おじさんと三次元哲学で遊ぼ

もう誰も応援しない

すずめ

2011-01-30 11:34:07 | 日記
とにかく、私自身は、精神をかたどる血液がある程度、定まってきた。だから、読者がどうなろうが、けなされようが、ほめられようが、生活の糧を得るための媒体は別として、生きてる限り、蚕が糸をはくごとく書き続けることになるだろう。

まあ、読者はどれだけ興味を持っているかわからないが、私の吐き出す言葉に魅力を感じない人からの悪口として、「ここはインドじゃない」「内容が古すぎる」などの類が多いように思う。

そこで、私の精神の血液を形づくってきたものとして、実生活の影響はもちろん、多大にあるだろうが、それと同等に、読んできた本というものの影響も大きいだろう。

それで、私が面白いと思って読んだ著者の名前を思い出せるだけ羅列し、私がほんとにインド的な人間といわれる類の者なのか、ここの皆さんにも面倒だろうが、考えてみてもらいたい。なお、ここで取り上げるのは、まあまあ面白いから、かなり面白いと思ったまであげ、ちょっとは面白い程度から以下はあげない。

また、若い時期に読んで面白かったものが、いまは、ものたりないというようなこともあるが、とりあえず一時期でもはまったものは羅列する。どれも、それなりに掘り下げて、人まねでない見識というか、オリジナリティをつかんだものであることは、間違いない。

(インド)ラジニーシ クリシュナムルティ ヨガナンダ ラビバトラ

(メキシコ)カスタネダ

(アメリカ)カレンホルナイ マズロー ルイス フロム ガルブレイス ブラッ  ドベリ バーナデットロバーツ アーノルドミンデル

(イギリス)シルバーバーチ アーサーガーダム コリンウィルソン マクドナルドベイン ドーリル リバイドーリング 

(ロシア)ドストエフスキー トルストイ ペルジャーエフ グルジェフ ソルジェニーツィン

(ドイツ)ヤコブベーメ ヘッセ

(北欧)スェデンボルグ

(フランス)アンドレモロワ ロマンロラン ツヴアイク 

(オランダ)ウォルフレン

(日本)無明庵EO 司馬遼太郎 山本七平 山本夏彦 会田雄次 森田正馬 小島直記 林英彦 鎌田慧 伊藤肇 副島隆彦 稲盛和夫 松下幸之助 鍵山秀三郎 森信三  芳村思風 梅原猛 鈴木大拙 鈴木知準 城山三郎 佐高信 本山博 山口修源 堀田和成 遠藤周作 船井幸雄 行徳哲夫 谷口正春 手島郁郎 和田重正

ざっと、思い出せるだけ思い出してみた。若いころは、自身面白いと感じられないようなものでも、世間が面白いといってるとか、歴史の遺産といわれてるからとかいう理由で、無理して読んで、わからない自分がおかしいのかとか思ったものだが、そういうものはほとんど頭に残っていない。

やはり、読んで面白いという感覚をつかむほど、自身の精神の血液型がわかり、周囲にに影響を受けることもなくなり、余計な読書をしなくなり、ストレスも感じなくなる。

ただし、この場合の面白さも、やはり、感覚的な面白さと、精神的な面白さがある。精神的な面白さがわかってくるほど、感覚的なものがわずらわしくなるように思う。

ただし、最近は、感覚的な面白さから読書する人も減ってるように思う。電車内で本を読む人は、そこそこ見かけるが、やはり独自の掘り下げた判断や好みから読むという人は、少ないのではないかと。偏見かな・・

あとは、電車内をみても 寝てるか、漫画か、携帯、ゲームをひたすらいじってる人が多い。景色を見てるほうがよほど、精神衛生上よろしいようにも思う。

城山三郎も、ひっきりなしに携帯と面と向かってる若者たちをみて、これではますます人間がものを考えなくなる、歩いてるときがものを考える一番いい時なのにと心配していたようだ。

私が上記にあげた経済学者は、金儲け経済だけでなく、哲学のようなものとミックスさせた形而上学を披露していた。市場原理だけでは、どれだけ人間性を粉々にしてしまうかということまで含めた言質を披露していた。

