大和を歩く

大和憧憬病者が、奈良・大和路をひたすら歩いた日々の追憶

057 真神原・・・今はただ国の肇を風が吹く

2010-12-26 14:00:52 | 飛鳥

さて、私とあなた、つまり筆者である私と読者であるあなたは今、ともに「入鹿の首塚」(前々項の写真参照)の脇に立っているとしよう。まず西を向いていただきたい。さっき登った甘樫丘が東麓の緑の壁を見せている。振り向くと、すぐそこは飛鳥大仏が鎮座する安居院。飛鳥寺(法興寺)の跡である。北は明日香村飛鳥の集落が軒を連ねる。そして南は、一面の水田が広がっている。その原を「真神原(まがみのはら)」という。

田んぼの真ん中を、一本の道が延びている。今では「明日香遊歩道」などという無意味な名前が付けられ、きれいに舗装されているが、これは単なる畦道ではない。かつての「中ツ道」の名残りだと私は考える。つまりこの南側に広がる田んぼの中に、かつての飛鳥の都が眠っていて、その後の「日本の都」は、この道を北へ延長していったラインを基本に都市計画されていったのだ。この畦道は、日本都城史の「軸」といえるのである。

日本書紀・崇峻元年(588年)に「飛鳥衣縫造(きぬぬいのみやつこ)の先祖の樹葉(このは)の家を壊して、はじめて法興寺を造った。この地を真神の原と名づけた。または飛鳥の苫田(とまた)ともいう」という記述がある。「真神」はオオカミのことだという。当時はニホンオオカミが跋扈していたという解釈もあるが、そんなことから「真神の原」と命名されたのではあるまい。当時としてもそれほど無人の地ではなかったはずだ。

地名の由来は「曲=マガ」「水=ミ」からきているという説の方が説得力がある。歩いてみれば分かることだが、この原を、東南隅から北西に向けて、飛鳥川が蛇行しながら、たすきを掛けたように斜めに北上していく。つまり「水が曲がりくねって流れて行く原」ということだ。ただ「マガ」は「禍=マガ」に通じて縁起が悪い。だから「曲水」に替えて「真神」の文字を当てた。

いささか語呂合わせが過ぎるようにも思われるけれど、地名とは案外そんな具合にこなれて来たものなのかもしれない。飛鳥時代末期、天武天皇の治世になって、この原の中央に宮が営まれた。「飛鳥浄御原宮」という。「マカミハラ」に対して「キヨミハラ」。「曲=禍」を避けるため、意図して「マカミ」を「キヨミ」に置き換えたのだろう。手元にある『古代地名紀行』(池田末則著、東洋書院)にこうした考えが紹介されている。

《大口の真神の原に降る雪はいたくな降りそ家もあらなくに 舎人娘子 万葉集巻8 1636》

「真神原」の話になると、必ずといっていいほど引用される万葉歌だ。家も見えない真神の原に、深々と降り積もる雪。さて、私とあなたが「原」の中ほどに立っている「その時」を、入鹿暗殺クーデター直前の645年の春いまだのある日としよう(入鹿暗殺は6月)。
私とあなたは、どんな風景の中に立っているのだろうか。
     
最も目立つのは飛鳥寺(法興寺)の甍であろう。天を衝く塔、そして大仏殿をはじめとした瓦葺の建物群は、四囲を圧して聳えている。原をはさんで寺と対峙するように建造物が並んでいるのは板葺宮の官庁群だ。そして広大な園池に水か引かれ、中央の島には果樹の木々が。飛鳥川の対岸には、宮を威圧するかのような蝦夷・入鹿親子の蘇我の館……。(旅・2006.11.11)(記・2010.12.19)

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