浮世風呂

日本の垢を落としたい。浮き世の憂さを晴らしたい。そんな大袈裟なものじゃないけれど・・・

フリーメーソン①

2012-04-25 05:52:13 | 資料

フリーメーソン


正式名称「フリー・アンド・アクセプテッド・メーソン」

メーソン〓集団としてのフリーメーソンリーに属する構成員

フリーメーソン (Freemason) とは、英国で発生し 世界中に派生した男性の入社的秘密結社である。「フリーメーソン」は各個人会員で、団体名はフリーメーソンリー (Freemasonry) である。 石工職人団体時代、女性が男性と同様の作業を行えないため、女性が入会できないとされている。

1360年、英ウィンザー宮殿建造に徴用された568人の石工職人達が、数百年に渡るゴシック建築のプロジェクトを遂行しようとしたときに、自分たちの権利が他の職人に渡らないようにギルドで暗号を使用したのが始まりとされる (石工職人ギルド説)。 他 テンプル騎士団説/ソロモン神殿建築家説/近代設立説 などがある。

ゴシック建築ブームは400年ほどで終わり 石工職人団体としては衰えたが、建築に関係のない貴族/紳士/知識人が加入し始め 職人団体から友愛団体に変貌した。

この友愛団体は、英国から仏や米大陸に広まった。 国際的な互助組織も無い時代、会員相互に助け合うフリーメーソンは、困難を抱えた人間にはありがたかった。 ウィーン支部に加入していた モーツァルト は、同じフリーメーソンに借金の無心をしたり、伝を頼っている。

なお、自由の女神像は仏系と米系フリーメーソンリーの間に交わされた贈り物であった (Wikipedia)。

 

「ヤーヴェの目」別名「万物の目」「フリーメーソン」の象徴的シンボルとしてよく出て来る。このピラミッドの上部に書かれている文字の意味は「我らが事業に栄誉を」(しかし、このシンボルは1ドル紙幣の国璽に使用されているが、アメリカ国内にピラミッドの遺跡等皆無だ・・・下部の旗に書かれている文字の意味は「時代の新秩序」、ピラミッドの礎石にあるローマ数字は「1776年」この年「光明会」=「イルミナチ」(イルミナティ)が結成されたという・・・国璽にこの様な象徴的な数字や記号が使われている事により、改めてアメリカという国は「メーソン国家」であり、「イルミナティ」(フリーメーソンの組織内でも、特に国際的人脈と金融資本力を持った上位グループと考えてよいと思う)によって成り立っている・・・と考えられるのではないか。

 ドル紙幣を発行するFRBが、ロスチャイルドとロックフェラーが実質的オーナーということを考えれば、「イルミナティ」とはなんぞやという謎が解けて来よう。

「メーソン」という言葉がヨーロッパの記録に出て来るのは1396年に建てられたウェストミンスター寺院に「フリーメーソンと呼ばれる石工職人・・・」と記されているだけで、あまり記録には出てこない。彼らメーソンが中部東ヨーロッパで建築に関わった建造物として、よく知られているのは「ケルン大聖堂」がある。中世の旧フリーメーソンはスコットランド、スチュアート家に古いメーソン的伝統がよく保存されていた様で、当時の「古い掟」には「もし身分、名声、富、学識を有する者が結社に入ろうとすれば、必要な調査を経て非常に丁重に彼らを迎え入れなければならない。」と石工以外の人間の加入について規定している。(当時は最先端の建築技術を持っていた彼らに貴族達は何らかの保護を与えていた様である。)

その後、頻繁に歴史舞台に出てくるのは1717年6月24日ロンドンにある幾つかのメーソンの寄り合い=「ロッジ」が1つの「グランドロッジ」という名で統合されてからである。このときの会議の名誉議長にクリストファー・レン卿が就き、その横にはジョン・デザギュリエ博士が座った。ここから「近代フリーメーソン」の歴史が始まり、「フリーメーソン憲章」が制定される。その第1章は「神と宗教について」書かれている。そこではメーソン員は「愚かな無神論者」や「不信心な自由思想家」であってはならないと定められている。