それが証拠に、ケインズや、アダムスミスという経済原理主義者も、宗教的な本も出してるではないか。

しかし、いまや、ほんとに売り上げがどうとか、景気がどうこうたらという結果論しか、経済学者もいわなくなってる。あるいは、経済に疎い私でも、人真似の粋を出てないとわかってしまうような言質だったり。とにかく、経済が数字や結果さえ出し、それが法律の範囲内であれば、あとは、おかまいなしというように見えてしまう。

私も、経済については、多少興味があるのだが、そっち方面に頭がよくないから、よくわからない。ほんとは独創的で思考が筋肉質の経済学者に、大きな視点からわかりやすく、明晰に経済を教えていただきたいんですが。

まさに、手段が目的に、木の根や柱を保つのではなく、枝葉を飾ることが目標になっていったとき、すべてが小さくなるということだと思う。水槽の中でペットを飼うと、ある程度以上大きくならない。固体が水槽の大きさに適応してしまうのだ。どうも、そういう風に、人間の思考回路が小さくなっていってるように思えてしまう。

しかし、そういうことを指摘すれば、お前にいわれる筋合いはないとか、何様のつもりなどと、うらまれて社会から除外され、まずいことになる。そのときこその哲学のようなものを教えてる本は上記の中にもある・・














マウンテンゴリラ

2011-01-29 12:39:27 | 日記
天国というのは、なにかというイメージが俗っぽいものに固定化してきているというか。司馬氏も、多様性を認めないと、文化は滅びると警告していた。

社会で勝ち組層やインテリといわれる層にまで、天国的な人間とは、なにかという偏見を解くうえで、司馬氏は、すれすれラインだろうね。権力者にとって、EOやダイジはいかがわしい存在のようにしか、うつらないはず。オウムとか、ああいう間違いを犯した宗教団体と区別つかないはずだ。彼ら二人は、徒党を組むことも嫌ったのだが・・

また、二人は自身の言葉に毒があることも、自覚していた。

そういえば、鎌田慧というジャーナリストが、高給取りで権力そのものになるほどジャーナリズムは保守化していくといってるが、鎌田氏も、やや、弱者救済という視点が信念化しすぎて曇り気味のバイアスになりがちではあるが、現代、名のあるジャーナリストとしては、数少ない天国に近い方の視点であろう。

天国的なイメージの人たちが、風塵抄にも何人か出てくるけど、大体、こんな私がイメージしていたものとベクトルがあっているから、読んでいて癒される。私が前に書いた天使が堕天使になって、人間を滅ぼそうとする映画の天国的な人間像とも合致している。

やはり、こんな風に掘り下げていくことでつかんだ天国の視点を維持してるかどうかで、物書きは、子供と大人ほど違ってしまうように思う。同じ名称の職業でも、詐欺師と牧師や坊さんほどの違いが出てくるように思う。

実際、あちこちで暴力団追放運動の声が上がり、彼らも派手なことはできないようだし、見かけいかつい人たちもそんなに見かけなくなったが、鎌田氏も指摘してるように、仕事の横流しだけで、かなりの金を取ったりすること自体、やくざのやっていたピンはね金集めと同じパターンなのである。

もちろん、この種のことはセンスの問題で、5千円で仕入れたものを7千円で売っても、詐欺とはいわれないが、5万円で売れば詐欺だろう。

こういう類のいかがわしいことが、健全といわれるような社会の中心部でも行われていることを細かく示せるのは、おそらくプロの仕事で、われわれアマチュアの物書きでは、自身の身の回り以外のことは難しい。

責任をおしつけるわけじゃないが、そういう取材ノウハウも知りつくしてるはずのプロジャーナリズムの仕事だろう。そうなって、はじめてジャーナリズムということでお金をもらう仕事も、本質、詐欺でなくなり、それを職業として金をもらいつつも、ずっと天国的な人間でいられるような気がするのだが。

いま、テレビで、いろいろなことをいってる芸能人や、知識人、スポーツ選手などのコメントを聞くと、どうもこういう生粋の天国イメージからずれまくってるという気がする。

要するに、人間が勝手に作り上げたゲームの中で、どれだけ金を稼ぐか、人より金持ちになり、物欲や感覚を満たすか、所有物の多さや肩書きで勝った気分に浸るかだけで、それが天国であるんだと。あなたがいうのは、時代遅れの古い天国で、時代に合わせて自分を変えていかなきゃ生き残れないと(笑)彼らの自信あふれる態度は、釈迦やイエスにまで、こんな説得で攻めてくるのではないかと思うほどだ。

