悶々と考えていたわけです。
この問題には、「なんで自分は哲学なんかするのだろう」という自己批判的な問題も内包されていますしね。


言語の限界に関する考察(7)。

2007-12-30 08:39:00 |  Study...
言語の限界に関する考察(6)。の続き。

言語に対するモデル



「犬をください」これは授業で扱ったプリントに載っていた四コマの出だしである。
この後、店員はどんな種類の犬を欲しがっているのかを尋ねるのだが、客の主張はどんな種類の犬でもなく「犬」が欲しいというのだ。
これに対して店員はほとほと困ってしまうというのが四コマのオチである。

この四コマは重要な示唆を含んでいる。
すなわち、「犬」というと「これが犬だ」という具体的な何かがありそうなものであるが、「犬」なるものが実際に存在するわけではない、ということだ。

実際に存在するのは、「そのもの自体」でしかない。
それを人は「犬」や「猫」などに分類していっていると考えられる。
つまり、「言葉」というのは世の中に分類を与えるものに他ならない。

しかし、気をつけなければならないことが一つある。
このような書き方をしてくると、分類というのは静的でハッキリと与えられているもののように思われるかもしれないが、実際には動的で曖昧なものであり、またこの分類は逐次的に行われることでしか見えてこないということだ。
このことは、「犬を描いてください」と言われたときに大体のイメージでしか描くことが出来ないことや、犬と猫が具体的にいればどっちが犬でどっちが猫であるのかを指摘することは出来ても、その分類の決め手が何なのかをハッキリと述べることが難しいことからも見て取れる。

ここまでのことを一度まとめておこう。

「言葉」というものは世の中に対して―「色」に関する考察を踏まえれば、私が見たり、聞いたり、経験した感覚に対して―分類を与えるものである。
その分類は、しっかりと定まったものが存在するわけではなく、具体的なものが与えられたときに行われ、またそうすることでしか表面的に現れないものである。

これは、ウィトゲンシュタインが『哲学探究』において行っていた「投影法」に関する議論が不十分であることを指摘もしている。

ここで、「立方体」という語を聞くと、ある像が浮かぶとしよう。
それはたとえば立方体のスケッチだとしよう。
どのようにして、この像は、「立方体」という語の使用と適合したり、適合しなかったりできるのだろうか。
―きみはこう言うだろう。
「それは簡単だ。―そうした像が私に浮かんでいるとき、私がたとえば三角プリズムを指して、これは立方体だというならば、「立方体」という語のこの使用は像と適合しない。」
だが、適合しないというのは本当だろうか?
私がこの例をわざわざ選んだのは、こうした像が適合するような投影方法を想像することがきわめて簡単だからである。
立方体の像は、ある使用をわれわれに示唆していた。
しかし、私はその像を別の仕方でも使用できたのである。



ウィトゲンシュタインは、像の投影方法というものが無数にあることから、ある代表的な投影方法に対してだけ適さないからといって、本当にその語を適用出来ないとしてしまっていいのか、としている。
しかし、これは言葉による分類が静的に存在しているとしてしまっていることがそもそもの間違いである。
それが立方体であるのかどうかというのは、ある固定された像との比較によって行われるのではなく、他の分類との兼ね合いから動的に決定されるものである。

では、この動的な分類はどう行われるのか、というのが問題になるかもしれない。
しかしそれは、「色」についての考察を考えてみれば分かるとおり、「こう感じられる」というその感覚と、人間のパターン認識能力によるとしか答えようがない。
けれどもこれは多くの人が納得のいく感覚であろう。
(これは犬だ、と思うときに、これこれこういった理由だから、と理由を挙げることが出来るだろうか?)