では、このメーソン的「神」とは何であろうか?・・・それは他の規約に「キリスト教徒」や「ユダヤ教徒」、「イスラム教徒」、「仏教徒」でも会員になれる事から解る様に特定の人格神を意味していない。抽象的な表現になるが、「宇宙を創造した最高の理性」・・・これを「全ての世界の全能なる建築士」と呼び、これが彼らの「神」となる。従って、メーソンは「理神論的性格」が出ている秘密結社という感じであろうか?・・・この「宇宙や自然の法則の中」に「神」を見るという発想はユダヤ教の中にも見出せるが、フリーメーソンが「ユダヤ人」によって作られた組織ではない事ははっきりしている。(勿論、結社内にユダヤ人はいるであろうがその事によりフリーメーソンが色々な陰謀に加担している事にはならない。しかし、思想、哲学的に影響を受けている事は確かな様である。) 但し、この秘密結社が現実として一般市民へと開かれた啓蒙運動を展開すると共に、他方ではこれとは逆に閉鎖社会にこもり、そこで秘教的神秘主義の儀式に命を捧げていた輩もいた事を忘れてはならない。

カトリック教会はフリーメーソンをこれまで基本的には「悪魔の教会」と見なしてきた。(もっとも、カトリック教会も魔女狩りや異端審問裁判等により罪無き何百万人の人間たちを殺してきた悪魔的行為はしている訳だが)メイソンは1738年、教皇クレメンス12世の最初の破門令から1983年の教皇ヨハネ・パウロ2世在位の聖庁信仰省の声明まで歴代の教皇の回勅により17回以上も「破門」され、また、200回以上警告ないし干渉を受けてきた。これは何故であろうか?・・・・・先ず考えられる事として、フリーメーソンが当時教会から異端のレッテルを貼られた「科学者」達を擁護し匿った形跡があるからだろう。

 フリーメーソンの象徴的マークのGこのGは「GOD(神)であると同時に「GEOMETRY」(幾何学)を象徴しているという。建築学は数学と科学の産物であり、メーソン達は自己の建築技術を通して「神」と「科学」の融合を目指していた。教会から見れば正に異端者に映ったのだろう。また、カトリックの根拠になっている「新約聖書」を排して、「旧約聖書」を取り上げ、そこから彼らの「憲章」を作っていったので多分に「ユダヤ的要素」があると見られ非難、攻撃の理由とされたのだろう。他に一般的な理由としてフリーメーソンの指導者層は(実はイルミナティという・・・)サタニスト(悪魔崇拝者)であるからだ・・・と言うのだが、これは実際に彼らメーソンが歴史上どの様な行動を取ってきたかを見れば解ると思う。

 1789年の「フランス革命」とはカトリック教会とフランスのカトリック教徒に対して「フリーメーソン」が仕掛けた戦争であった。「この時のメーソンのメンバーで死刑裁判官だったジャン・バチスト・カリエは13000人のカトリック教徒の死刑執行を命じた。そして、彼らはこの刑のために建造された船に乗せられてロワール川で溺死させられたのである。・・・

 「1793年12月23日、フリーメーソンのフランソワ・ウェステルマン将軍はサヴィニーのカトリックの村落を襲撃し、数百人の女性や子供を殺害した。ウェステルマンは「ガキどもを馬の蹄にかけ、女たちを殺してもう山賊を産めない様にしてやった。・・・」と自慢している。

 さらに、1794年には、フランス革命に参加した将軍の1人で、やはりフリーメーソンのルイ・マリー・ツーローはル・サ・ブローニュの村で数百人の子供を殺害するように命令した。・・・

 もっとも、この様な悲惨な目に遭ったフランス「カトリック教徒達」も11世紀から12世紀にかけてはかの「十字軍遠征」において(勿論、これはアラブ地域に対する侵略戦争であったわけだが)アラブ人兵士を釜茹でにして殺したり、子供たちを串刺しにして焼いて食べた!・・・といった蛮行を重ねていったわけだが・・・

