大和を歩く

大和憧憬病者が、奈良・大和路をひたすら歩いた日々の追憶

030 法隆寺山内・2・・・よくもまあ立ち続けはる五重塔

2010-11-18 08:09:30 | 斑鳩
私も観たことがあるのかもしれないが、法隆寺薬師如来像の光背には「我大御病太平欲坐故、将造寺薬師像作仕奉詔」と刻まれているそうだ。ということはこの寺は、聖徳太子によって586年に発願され、601年の斑鳩宮造営、法隆学問寺の創建へと歩んで行ったのだろう。しかし太子没後21年の643年、入鹿に襲われた太子一族は斑鳩寺とともに滅び、670年4月30日には「夜半之後、災法隆寺。一屋無余。大雨雷震」(紀)と . . . 本文を読む

029 法隆寺山内・1・・・風鐸を揺らして風の月明かり

2010-11-17 08:19:29 | 斑鳩
法隆寺夏季大学で宿舎として私に割り当てられたのは、塔頭の宝珠院だった。西院伽藍の西側にあって、回廊を挟んで五重塔がそそり立っている。早朝、同室のおじいさんらに起こされると、廊下では蝉が、殻を抜け出したばかりの緑青色の姿を震わせていた。玄関の大鉢には蓮が1輪延びて、いまにもポンと弾けそうである。寺の中での生活体験は、あらゆることが新鮮で面白かった。あれからすでに、40年が過ぎてしまった。 大学の . . . 本文を読む

028 法隆寺北・・・微笑みが匂い立つかや尼寺は

2010-11-16 10:49:00 | 斑鳩
尼寺は、優しそうな佇まいを見せながらなかなか手強い。その深閑とした塀の内で、女人だけが信仰の日々を送っていると考えただけで、無垢つけき男が立ち入るなど自粛すべきではないかと足が竦むのである。しかしそれでも例えば中宮寺の弥勒菩薩像、法華寺の十一面観音像と、麗しき仏たちに逢いたいという欲求は人間として自然な感情でもある。そして小振りの門を潜れば、大寺とは異なる清楚さに身を置く安らぎが尼寺にはある。 . . . 本文を読む

027 矢田・・・大和路を一抱えしてハイキング

2010-11-15 11:27:33 | 斑鳩
奈良盆地の北西を縁取って、生駒山系の内側を南北に延びる矢田丘陵は、標高300メートル程度の手軽なハイキングコースだ。疎林の続く尾根道は、平城京跡から飛鳥までを一望できる、格好の万葉展望台である。1991年5月14日、私はその贅沢を満喫しながら尾根を南から北へ歩いていた。この日が私の誕生日であることは社会的に何の意味もないことであったが、すでに近隣では《大変な一日》が始まっていたのである。 この . . . 本文を読む

026 小泉・・・借景を飲み干す椀は石州流

2010-11-14 11:00:55 | 斑鳩
1枚の写真に誘われて旅に出ることがある、といったことを立花隆氏が書いている。彼の場合はギリシャの奇岩に建つ修道院を遠望した1枚という、スケールの大きな話であったが、私も似た体験をしているとはいえ、それは奈良県大和郡山市小泉町の、慈光院山門に通じる商店街のスナップであった。日本の平凡な田舎町といったささやかな光景ではあったが、見た瞬間「この通りを歩きたい」と、切ないほどの思いが募って来たのである。 . . . 本文を読む

025 岡本・・・法の寺三つ歩けば飛鳥びと

2010-11-13 07:40:40 | 斑鳩
大和路の風景画の題材として、上の写真の構図をよく見かける。斑鳩町の北東部、岡本地区の田園の中に、三重塔がバランスよく埋もれる法起寺である。水田に囲まれて独立した樹叢と塔の甍が、遥かな時代を彷彿とさせるからだろうか。背景の矢田丘陵は穏やかに稜線を延ばし、その緑の中に松尾寺のカラフルな吹き流しが望まれたりする。私のような大和憧憬病患者は、この農道に立って飽くことを知らない。それにしても大和の夏は暑い . . . 本文を読む

024 三井・・・歳月に晒され白き三井の里

2010-11-12 08:51:35 | 斑鳩
古都の年末年始を体感したくて、大晦日に奈良町のホテルに宿泊したことがある。春日大社から東大寺へ初詣をハシゴして仮眠をとり、元日は法隆寺行きのバスに乗って斑鳩を目指した。元日の早朝でも、乗客は皆無ではなかった。法起寺前で降りる。道は昭和40年代半ばに「バイパス建設反対!」の立て看板がみられたあの道路なのだろうが、今では風景に融け込んでいるように見える。ダリアやコスモスが、干からびた花を残している。 . . . 本文を読む

