おじさんと三次元哲学で遊ぼ

もう誰も応援しない

しじみ

2011-06-27 12:20:22 | 日記
前に、アーマードという映画の人間関係が、リアルに描けていて面白いといったけど、ちょうどいまの政界の中のやりとりに似ているようにも見える。

石原によれば、政党の中の政策の結びつきなどというものも非常に、もろいという。

まあ、はたから見れば、なんでこんなに和気藹々と、仲間をかばうような態度を見せていたのに、急にころっと変われるんだろうなどと思ってる人も、少なくないのかもしれないが、政界の政策という接着剤でつながっただけの人間関係というのは、もともとそういう類のものなのだろう

ただ、田中角栄のグループなどは、また違う素材の入った粘着力の強い結びつきもあったようだが、必ずしも、この接着剤の質がいいとは、いえないようだ。それは司馬も指摘してるが、動物的なものを刺激し、よみがえらせながら、どろどろとした粘着力を人工的に作り出す。それは、自然の情の結びつき、あるいは、仁義などのアジア的な美しいものに似ている部分もあるかもしれないが、司馬ほどの観察眼を持っている人からみれば、接着剤の副作用は明らかだったろう。

また、公約というものをつくり、それをもとに国民の信を問い、それを必ず実行することこそ、政党としての誠実さだと思ってる人は少なくなかったろう。少なくとも、この大震災が起こるまでは・・

しかし、必ずしも、それが仁義には見えないことも、この震災でわかってしまった。キリストも、「誓いを立てるな」といってるが、複雑な現実は、つねに変わっているのだが、派手なことがおきないとなかなか、それが見えない。それを型にはめようとすれば、無理が出るものらしい。

しかし、相変わらず、約束を守ることこそ正義だという考えの人もいて、そこでまた意見が分かれて、仲間割れすることもあるだろう。まあ、牧童としては、あまりえらそうなことを言いたくないんだが。

石川良が、賞金の全額を被災地に寄付するという。こっちがお兄ちゃんと慕いたいほど立派だが、仲間内では必ずしも好感情を持っている人ばかりでもないだろうし、どこか周りや先輩が、これまでよりも、よそよそしく接してくるようになったのではないか(笑)

こういうことをやった時点で、石川は、ゴルフ界のアウトサイダーというか、ほかのゴルファーと接していて前と受ける感じが違うなというような関係の数々に気づかされているのではないか。あるいは、ちょっとは、僕の気持ちもわかってもらえたのではないかなどと思い上がってしまい、また読者の数が減るでしょう(笑)

格闘技でも野球でもそうだろうが、飯を食えないというハングリー精神というか、がつがつした、ちょっと汚れたような内面に、ある種、物に恵まれて育った人間が、科学的なトレーニング法で実力を磨き、勝てるのかな・・という疑問を持ったことがある。

まあ、ゴルフやテニスやレーサーのように、昔の金持ちの娯楽というイメージのあるスポーツは、格差という壁が、子供のころからの英才教育を妨げ、育ちのよさそうなお坊ちゃんや、おじょうちゃんが多いようにも思える。しかし、もし、野球のように、南米の貧困層の子供たちにはやくから、ゴルフを教えたら、そら恐ろしい実力の選手も出てくるに違いない。

何かを行うとき、当然、人それぞれ、いろんなモチベーションがあるだろうが、「飯を食えない・・」という中でも、親のあたたかい情を受けながら育った人間の馬力というものは、僕ら物まみれの人間の想像を超えたものがあるようだ。

また、ワコールの創業者などは、戦争体験者であり、インパールで数人の生き残りの一人だったということだが、会社の創業時には、数年間まったく休まずに働きながら、苦しくなかったという。普通の人間がハアハアいうような状況でも、楽でしょうがなかったんだと。

それくらい育った環境により、人間が違ってくるわけだが、現代の頭や合理化を重視しすぎの環境というものは、人間の情や、深いところで生まれるような結びつきが、どうしても希薄になってくる。もっとも、ありとあらゆる人間との間に強い情の関係が構築されたら、神経がまいってしまうわけだが。

また、情というものも案外いい加減なもので、フィリピンで誤認逮捕された鈴木という人が語っていたが、フィリピンの監獄の中は、わりと自由がきくが、地獄の沙汰も金次第だったという。