ただし、そんな人たちでも、多くはそういう天国観を露骨に表すのは、恥ずかしいらしく、美辞麗句や、多数化というもので、うまく、ごまかしてるように思うのだが。

要するに、犯罪者が多数になれば、赤信号みんなでわたれば怖くない・・となってくる。ここが人間の不完全なところで、ある種の感覚を体内に生かし続けておき、その尺度で現象を見ない限り、人間は、なんでもできるようになるのだ。

しかし、どの宗教でも、この感覚を生かしてる人が語ったもので共通してるのが、多数派こそ地獄的ということなのである。たとえば、トルストイは、「多数に従うことは動物的なものに従うことであり、独自に動くということは精神的なものに従うことだ」といってる。

私は、こういう金持ちというのが、実は、よっぽど気をつけないと天国から遠すぎるようになるかを論理的に、明晰に、科学的に示していくことが、一番、世の中をまともにするのに近道で役立つのではないかと思ってる。間違ってるかもしれないが・・・

そうでない限り、みなが、出来上がった既成の金の多い職業や権力をこぞって求め、それを得てしまうと保身に走り、甘い蜜を吸い続け、「努力したんだから得るのが当然」と、他人にはわずかも譲ろうとせず、得られない負け組といわれる人たちも、勝ち組と同じまやかしの天国を求めながら恨みとねたみで、犯罪を犯したり、自殺したり、家庭内暴力、虐待、その他、実は、すべて同じ根っこにあるんじゃないかな。

そういうのは、人ごとなら客観的に見れるから、わかりやすい。官僚がどうだとか、他人の利権、強欲については、正義漢として、崇高な気分になり団結しやすいが、いざ自身になると、やはり、汝自身を知れない。

そして、天国も大事だが、経済をなんとかせにゃ・・という大合唱に押されてしまう。経済を潤すことが、結局、多数にとっても天国だと。しかし、金持ちたちが、自身がこのままの精神構造じゃ、死んでから地獄行きだなと一瞬でも頭にちらつくようになれば、そのほうが、より早く変わるように思うのだが(笑)

もちろん、私は、古代に戻れとか、貧乏がいいなどというつもりはない。お金は、ある程度は必要だろう。

ただ、所有物に執着するということ自体、あちこち人間の愛というものが欠乏してる証拠だろう。家族でも、ほんとに家族でいることが楽しければ、それだけで余計なものはいらないはずだし、それがないから恨みやねたみが生まれ、人に勝つため、みせびらかすための所有物も必要になってくる。

いま社会でよくいわれてる掛け声は、内実、金持ちが自分たちの生活を保持したり、さらに物質的に、金銭的にまわりを満たしていこうと・・

そういう俗っぽい動機に、だまされて利用されるというような類も、実は少なくないのではないか。ワーキングプアなる言葉もできたが、それが証拠に金のない負け組といわれる人たちは、いくら働いても金がたまらないじゃないか(笑)

物質的にある程度のものさえあればいいという人もいるはずだが、みんながそうなると、金持ちの生活は維持できなくなるのだ。むしろ、そういう淡白な精神状態を維持しない限り、まずいんじゃないかという職業種の人もいるはずなのだが。


















ニホンザル

2011-01-26 13:10:19 | 日記
私自身が、中学時代、町田のある中学が全国一の大人数で、校内暴力で問題になってた。そのころ、私の中学は全国2位とかの人数で、やはり、校内暴力を目の当たりにしていた。

こういう言い方をすると、傍観者的でいやな気分になる読者もいるだろうが、当時の私は、不良に反抗することなど考えられなかったし、さして倫理観もなく、こわいから悪さもしないくらいの身の処し方で、誰かがいじめられていても、むしろ、そのことが退屈をまぎらしてくれて喜んでみてるようなズルイ男であったように記憶してる。

私の場合、へんなのだが、年を追うごとに、若いころの記憶のバイアスがとれ、以前より、正確さをましてよみがえってくるようになったと思う。

ただ、当時、そういう屈折した目で盗みみてきたズルイ記憶ではあるが、外にもれることのない、秘密主義の校内暴力をぼーっと垣間見てきたから、不良に、なめられる先生のタイプが、大方わかる。

