論客コミュニティの方でクオリアのまとめを、ということだったのだけれど、それをするとすご~く長くなると予想できたので、こちらで。
思考の流れを追ってもらうのが一番分かりやすいだろうと思ったので、自分の思考の歴史を追っかけていくような形でまとめていきます。
はじめに
今となってはそれがクオリアに関する問題だったのだと分かるけれど、そうと知らずにクオリアに関する問題に初めて出会ったのは中学校のとき。
友達に次のように聞かれたんです。
「自分はこう景色を見ているわけだけれど、もし他の人にはその景色が逆さまになって見えていたりすることなんて、あるのかなぁ?」
彼の言わんとしていたことは、次のようなものでした。
例えば、黒板を見れば天井に近い方が上に、床に近い方が下に見える。
普通に考えれば他の人にも同じように見えているだろうけれど、場合によっては天井に近い方が下に、床に近い方が上に見えている人もいるんじゃないだろうか?
これは言葉で確かめようとしても、確かめようがない。
なぜって、たとえ天井に近い方が下に見えていたとしても、その人は常にその映像で見ているのだから、自分たちにとって下に当たる方向がその人にとっては上になってしまうので、やはり「天井に近い方が上に見える」と答えるに決まっているから。
なので、他の人にどう見えているのかは実際にその人になってみないことには分かりようがない。
彼が何に悩んでいたかといえば、その考察から、自分の見ている世界と他人の見ている世界がまったく違うものかもしれないということでした。
自分にはこう見えているのに、他人には全く違うように見えている。
確かにそれは恐怖でしょう。
なので、そんなことはなく、みんながみんな同じように見えているのか、ということを彼は問題にしていたのです。
この考えを聞いて、考えたことなかったけれど考えてみれば確かにそうだなぁ、と当時驚いたことを覚えています。
目から入った情報が、それこそ上下逆さまに脳に伝えられているということを知っていましたから、上下が逆さまに見えている人がいたとしてもおかしくはないと思いましたし。
そこで、自分が答えられたのは、次のような内容でした。
確かに他人が見ている世界が自分の見ている世界と異なっているかどうかは確認のしようがない。
けれど、逆に考えれば、たとえ他人の見ている世界が自分の見ている世界と違っていたとしても、そのことを知りようがない。
なら、意思疎通が出来ている以上、他人が見ている世界が自分の見ている世界と同じであると考えたとしても、何も不都合が起こらないのだから、そう考えてしまってはどうか。
この考え方は、今から考えればオブジェクト指向の「カプセル化」に相当する考え方です。
内部でどういう処理をされているのかは分からないですが、外から見れば同じ結果になっているのだから、その2つを区別する必要がないわけです。
なお、ちょっと考えれば分かると思いますが、この答えは彼の悩みの根本を全然解決していません。
むしろ、悩みの根本を肯定してしまっています。
ただ、悩みの根本を肯定する代わりに、その見方を変えることで心理的な負担を減らしているわけです。
そして、この悩みの根本というものこそがまさにクオリアの問題の1つであり、解決することが原理的に不可能な問題なのです。
クオリアの定義
さて、ここまでにも「クオリア」という言葉を何度も使ってきましたが、その定義について書いておきたいと思います。
・・・といっても、単純です。
「私にとって、どう見えているのか、感じているのか」というものがまさにクオリアです。
たとえば、▲を見れば、▲という図形が見えていて、△や■は見えないでしょう。
このとき、「▲のクオリア」といえば、まさに見えている▲が▲のクオリアにあたります。
しかし、この説明をしてすぐにクオリアというものがどういうものか伝わればいいのですが、多くの場合誤解が生じます。
特に多い誤解が、客観的理解による誤解です。
クオリアというのは感覚それ自体という主観的なものなのに、認識や情報といった客観的なものと誤解してしまう。
この誤解を回避する一番の方法は、「現象学的還元」を知ることでしょう。
例えば、「自分が自転車に乗っている様子を書いてください」というと、次のような絵を書きませんか?