それで、金があればテレビもみれたりもしたそうだが、いわゆるお涙頂戴もの、人情ドラマを見て、わんわん泣いてる囚人も少なくなかったという。しかし、そういう囚人の現実の行動たるや、まったく正反対な冷酷薄情なものだったりしたそうな。














ほととぎす

2011-06-20 11:58:48 | 日記
読者300人かそこらで、なにをえらそうにと思ってる人もいるかもしれないが、まあ、最近は、どうも、自分の顔つきの傾向が変わってきた。

この前、自転車で走ってたら、だんだん高架下に近づいてきた。それで高架下の手前数十メートルのところで、ある人が演説をしてることに気づいた。その高架下は、とうぜん、まわりより暗いから、よく見えなくて気づくのが遅くなったんだけど、近づいたら、急に目に光が差し込んできて、ドキッとして目をむいたら、カメラマンが数人誰かを取り囲んでいて、よくみたら有名政治家の○○だった。

まあ、あの光がなんの光だったか、どこから発せられたかは、いまだにわからないんだが、その男が数人のカメラマンに取り囲まれてるほか、立ち止まってる聴衆もおらず、地味に演説してた。

その男は有名だったし、子供のころからよくテレビでみていたから、以前なら、こういう場合、ああ、○○がいる・・などと薄ら笑いを浮かべ、あるいは、ニヤニヤしながら、近づいていって、その有名人にカメラを向けたり、握手を求めたりしたもんだし、身近な人間との話のネタにしたもんだが、どうも、最近は、そういう場合の自分の反応が違ってきてしまった。

街中で映画かテレビのロケみたいなことやってても、以前なら、誰が来てるんだろう・・などと野次馬精神を大いに発揮して、ニヤニヤしながらのぞきこんだものだが、最近は、「うわ、やべえ」とか、「うっ、またかよ」などというわけのわからない観念が真っ先に浮かんできてしまい、顔をひきつらせ、この前も、ロケをやってるような光景が100メートル先にとびこんできて、こそこそ背中を向けて走り去ったのだった。

まあ、ロケはあちこちで、アマチュアもよくやってるし、アマチュアかプロか、誰が誰だか、区別はつかないが、わりと大きなカメラを見ると、どうも条件反射的に、逃げたくなるようなわけのわからない習性になってしまった。

読者300人程度の男が、なにを勘違いしてんだ・・と不愉快、あるいは、なにをいってるのか、意味すらわからず、ぽかんとして、あきれてる読者もいることだろう。

だけど、真実というのは、ほんと僕自身ですらわかりにくい(笑)この山田という名前も、実は、偽名なわけでして。かといって、僕は、有名人でも、成功者というわけでもない。

まさに宙遊をさまよってるというのかな・・書いてる内容も、おどろおどろしいほど、真実をついてるかと思えば、狂ってる人間のようにも思えるだろう。まあ、僕の顔も左右対称違うし、前は、左の目が一重、右目が二重だったのだが、両方一重に変わってしまった。ただ、歯並びが悪いから、顔は相変わらず、ぶれている。こういうアイディンテティの人間も珍しいと思うのだが。

じいさん

2011-06-13 12:04:22 | 日記
まあ、これも、相変わらず、正式なコメントがでないということで、いかに想像力でそれを補うかが、腕の見せ所になってるわけだ。

まあ、しろうとだからこそ、政治について、えらそうにいえることがある。

政治についてえらそうにいえることは、総理大臣になりたいというのは、政治家なら誰でも思うものだということだろう。ただ、たぶん、なれないだろうな・・というポジションなり、仲間に嫌われてる人もいるが、潜在的には、その人だってチャンスがあれば目の色が変わり、なりたいだろう。

そういう本音を隠して、いろいろ奇麗事は言うが、やっぱり、なりたいというのが本音だろう。

そういうことで、結局、総理大臣につきまとうのは、嫉妬や怨念だということが、よくわかる。こういう政治を現実に動かしてるからくりは、司馬遼太郎のエッセーなんかにも出てくる。

今度の災害のような非常時が出てくれば、ちょっとは変わるのかなと思ったが、変わらないようだ。

だから、誰が総理大臣になっても、また、すぐに「やめろ」という声が出てくるだろう。みんなで協力してやろうということも、また、協力をどうやるかの意見の違いですぐ、けんかだろう。