たとえば、ある理科の先生がいたが、不良のK君が授業中に話し込んでいたので注意した。すると、k君は、勢いよく、その先生のもとに歩み寄り、胸倉をつかみ、「なんかもんくあんのかあ!」とすごみ、先生は、「うっ・・ない・・」としぼりだすような声を上げて、あっさりギブアップしてしまった。

それ以来、その先生の授業のときは、学級崩壊というか、とにかく、ほかの生徒にもなめられてしまって、ざわざわ、どうにもならなかった。

さすがの不良でも、腕力のつよいような先生には歯向かうことができず、体育の先生は、その点、なめられにくかったし、技術科の腕が丸太のように太い先生も、不良たちの兄貴的存在だった。

その点、どうしても、女の先生というのはなめられてしまい、音楽の先生などは、よく泣いてた。ただ、腕力がなくとも、もう一人の女の音楽の先生は、ヒステリーじゃないかとおもうほど、気が強く、なめられなかった。

ただ、ある社会の女の講師は、やはり気が強く、いかにも正義感が強いという風貌で不良にも注意していたが、どこか自分がなめられないようにという警戒心というか、虚勢のようなものが、ちらついて離れなかったように思う。隙がないというか。

これは、いまになってからの分析で、当時はそんなことはわからなかったが。

音楽のヒステリー気味の先生の方は、むしろ、気質がつっぱりの生徒に似ていて、かなり、彼らと理解しあえるようなニオイが漂っていたように思う。

理解しあえるといえば、私は、不良ではなく、むしろ中学3年くらいから、根暗といわれるような範疇の人間になってしまった。ただ、どういうわけか、不良に、かわいがられた(いじめられたという意味ではない)。

最近、都内で、硬派のとっぽいというか、ズンドウ姿の中学生は見かけなくなったが、私らが中学時代は、あちこちでよく見かけたし、横浜銀蝿なるバンドが売れ、ビーバップハイスクールなる不良学生が主人公の漫画がヒットしたりした。

ツッパリの語源は、よくわからないが、彼らは、へんなところで格好つけるというか、一本筋が通ってるようなところもあったし、弱いものいじめなどはしなかったし、道路を散らかしたりすると、番町が、「ほら掃除してけ」などと、すごんだりした。

嶋大輔のうたにも、「つっぱることが男のたったひとつの勲章だって。この胸に信じて生きてきた」なるものがあったが、確かに、気のいいお兄ちゃんといえば、そうも言えた。女の先生に、そんな態度ではむかって、どこが気のいい兄ちゃんだと言われれば、それまでだが、女の先生には手を出しはしなかった。

中学生だけに、その点、正義感も子供っぽく気取ったもので、畜生の浅ましさ的なブレが随所に見受けられるが、それなりに、分もわきまえていたのではないかと思える。

ただ、ギブアップした理科の先生は、たとえ殴られてでも、反抗しなきゃいけなかったと思う。

当時、校内暴力になすがままの先生を揶揄する言葉として、「チョークより重いものを持ったことのない人たちだから」なるものがあったが、驚いて縮み上がってしまい、とっさに引いたのもやむをえないが、文句ありませんと、不良に告げてしまったことで、そのときから、彼の教師としてのアイディンティのすべてが崩壊してしまったのではないだろうか。

そして、ものを教える楽しさのようなものが、前からあったかどうかわからないが、意義もなにもかもが崩壊し、脳内がぼんやりとなって焦点が定まらず、生きがいも、より感じにくくなっていったに違いない。

ほんとうなら、なんで、生徒が、こういう勉強をしなきゃいけないかと質問しても、屁理屈なく、リアリズムで答えられる先生がのぞましいと、部外者の私は、気楽にいってしまうのだが。

司馬氏が語ってる学生時代のエピソードで、「ニューヨークの語源はなんですか?」と英語の先生に聞いたらしいのだが、先生は、むっとした顔で、「お前は、長くもたんぞ」と意味不明の返事をしてきたという。

結局、先生は、なるべく余計な質問には答えたくないし、やはり、わからないのだろうし、司馬のようなアウトサイダー性を内に秘めた学生の独創的な質問に答えるのは並大抵のことじゃないだろうが。

わからないことはわからないと、笑って頭をかくような先生のほうが、まだ、好感がもてる。ただ、以来、司馬氏は、英語の授業に嫌気が差し、図書館で独学で学ぶようになり、勉強の仕方を体得したと逆に感謝しているようだが。