○←頭
○┬○┤ ―
↑|―+―― ―
手| | | ―
○ ○←タイヤ
でもよく考えてみてください。
実際に自分が自転車に乗っているときの様子って言うのは、自分が実際に客観(自分の外側)に立って見ることは出来るでしょうか?
自分に見ることが出来るのは、次のような景色だけじゃないでしょうか?
空
――――――――― ←地平線
地 /道 路\ 面
/○―┬―○←自分の手
/ |←自転車のハンドル
このように、主観に表れる風景のことを、哲学用語で「現象」といいます。
私の内に現れるいくつもの現象を統合することで、実際に見ることは出来ないけれどもし客観的に見れたとしたらこうなっているはずだ、という絵が最初に書いた絵になるわけです。
本来、その客観的なものというのは統合の結果として起こるのだから、本当にそうなっているのかどうかは確かめようがありません。
これはカントなんかも指摘しているところです。
なので、現象に立ち返って、実際に見えている現象だけを根拠に哲学をしていこう、というのが現象学(運動)であり、現象に立ち返る行為のことを現象学的還元といいます。
さて、クオリアというのは何なのかということを考えるときには、この現象的還元というのが必須です。
先ほどの自転車の例を使ってみましょう。
1つ目の絵に書かれた手は、手のクオリアではありません。
これは認識された手であり、実際にこう見えた、というわけではないからです。
一方で、2つ目の絵に表れている手は、手のクオリアです。
なぜなら、実際に「こう見えた」という手なわけですから。
すなわち、現象学的還元がなされ、「私にはこう見えたよ」と主観的にされたもののうち、そこに表れている個々の感覚(どう見えたか)のことをクオリアというわけです。
よく脳の仕組み云々を取り出してきてクオリアについて話す人がいますが、そこで出てくるのは客観的な「主体が違うことによる認識の違い」(例えば、夕日の赤は見る人によって感じ方が変わってくる、など)に過ぎないのです。
物理的なプロセスがどうなっているかとか、脳の状態がどうなっているのかなどは、どうでもいい。
むしろ、忘れなければならない(エポケー)。
なぜなら、それらは現象として表れないものだから。
もっと単純に、「こう見えるよ」というその見えているもの、見えている感覚こそがクオリアなのです。
なお、特に視覚に注目して定義を伝えましたが、実際には私に感じられる主観的な感覚全部がクオリアの対象になります。
例えば、りんごを触ったときのツルツルした手触り、コーヒーを飲んだときの香り、暖かさ、味、音楽を聴いたときのメロディ、、、そういったもの全て、私が感じたその「感覚」自体をクオリアといいます。
クオリアに関する第一の問題
さて、クオリアの定義の説明が長くなりましたが、最初の話に戻りましょう。
クオリアの定義がちゃんと伝わっていれば、彼が思った疑問が次の質問とほぼ同じ内容を意味していることが分かるかと思います。
「自分の感じているクオリアは、他人の感じているクオリアと同じなのか?」
(※上下逆さま云々の話だと、厳密には、自分の現象と他人の現象が同じなのか、という言い方になりますが、同じような意味合いなので上のように表現しました。)
そして、クオリアの定義がちゃんと伝わっていれば、この問題には「同じかどうか分からないし、確かめようもない」と答えることしか出来ないということが分かるかと思います。
(もし出来ると思うのであれば、定義がちゃんと伝わっていないのです。現象的還元についてもう一度じっくり読んで考えてみてください。)
なぜって、クオリアは「私が」どう感じたかなので、例えば仮に他人の脳を自分につないで自分に感じさせたとしても、そのとき感じた感覚というのは結局「私が」他人の感覚の元になる信号をどう感じるのかに過ぎず、他人がその信号をどう感じるのかというのを知ることは出来ないからです。
(つづく)
メモ:(2)は、なぜ勘違いしやすいのか、自分が実際していた勘違い、問題は問題たるのか、本質的な問題は何なのかという気付き、というところまでの予定。