文法についても、同様のことがいえる。
飯田隆の『ウィトゲンシュタイン』では、ふさわしいイメージを持つことがその言葉を理解するための必要条件ではないことを示すために、「てにをは」の例を出しているが、「てにをは」にしても、それを使うことが妥当なのかということは動的にしか判断されないということを考えるべきである。
例えば、「が」を使うべきか、「は」を使うべきかは、実際に言おうとしたときのその自分の伝えたいイメージに近い方が用いられているはずである。
(もちろん、そうしたことは無意識のうちに行われているだろうが。)

長く横道に反れてしまったが、言語に対するモデルの話に戻そう。

先ほど、「犬を描いてください」と言われたとき、大体ではあってもイメージを描けるという事実に注目してみよう。
このことから、実際にはある言葉に対してある程度のイメージを常に持っていることが考えられる。
実際に言語を使って考えていくときには、(意識されることはないだろうが)このイメージが用いられていると考えられる。

気をつけなければならないのは、このイメージというのも動的に変化しうるということだ。
自分が今考えていく中で一番適したイメージというものが実際には使われていく。
ウィトゲンシュタインが心配したようなことは、起こらないのである。

まとめよう。

「言葉」というものは世の中に対して分類を与えるものである。
その分類は、しっかりと定まったものが存在するわけではなく、具体的なものが与えられたときに行われ、またそうすることでしか表面的に現れないものである。
言語を使うときには、動的にそれにあったイメージというものが喚起される。
ただし、それらは普段無意識に行われ、何も意識せずに行われたように表面上は見える。

最後の部分を考えると、ウィトゲンシュタインの言っていたこともあながち間違いではないことが分かる。
わざわざ意識しないで言語が用いられたときには、そこで起こっていることはウィトゲンシュタインの言っている通りだろう。
しかし、それは言語の様子の一部であり、全体を説明することは出来ない。
なので、それでは不十分なのだ。

さて、先ほど先送りした、言語に対して考察を加えるというとき、その対象となっているものというのは具体的にはなんなのかという問題に戻ろう。
この答えは、「言語」というものに対して動的に与えられたイメージに他ならない。
実際、その場その場で「こういう状態なら」という適切な言語の例が挙げられてきているところに注意してもらえれば、これは納得してもらえると思う。

言語の限界



ここまで準備することで、やっと「色」について行った考察で得られた“説明することは出来ても、「感覚」まで伝えることは出来ない” ということがどういった類の限界を意味するのかについて議論することが出来る。

だがその前に、もう一つだけ重要なことを示しておきたい。
それは、言語で指し示せないものはないという事実だ。

これは、簡単な論理で示すことが出来る。
もし、言語で指し示せないものがあったとしよう。
しかし今、そのものを「言語で指し示せないもの」と指し示せたのであるから、これは矛盾。
よって、言語で指し示せないものはない。

このことは、言語というものが本質的に分類を与えていることからも明らかである。
「世の中には2 種類のものしかない。ビールとビール以外のものだ」なんていうジョークがあったが、これは同様のことを暗に示している。

さて、では“説明することは出来ても、「感覚」まで伝えることは出来ない” とはどういった類の限界なのであろうか。
これは、自分の言語の限界であり、言語自体の限界から生じる限界ではない。
このことは、先に示したことより分かる。

そして、その分割はどうやって与えられていたのかというと、自分の世界に対する認識の限界によるものであった。

なので、ウィトゲンシュタインは

私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する。



と言ったが、これはこう言われるべきではないだろうか。
私の世界の限界が、私の言語の限界に現れる、と。



ということで、最後の部分を分けて(8)で終わらせる予定だった言語の限界に関する考察シリーズですが、これでおしまいです。

最後の部分(言語のモデル云々の話)はレポート提出ギリギリになってしまったためにかなり議論がお粗末で、さらに推敲もされてないので結構支離滅裂状態だったりしますが、とりあえずそのまま載せました。
同じ内容の文を書くのに、普通なら少なくとも2~3時間はかけて推敲しつつ執筆する(そう、自分は遅筆なんです!)ところを、確か1時間もかけずに書いたので、自分の中で言いたいことは出揃っているけれど、どう伝えたるのがいいのか、というところにまで気が回っていません。
今自分が読んでも、議論の流れがどうつながっているのかが不明瞭ですし、根拠・具体例に欠くところがあります。
表現が足りていないところもありますし。
そのうち、書き直せたらいいんですけどねぇ。
(けど、そうしたら軽く数十時間がふっとぶだろうけれど。)