いま、誰に総理大臣になってもらいたいか・・というアンケートでも、トップが数パーセントの支持しかない。そんなら、実際に、そういう人が総理大臣になっても、また指示が、すぐに下がるだろう。

まあ、僕が総理大臣になっても、当然、なにもできるはずがない。逆に、こういう初めての状況に立ち会わなきゃいけないのは、なにをやったらいいかまったくわからず大変だろうなどと思ってしまう。だから、あまり、一方的に、攻めたくないというのが本音でもあるが、かといって誰も総理大臣を攻めないというのも北朝鮮のようで怖い世の中という思いもある。

どうせなら、アメリカみたいに4年とまではいかないけど、最低2年は総理大臣になったら、やらせるような法律を作ってしまったほうがいいように思うけどな。そうでない限り、政治は総理大臣をいかにやめさせて、次のチャンスをつかむかということが仕事のようになってくるだろう。

それは、逆に、誰が総理大臣になっても、そんなに世の中は変わらないという暗黙の良識のようなものをみんなが持ってるからともいえるだろう。

この時代、テレビやネットがこれだけ普及してるだけに、タレント的な総理大臣が生まれる可能性もあるが、間違っても、この日本にヒトラーは生まれないだろう。だからこそ、ほんとは、首相も国民投票で決めたほうがいいと思うし、こういう時代に、首相が派手な間違いをすれば、また国民は学習して、次の、まったく反対の政策をとる側に力を与えるというようなことを交互に繰り返していくだろう。

野球の現場で総理大臣的権限を与えられてると思える監督は、勝つという至上命題を与えられて、負ければ、いろいろいわれ、首になる。しかし、勝ち続ければ首にならないが、今度は、つまらないといわれたり、もっと若手を育てろと悪口言われたり、結局、悪口をいうのが、ファンの楽しみなわけだから、悪口は永遠になくならない。

それと同じで、総理大臣への悪口も永遠になくならず、次の総理大臣になりたい人が、次々に、その悪口に便乗して勢いをつけようとする。

それで、いまの現状では、悪口で支持率が下がっては政権が維持できないから、その支持率を上げようと、いろいろ顔色ばかり伺うが、どうやっても、悪口は消えないから、なにをやっても支持率は下がっていく。

だから、なくならない悪口の渦の中でも政治が続けられるように、2年は最低やるとかいう法律を作ったほうがいいと思うんだが。そうすると、今度は、総理に反対ばかりして仕事がすすまないことで、総理大臣ばかり内外からたたかれてきたのが、反対ばかりしてる集団政党側への国民の目が、より強く向いてきて、また違ってくる面もあるんじゃないかな。

あるいは、そうまでして、総理の椅子がほしいのか・・という悪口もあるが、はじめにいったように誰もがほしいわけだから、「ほしいに決まってるじゃない・・あなたはほしくないんですか?」などと返してみればいい(笑)

もっとも、その悪口の流れをすこしでも、かきけすために、総理大臣の給料だけ、ほかの議員より下げればいいんじゃないかなどと思ってしまった。

そうすると、そこまでして総理大臣やりたくないという政治家も出てくるかもしれないし、国民の目から見ても、総理の椅子へのしがみつきに邪心でないものが入ってるように見えてくるかもしれない。「なんで、そこまでして総理になりたがるのか・・馬鹿だねえ・・」とあざ笑われるような給料にしてしまい、総理への熱意が本物かどうか試すというのも、観念的には面白いと思うのだが。







やりいか

2011-06-06 12:34:18 | 日記
当たり前だが、その時代で野球も変わっていくというか、野村理論も通用しないような現実が出てきている。

たとえば、再生というが、野村に言わせれば、どっかで成績が落ち込んで追い出されたような選手というのは、必死になるから、そういう選手をとってきて再生させるきっかけを与えて、わりと成功してきたように思える。それで野村再生工場なるニックネームがついた。

だけど、最近の状況を見てると、とくにアメリカ帰りの人たちが、奮起しないというか、アメリカ帰りにはこの理論が当てはまらないように思う。岩村も、「なにくそ魂」という言葉を座右の銘にしていたが、どうも、気持ちがついてこないようだ。

