大和を歩く

大和憧憬病者が、奈良・大和路をひたすら歩いた日々の追憶

059 飛鳥大仏・・・痛々し1400年の傷深し

2010-12-28 11:32:30 | 飛鳥
飛鳥に足を踏み入れながら、まだ大仏様にご挨拶をしていなかった。「飛鳥の辻」を南に折れてすぐ、真神原の北のはずれにあたる位置に「飛鳥大仏」と彫った大きな石碑が置かれている。いまそこは、安居院(あんごいん)という小さな庵のような寺になっている。訪れるたびに周辺の整備が進んで、かつての《野辺の大仏》といった風情は消えた。よく知られた大仏様のおわす所としては、殺風景な観光スポットになってしまった。

ここは587年に発願された日本最古の寺、法興寺(元興寺=飛鳥寺)の末裔だ。寺跡は昭和31年の発掘調査で、塔を中心に東西北に三つの金堂を配す不思議な伽藍配置をしていたことが分かった。廃仏派の物部一族は滅んだとはいえ、仏教という異郷の神がまだこの国に定着できていなかったころ、半島から技術者を招き、これだけの大伽藍を建立する富と権力の集中はすでに完成されていたことになる。その集中先は「蘇我」だ。

その蘇我を滅ぼす謀議が交わされたという境内の槻の木は、もちろん今はない。大仏様の座る位置だけが、創建時から変わっていないということである。私の大仏さま初対面は、例のアポロの宇宙飛行士が月面を歩き回っていた1969年7月。その後も拝ませていただいたことがあるが、大仏様はいつも「時の流れなど、何ぼのものでもない」といった具合に首をわずかに傾けておられる。その様子は、本居宣長先生に語ってもらおう。

《飛鳥の里にいたる。飛鳥でらは里のかたはしに、わづかにのこりて、門などもなくて、ただかりそめなる堂に、大仏と申して、大きなる仏のおはする。丈六の釈迦にて、すなはちいにしへの本尊也といふ。げにいとふるめかしく、たふとく見ゆ。かたへに聖徳太子のみかたもおはすれど、これはいと近きよの物と見ゆ。またいにしへのだうの瓦とてあるを見れば、三四寸ばかりのあつさにて、げにいとふるし。 本居宣長『菅笠日記』》

この『菅笠日記』は、宣長43歳の安永元年(1772年)の早春に、吉野から飛鳥を回った2週間ほどの旅の記録である。飛鳥大仏のご様子は現在とほぼ同様のはずで、宣長さんは「いとふるめかしく、たふとく見ゆ」とおっしゃる。しかし私の印象は「不気味」のひと言だった。傾いた薄暗いお堂の中に、窮屈に身を置く大仏は、顔はケロイド状に傷つき、体の部分部分は明らかに後世の稚拙な補修が施されて痛々しい。

顔は左に傾き、大きな杏形の眼が古代への入り口のように大きく見開かれている。推古17年(609年)の止利仏師作と伝えられるこの日本最古の丈六の大仏が、なぜこんな無残な姿になったか。戦乱で焼かれたからだといわれ、あるいは鋳造技術が未熟で失敗作だったという説もある。いずれにしても仏教伝来からまもなく建立された大伽藍が、1400年の時間の経過でこの庵にまで縮小され、大仏も放置同然に残されたのだろう。
           
初めて訪問した際、大仏様の脇からその裏に当たる座敷に上げてもらった。寺の縁起の説明や、瓦などの出土品が展示してあったように思う。御住職にはお会いできなかったが、二弦琴といったか、古代の琴を弾く国内ただ一人のお方だったらしい。小さな中庭を囲むように廊下が巡っていて、奥に手洗いがあった。お寺というものをほとんど知らない年頃であったが、狭くて少しかび臭く居心地は悪かった。(旅・1969.7.21-22)(記・2010.12.20)

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