023 雁多尾畑・・・山肌を紅葉に染めて雁が行く

2010-11-11 10:29:17 | 斑鳩
紅葉は、北の空から雁が渡って来て山を染めて行くのだと、いにしえの人々は考えた。大和盆地の場合、隊列を組んだ雁が大和高原の彼方からやって来て、難波の海へと渡って行く。その途上、生駒山系の南のはずれ・立田山あたりは、盆地の水が難波津へと流れ出る狭い筋となり、上空は雁の道となる。そうやって竜田山は「からくれない」に燃え上がるのである。雁多尾畑(かりんどうばた)の集落は、その尾根を越えたところにある。 . . . 本文を読む

022 三郷・・・風神が山に腰掛け吹き下ろす

2010-11-10 07:56:38 | 斑鳩
風が吹いている。山を背に、川に臨んで、龍田大社の境内を風が吹き抜けて行く。祀る神が風の神なのだから当然ではあるけれど、舞台のような吹き抜けの拝殿の、柱と柱の間に張られた白地の幕が、風を孕んでふっと膨らみ、ひと呼吸おいてすっと萎んで揺れる。風の姿がリズムとなって、微かなメロデーを奏でている。「からくれない」と愛でるには盛りを過ぎた、錆びた色の紅葉が重なり合って、大和路ははや、師走なのである。 龍 . . . 本文を読む

021 龍田・・・斑鳩へからくれないの龍田より

2010-11-09 07:02:05 | 斑鳩
「竜田川」という駅で降りた。生駒山系と矢田丘陵に挟まれた谷を行く近鉄生駒線の、新興住宅地になりつつある田園地帯のうらさびた駅ではあるが、「からくれないに みずくくるとは」から来ている駅名であろう。生駒駅で乗り込んで以来、竜田川という名の小さな流れに添って南下して来たのだが、しだいに生活排水に汚染されて行く風景に何の興趣も起きない。もっとも、歌に詠われた竜田川は、現在の大和川を指していたらしい。 . . . 本文を読む

020 額田・・・哀しくも廃寺は古都に崩れ行く

2010-11-08 11:10:35 | 斑鳩
額田の里というより、額田部の里と言う方が正確なのかもしれない。現代の住所表示でいえば、奈良県大和郡山市額田部北町、額田部寺町のあたりである。「額田」は奈良の地図を広げても目立たない。大きな寺があるわけでもなければ有名な史跡があるわけでもない。駅前の案内版にも、鎌倉時代の瓦窯跡と戦国期の大和の武将・筒井順慶の墓、それに額安寺があるくらいである。いずれも大勢の観光客に巻き込まれる心配はない。 しか . . . 本文を読む

019 飽波・・・太子道1400年をひとっ飛び

2010-11-07 16:07:36 | 斑鳩
安堵は、斑鳩と飛鳥を結ぶライン上にある。だからその昔、聖徳太子が黒駒に乗り、斑鳩宮から飛鳥へ通う道はここを通ったのではないだろうか。「太子道」である。大和平野を北西から東南へ斜めに突っ切るその道は、いまもわずかに痕跡が確認できる。安堵の中心集落を西に行くと、古社に突き当たった。古びた懸額は「阿久波神社」と読めた。鳥居の前がT字路となって、右は北の法隆寺方面へ、左は南の飛鳥へ続いているようだった。 . . . 本文を読む

018 続・安堵・・・陶工の忘れ得ぬ土地雨やまず

2010-11-06 09:08:19 | 斑鳩
富本憲吉記念館は安堵町の、低平坦な集落のなかほどに、奥まった一角を占めて開館していた。「濠をめぐらし、長屋門を構えた村一番の格式高いお屋敷」という、憲吉の生家の風情をよく留めているようだった。若き日の作家が窯を築き、作陶に熱中した屋敷を敷地ごと保存するため、町の後輩が奔走して開設にこぎ着けた記念館だという。おかげで静かな大和の田園に包まれ、陶工の人生を堪能する贅沢を満喫させていただいた。 憲吉 . . . 本文を読む

017 安堵・・・幾筋も流れ集めてアクツなり

2010-11-05 10:01:44 | 斑鳩
法隆寺の東南に「安堵(あんど)」という町がある。町のホームページによると「奈良盆地の中央よりやや西北部に位置」している人口8000人ほどの町だ。12月の冷たい雨の日、町の中心らしき集落に立ち寄り、さらに法隆寺まで歩いたことがある。その日の記憶は、すべて雨に濡れている。終日、降り込められたのである。しかし地名からして低湿地を思わせる土地を行くのだ。時雨れて行くのはまことにふさわしい状況であった。 . . . 本文を読む

016 斑鳩・・・イカルらが鳴き舞うている連子窓

2010-11-04 10:53:02 | 斑鳩
何がそんなに面白くてと、呆れられたものだった。かつて私は、それほどまでに大和路行脚を繰り返した。有名な社寺を目指すだけではなく、ただ大和路を歩いていれば気持ちが満ち足りたのである。そのころを懐かしんで、古いメモを頼りに「今日は、大和路にいます」を綴ってみようと思う。ここ10年ほどは、憑き物が落ちたように足が遠のいている「大和路の街」だが、そのことがかえって記憶を冷静にし、整理できるかもしれない。 . . . 本文を読む