まあ、やはり、アメリカ帰りというのは、都落ち的な自己催眠にかかるのかな・・などと勝手に思ってしまった。というのは、メジャー挑戦というのは、野球選手の最頂点の夢のような気持ちのたかぶりも、あったろうから。

たぶん、おなじ日本でのプロ野球選手というのは、好成績をあげる上で、精神的なもののの差がすごく大きいんだろう。まあ、サッカーでもそうだろうが・・。

おそらく、プロ野球界に入ってくるメンバーの中で、まれに超天才とか、ボールを極端に飛ばすのに飛びぬけた奴とかもいるだろうが、あとは、プロに入ってくるようなのは、スカウトが太鼓判押すわけだから、技術的な面でみな遜色なく、精神的なものの影響がほとんどなのではないかと思っている。

2割5分打つバッターも、3割打つバッターも、同じなどとは、僕くらいしかいわない理論だろう。だからといって、なめてもらっては困る。

確かに、僕らだったら、ああいうピッチャーの球は、バットに、かすりもしないだろうから。たとえ、ピッチャーが川原だろうと・・

実際、バッターボックスに立って、150kの球とか、スライダーとか見てみたいというのはあるが、そのチャンスすらない。

だから、想像でしかいえないが、そういう球を4本に1本でもヒット打てるというのは、やはり、3本に1本打てる可能性も十分持ってるはず。

ただ、メジャーとなると、やはり、技術というか筋肉的な差を見せつけられるというか、すごい日本のプロ野球選手ですら、精神的なものだけで補い切れないものがあるのではないかと勝手に思ってしまう。

どんなスポーツでも、重い階級になるほど、日本人との実力差が歴然としてくるが、相撲ほど太れば、また技術的なものがものをいってくるようだ。

ただ、ボクシングのヘビー級世界チャンピオンなどは、日本から永久にでないのではないか。あるいは、オリンピックの100メートル走で日本人が金メダルを取ることなど、今後ありえるだろうか。

ボクシングなど、アリが、蝶のように舞いハチのように刺す・といわれたように、黒人は体の大きい選手でも体の動きが速かったりするが、黄色いぶよぶよした体というのは、どうもある体格を超えると、みな動きが一気に緩慢になるように思える。

こういっちゃわるいが、アメリカ帰り野球選手の、体たらくをみてると、ますます、この見方の確信を強めた思いになる。井口くらいだろう。日本に帰ってきて、ぶかっこうな成績でないのは。そういう意味で、井口の精神構造には、なにか独特なものがあるのかもしれない。

それと、ああいう素質のありすぎるプロの面々は、短期的に力を発揮すること多いが、長期的には、やはり、へばってくるのかな。短期では見えなくとも、長くなるほど、差が出てきはじめる。

また、ロッテみたいに、お祭りには強かったり、監督が変わった一年目だけは、気分が変わるのか、その年だけ強くなるというデータのチームもある。

まあ、西武もそうかもしれないが(笑)

ロッテは、西岡がいなくなっただけで、ずいぶん違う面もあるだろうが、気分を乗せると手がつけられないというか、去年みたいに三位から敗者復活で日本一になったりする。

これには、一位で日本シリーズを戦った中日も、俺たちが必死に勝ち取った一位っていったいなんなのか・・みたいなカルチャーショックを受けたのではないか。それが、今年の序盤の成績をものがたってるようにも勝手に思う。

もっとも、中日のみんながこんなに打てなくなったのが、球が統一になったからというのなら、恥ずかしい(笑)

こういうときのために去年まで重い球で練習しとけば、よかったのになどと思ってしまう。

また、ロッテだけは、政治家みたいに一年ごとに監督を変えてみたらなどと、失礼なことを思ってしまった(笑)

やはり、そういう精神的な面の差が本人たちが思ってる以上にあるように思うね。その差というか、長期的に、もってるのはイチローくらいだろう。

まあ、イチローは技術的にも天才なんだろうが、やはり、精神的なものにも、違いがあるように見える。

ああいうプロに入るようなのは、当然、少年のころから、実力が飛びぬけていて、特にメジャーにいくようなのは、ずっと「俺はすごい人間」というような意識をさすがに口に出しはしないが、腹の中で持ち続けてくるわけだろう。

それが、はじめて、実力で太刀打ちできない事態にのぞんで、これまで生きてきた論理で自分を飼いならせなくなってくるというか。