今回の考察では、自分が行ってきた考察のいろんなところと絡ませて議論を進めていく、という形を取っています。
それは、必要性があったというのもそうなのですが、実はもっと大きな枠から得られる、言語に関する議論を、言語に関する議論のみを目標として部分から再構成しているせいです。
パッと見では、いろいろな言説が集まって言語に関するひとつの理論を構成しているようですが、そうではなく、より大きな理論のアプリケーションとして、言語に関して述べているだけなんです。
その、より大きな理論という部分こそが『哲学における身体性の復興』だったりします。
どこかで体系的に書ければいいんですけれど、さすがに大仕事すぎて・・・
さっきも書いたとおり、自分は遅筆なので、そんなことをしていたら本業がぜんぜん進まなくなりますしね。
ただ、いつかは書いてみたいと思っています。
んで、どうせ今回の議論を書き直す必要があるのなら、その中で書いていきたいと思うわけです。(じゃないと、二度手間になるんで)



次のエントリは、書きかけとか。でも少し触れている、私。というエントリの予定。
去年の最後に書いた『SHI-NO ーシノー愛の証明』。のエントリに満足してしまって(これは、哲学における身体性の復興の帰結に関係のあるエントリなのです)、結果、一年近くも寝かせる(といっても、熟成させていたわけではなく、ただ書かなかっただけ^^;)ことになってしまったけれど、昨日時間が出来たときにほとんど書けたので、やっと公開できそうです。


言語の限界に関する考察(6)。

2007-12-27 22:38:00 |  Study...
言語の限界に関する考察(5)。の続き。

時間はどこからやってくるのか



「時間はあっという間に過ぎ去ってしまう」「一年はあっという間だった」という言葉はよく聞かれる。
しかし、なぜそう感じるのかということを考えてみると、これは不思議な話である。
実際にはたくさんの出来事があったはずであるし、一年間であれば物理的に一年間分の時間を過ごしてきているはずである。
しかし、思い起こしてみればそれは全て一瞬のことに思えてくる。
これはなぜか。

また、「現在」とは何なのであろうか。
ゼノンのパラドックスではないが、「今」ということを意識した瞬間には、その「今」は既に「過去」になってしまっている。
なぜこのようなことが起こるのか。

答えから言ってしまえば、このようなことが疑問に思えるのは、自分たちが時間の中に存在しているという誤解があるからに他ならない。

物理学での時空間モデルに慣れてしまっていると、時間というものがもともと存在していて時間にしたがって世の中は動いていくと思いがちである。

しかし、時間というものについてしっかりと考えていこうとするならば、このモデルはいろいろな問題を孕む。
先ほどの、「現在」とは何であるのかということについて、このモデルでは答えの持ちようがない。

次のように現象学的なモデルを考えると、時間に関する謎というものについては大体説明がつくようになる。

時間というものがもともと存在しているわけではない。
自分たちは、何らかの活動を行う。
その行動を通して「今」という瞬間が刻まれていくことでしか、時間は生まれてこない。

「過去」というものは、潜在的にしか存在していない。
「想起する」という行為によって初めて、潜在的な過去は「想起しているという今」に「過去」として具現される。

なぜ過去のことは一瞬に思われるのか。
それは、想起されるときの「今現在」の時間が当時の時間と比べて圧倒的に短いからである。
(なんなら、当時と同じ時間だけリアルタイムで想起してみればいい。過去が短かったなんてとても思えないだろう。)

「現在」とは何なのか。
それは、今まさに行為を行っているということでのみ指し示されるものである。
「今」ということを意識した瞬間、「今」というのはその「意識しているという今」になってしまい、その意識している対象の「今」は想起されたもの―過去として具現されたもの―になってしまうので、その「今」は既に「過去」になってしまうのである。

このモデルは、一つ重要な帰結を導く。
すなわち、「考察をしている今」において、その「今」自身を考察することは原理的に不可能である、ということである。
なぜなら、その「今」自身を考察しようとした瞬間、その「今」は想起されて「過去」になってしまうからだ。
「今」について考察を行おうとすれば、その考察対象となりうるのは過去の「今」の積み重ねによって生まれた「イメージとしての今」のみなのである。

言語考察の限界



これまでの「時間」に対する考察を見てくれば、次のことは明らかだろう。
すなわち、「今まさに考察を加えている言語」というものを今現在の考察の対象にすることは出来ない。
そしてこれは、言語の考察に対する限界の限界を示している。

(つづく。次は長文になりそう・・・)