大和を歩く

大和憧憬病者が、奈良・大和路をひたすら歩いた日々の追憶

052 飛鳥辻・・・幻の墓場でもよし飛鳥道

2010-12-16 15:05:43 | 飛鳥

飛鳥辻とは、飛鳥坐神社前の変則交差路に私が勝手に付けた名前で、そうした地名が飛鳥にあるわけではない。辻に立って、どの道から歩き始めようかと考えあぐねている。参考までに、飛鳥について書かれたもののいくつかを思い出してみよう。まとめると「げにいとふるし」飛鳥は、日本人を「遠い昔からここへ来た」ような思いにさせる「墓場」で、「すべての時間が幻」だが、「現実逃避の夢見る人の故郷」であってはならない、となる。

《いにしへのだうの瓦とてあるを見れば、三四寸ばかりのあつさにて、げにいとふるし。本居宣長『菅笠日記』》

《飛鳥路はすべて墓場だ。古樹に蔽われた帝王の陵、一基によってわづかに知られる宮跡、礎石だけを残す大寺の跡、無数の古墳と、石棺や土器や瓦の破片等、千二百年以前の大和朝の夢の跡である。亀井勝一郎『飛鳥路』》

《日本書紀が蝦夷入鹿を誅するのを記述するに途方もないテンカンやヒステリイの発作を起こしているのですからです。極めて重大な理由がなくて、このような妖しい記述在りうるものではなかろう。蝦夷入鹿が自ら天皇を称したのではなく、一時ハッキリ天皇であり、民衆がそれを認めたのだ。私製の一人ぎめの天皇に、こんな妖しい記述をするはずはないね。(中略)幻さ。すべての時間が。坂口安吾『飛鳥の幻』》

《飛鳥は日本の故郷であるといわれる。しかし、それはけっして、永久の日本からの故郷であったわけではない。これは、むしろ六世紀末から七世紀末にかけて、日本が、大いなる変革を求めた時代の政治的な拠点なのである。(中略)五回に渡って都は飛鳥に入り、そして飛鳥を出た。そして日本の政治は大きく変貌したのである。(中略)飛鳥を、現実逃避の、夢見る人の故郷としてはいけないのである。梅原猛『飛鳥とは何か』》                                                              
飛鳥は、点在する遺構、遺物が古の姿をよく残しているばかりでなく、山河といった地勢そのものが、万葉に読み込まれた時代のまま保たれていることが、奇跡なのである。そして第一のポイントは、その「狭さ」にある。極東の島国とはいえ、人口1億2000万人を養い、世界の富の数%を蓄積するまでになったこの国が、こんな小さな世界から始まったのだということを眼前に見せてくれる、それが現代における「飛鳥の意味」だと考える。

「国の歴史」「権力の変遷」などというものは、所詮その程度のものだということを、ここは教えてくれる。だから訪れる者は、まず気持ちが小さく縮まり、そしてその後に、ゆっくり拡がって行く。そしてもう一つのポイントは、こうした歴史を持つ土地が、今は小さな村落となって、なお人々の暮らしが続いていることである。

今も日常の暮らしがそこにある、そのことが貴重なのである。いくら遺構・遺物がよく保存されていようとも、それが現代の生活と結びついていなければ、ただの博物館でしかない。飛鳥はその点でも貴重なのだ。いや「貴重だった」というべきか。過去形で記すのは、私が知るこの40年間だけでも飛鳥の変貌は著しいからである。
            
それは40年前にできた飛鳥古京保存法の影響が大きいのではないか。飛鳥の歴史的景観を守れという国民的運動が盛り上がり、法整備につながって乱開発を防いだ意味は大きい。ただ運動が残したものが、結局は「飛鳥の公園化・観光地化」であったとしたら虚しい。今日の飛鳥を歩くと、そんな思いに気分が落ち込んでしまうことがある。(旅・1970.7.23-24)(記・2010.12.16)

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