大和を歩く

大和憧憬病者が、奈良・大和路をひたすら歩いた日々の追憶

056 入鹿谷・・・大君は神にしませば日も翳り

2010-12-21 08:05:40 | 飛鳥

「飛鳥辻」で引用したように、坂口安吾は「蝦夷入鹿が自ら天皇を称したのではなく、一時ハッキリ天皇であり、民衆がそれを認めたのだ」と書いている。なるほど当時の最高の公文書であっただろう「天皇記」「国記」(本当にそうした書があったとしたなら)が、なぜ蝦夷邸に保管されていたのか。蘇我の当主こそが「大王(当時はまだ天皇という呼称は生まれておらず、大王というべきだろう)」だったからと考えるとつじつまが合う。

確かに稲目―馬子―蝦夷―入鹿と続いた蘇我一族は、馬子以後、大王家をしのぐ勢いを見せていたのだろう。馬子は崇峻天皇を暗殺し、入鹿は聖徳太子が没して20年後に上宮家を滅ぼしている。すでに旧家の風格を備えていた大王家と新興の蘇我一門は、婚姻による混血を進めながらも覇権を競う緊張関係にあったのだろう。

《蝦夷入鹿とともに天皇記も国記も亡び失せた意味は明瞭だ。蝦夷が焼いたのでなく、恐らく中大兄王と藤原鎌足らが草の根をわけて徹底的に消滅せしめたのに相違ない。(中略)むしろ蘇我氏の祖先は大国主系統かも知れないと私は空想するのである。蘇我氏の地たる飛鳥のカンナ(イカヅチの丘)はミモロ山ともいうね。大国主の三輪山がミモロ山である。》

《馬子の頃に三輪逆という三輪の一族らしくて妙に怖れ愛されているような奇怪な人物がちょっと登場して殺されるが、馬子はこれとジッコンらしいね。ヒノクマの帰化人はじめ多くの帰化人にとりまかれて特殊な族長ぶりを示していたらしい蘇我氏の生態も、なんとなく大陸的で、大国主的であるですよ。》

《私は書紀の役目の一ツが蘇我天皇の否定であると見るから、蘇我氏に関する限り、その表面に現されていることは、そのままでは全然信用しないのである。》(坂口安吾『飛鳥の幻』)

「乙巳の変」は、蘇我が大王家に取って代わるのではないかと危惧する中大兄らが決行したクーデターであり、やがて人麻呂が「大君は神にしませば」と詠い、記紀によって大王家の正当性が、安吾の言うように「ヒステリックなまで」粉飾されていく。そうやって天武・持統の時代に至り、この国にようやく王権の確定が見られた。

つまり「天皇記」「国記」を焼いたのは、果たして蝦夷だったのか? 蝦夷にとって、それらの文書を消滅させることに何のメリットがあったか? メリットはむしろ、中大兄皇子らクーデター決行側にあったのではないか。そこには大王家には好ましくない、蘇我の正当性が記録されていたのではないか。だからこそクーデター派はそれらを押収し、直ちに火をかけた。そして新たに日本書紀を編纂し、蘇我を徹底的に貶めていく……。

こうした一大戦略が功を奏して、古代・日本はようやく土台を固める。そのプロデューサーは鎌足・不比人の中臣(藤原)親子であった。入鹿谷を眺めていると、こんな思いが次々と湧いてくる。この谷は、私にとって飛鳥の中でも極めつけのミステリーゾーンなのだ。
           
日本書紀では悪逆非道の権力者として描かれる蘇我入鹿が、首を刎ねられて1300年余になる今日、架空の首塚に花を手向けられ、観光客の記念写真に納まっている。死者に対する日本民衆の心情の優しさを物語っているのだろうか。私はすっかり「安吾派」になって、飛鳥を彷徨したのである。(旅・1969.7.21-22)(記・2010.12.19)

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