東日本大震災から5年が経ちました

2016-03-12 | others
東日本大震災から5年をむかえ、
改めて、被災地石巻を訪問させていただきました。

震災で壮絶なご経験をされた方から、直接お話しを伺い、
五年目にして、また身の引き締まる思いでした。



個人的にも、そして日本人としても絶対に風化させたくないので、
あらためてこの5年を振り返ってみます。

思えばあの日は突然来ましたね。大変な揺れと共に、大津波警報が発令され
東日本の沿岸部は、信じられないような津波に襲われ、甚大な被害にあいました。

地震の直後、工場の機械はすぐに止め、電源を落とし、
揺れで倒れた工場内の材木等を直すのも大変でした。

そしてテレビでは目を疑うような津波被害。
正直「日本終わったか・・」と思うほどでした。

そして、地元大原港の様子が下の写真です。
津波の前に潮が引いて、船がひっくり返ってしまってます。

そしてその数分後津波が押し寄せ、漁港交差点までは下の写真の通りでした。

まさかとは思いましたが、大した被害はありませんでした。
この映像はユーチューブにも載せてあります。ガラケーなので画像悪いですが。


そして翌日、旭市飯岡のお客さんが気になり、吹っ飛んで向かいました。
道中、一宮の有料道路からは、津波被害が結構あって
意外と旭までスムーズにいけませんでした。
そしてお客さんのところへ着くと、倉庫・作業場は津波が来てしまい、
結構な被害でした。
片付けを少し手伝いましたが、周りの惨状があまりにもひどくて
「こりゃ、やばいな~」
と言うのがきっかけで、翌日から旭のボランティアを始めるようになりました。

ご覧の有様です。

ガソリンスタンドの中ですが、上部の線まで津波が来ました。

このとき、私の愛車は日産のダットサントラック。
毎日毎日よーく通いました。ちょっと仕事もほったらかしでした・・。

その後、青年部で浦安の液状化が凄かった場所にも
砂のかきだしにも行きましたね。
浦安では、昼用に持ってきた握り飯を休憩しながら食べていると
隣の小学校からは、卒業式の最中で、校長先生の言葉が聞こえてきました。
どうやらこの被害で全生徒が来れなかったらしい卒業式。
そしてその後の「仰げば尊し」。泣きそうでしたよ。。



しかし、仕事もせずに毎日ボランティアばかりしているわけにもいかず
当然本業も必死でした。まずは燃料がない状況です。
お客様に案内を送り、配送便の本数を減らし燃料を節約。
工場は、節電指示を受け、稼働率減少につき、
生産量の大幅な落ち込みにより、出荷資材も欠品。
そして、いよいよ被災地が大きく動き出し、仮設住宅の
建設ラッシュが始まったとき、被災地優先の国からメーカーへのお達しで
いよいよ建材まで入荷が全くないという状況になってしまいました。

こりゃあかん。。
そして毎日新聞を見ていると、ふと小さな記事を見つけ、
「災害ボランティア求む」の文字。

すぐに会社の段取りを済ませ、地元の社協でボランティア登録保険に加入し
寝袋と予備燃料タンクとスコップと握り飯など、もろもろ装備をして、
福島県いわき市へとダットサンを飛ばしました。
これは、自己完結能力が必須だ、と旭に来ていた自衛官との話を思い出したのでとりあえず装備は一通り。
ダットサンの荷台で寝袋は、中々の経験でした。

最初は常磐道は通行止めだったので、一般道で行きました。

道が分からなかったのですが、右に太平洋があれば
いつか着くだろうという感じでひたすら北上。。。

そして、11月位まででしょうかね。
ほぼ毎週末はいわきでボランティアしてましたね。。
途中からは、ダットサンを福島県の災害派遣車両に登録していただき
千葉からいわきまでの高速道路は書類を見せて無料措置を受けて
ボランティアに行くことができました。

まあ、とんでもない状況の久ノ浜でした。
中でも線量の高い広野町は、まだ手付かずのような感じで
警察犬も一緒に捜索するような現状でした。




毎週顔を合わせるので、知らない仲間もいつしか顔見知りになり
それぞれ得意分野で力を発揮できる場面もありました。
何しろ全国からのボランティアですからね。


通っているうちに「いわき」に愛着が沸きましたよ。
やっぱり早く復興してもらいたかったしね。

一年経った、3.11には妻と子供を乗せて、久ノ浜の
追悼に行きました。家族にも理解してもらいたかったし
自分の目で見て、焼き付けて欲しかったからです。


そして、地元いすみ市商工会青年部でも、復興応援を提案し
なんかやんべさ~、ということで
リストバンドを作って販売して、売り上げを寄付して、みたいな。



早々と新聞にも取り上げていただき、皆様には大変御協力頂きました。

そして、2年目の3.11では旭市の追悼式典に行き、
地元小学生の「花は咲く」の合唱を聞いて、泣きそうになりましたよ。
あの歌、西田敏行さんがNHKで歌ってたけど、本当にいい歌ですよね。




そんなこんなで3年が経った時、青年部の視察では幹事を仰せつかり
縁あっていわき市久ノ浜商工会青年部とコラボして、
被災地訪問をさせて頂きました。

自分がボランティアしていた頃とは全く違う景色で、
「何もない」とい感じでした。

それが凄く寂しく感じて、家の基礎しか残らない町には
この後何がどうなるんだろう、と考えさせられました。





そして、いつの間にか5年という月日が経ちました。

現在は青年部長という立場ですが、改めて被災地訪問を
提案させていただき、今回の仙台・塩釜・石巻が実現しました。

震災の語り部さんをお願いし、細かく話しを聞くことができましたが、
今回、とある質問を、正直に投げかけてみました。

「震災当初は、ボランティアや募金、支援物資など、皆でできる事は微力だがやらせていただきました。
この、震災から5年経った状況で、遠く離れた私どもは、どの様な支援をしたらいいのか?
また、被災された方たちは、何を望むのか、失礼かと思いますが教えてください。」

と、ぶっちゃけて聞いて見た。

すると意外なお答えを頂きました。

「もう、ここまでくるとそんなことは考えないで下さい。この石巻で
あなた達の世代が10人くらいで街を歩いているなんて事はありません。
地元の人なら、それを見てすぐに他県からの人だと分かります。
それでいいのです。それだけで。
ああ、まだ来てくれるんだ。忘れられてないんだ。と思うんです。風化すれば誰も来なくなります。
観光でも、視察でも、忘れないで来てくれる事が何より嬉しいんです。」

なんか、すげえ言葉ですよね。
私には想像をはるかに超えるつらい経験をしているのに
そんなお言葉を頂けるなんて、自分が恥ずかしいったらありゃしない・・
「忘れない」という事と共に、
どこかで応援し続けるという事の大切さを学びました。
今回の被災地訪問も、大変有意義なものになりました。
石巻つなぐ館の皆様、ありがとうございました。


東日本大震災にて、被災された皆様に
あらためてご冥福をお祈りいたします。





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