 ・・・この様に非戦闘員に対する容赦ない殺害、拷問はメーソンの規約にある「善良にして正直な男子であれ」、「名誉と公正を重んずる男子であれ」というモットーに 「堂々と反している事は言うまでもない」・・・・・

 ちなみに何故彼らメーソンは「カトリック教会」に対して迫害を加えていったのか?・・・それは彼ら自身がメーソンの思想をキリスト教に浸透させる手段として、「プロテスタント主義」を選んだからである。

 そうすると、「メーソン国家」であるアメリカに多くのプロテスタント信者が存在する理由が頷けるというものだ。現在、アングロ・サクソン諸国のプロテスタント司祭のほとんどがメーソンに入会しているという。

 ・・・(また、彼らメーソンはカトリックの総本山であるバチカン内に多数のメーソンのスパイを潜入させ、自分たちが不利にならない様に情報操作したり、多くの信者から集まる莫大な資産を巧妙に管理しているという。これにはイタリアのマフィアも絡んでいる様だ。)

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749年8月28日 - 1832年3月22日)

 この誰もが知る大文豪がフリーメーソンに入会したのは、30歳の頃とされている。入会に至る動機としては同時代に活躍した哲学者「ヘルダー」や「ボーデ」らに何らかの影響を受けた様である。晩年の作品「ファウスト」にも明確に示されている様に、彼は錬金術、オカルトに対する関心は早くから強く当代随一のオカルティストであった。後にヘルダーと共に「啓明会」(「イルミナティ」現在ではフリーメーソンの上層部として、指導的役割を果たしている)にも入会。「アバーリス」という会士名を得ている。だが、当時から限られていた人々の間には「啓明会には政治的陰謀が存在する」と噂されていたという。(ゲーテ本人はその事については無関心であった様だが)また、彼はナポレオンの崇拝者でナポレオンがドイツ軍を破り、ワイマールにやって来た時は自宅に招き入れ、対談したという。(ちなみにナポレオンは「フリーメーソン」の保護者であった!)両者はそこでどの様な対話をしたのか?興味が尽きないが・・・

 「メーソン」の会員としてのゲーテ・・・を把握して彼の大作「ファウスト」を理解していくならば、多くの点で秘教的なイメージやキリストを救済者とは見なさない部分等、メーソン的思想からの影響を見て取れる。(悪魔メフィストフェレスとの契約はメーソン的思想からはどの様に解釈されるのだろうか?)ゲーテ自身は「ほとんどの観客はこれを楽しんで観るだろうが、しかしメイソン達はここに込められている崇高な真の意味を理解するだろう。・・・」と述べている。

フリードリヒ・フォン・シラー(1759年11月10日 - 1805年5月9日)

シラーはゲーテとは違い正式に「フリーメーソン」に入会したのではない。だが、メイソンの掲げる「自由」「平等」「博愛」といった思想に強い共感を覚え、様々な「戯曲」「詩」、「小説」等の作品を残している。シラーの作品と言えば、ベートーベンの第九交響曲「合唱付き」で歌われる「歓喜によせて」が私達日本人にとってもよく知られているが、この詩の元々のタイトルは「自由によせて」だった事はご存知だろうか?つまり、この詩はメーソンの「ロッジ」(組織の事)賛歌として作られたのである。

・・・しかし、この詩はフリーメーソンの精神を美しく表現しているとは言えず、時代錯誤的表現であると酷評されている。ゲーテとは1788年に知り合いになり、互いに良き友人となる。しかし、ゲーテがイルミナティに入会したり秘教的な汎神論に傾倒していったのに対し、シラーはひたすら自由に憧れナポレオンを軽蔑した。シラー自身は手紙の中で「私は啓明会士(イルミナティ)でもメイソンでもないが、若し互いに兄弟となる事で1つの道徳的目的を共有し、またこの目的が人間社会にとって最も重要であるならば、・・・」と述べている。

 公明さを誰よりも好んだ自由主義者シラーは、秘密結社の非公開の儀式や陰謀や魔術を嫌いそのために入会にまでは至らなかったのであろうが、「降霊術師」という戯曲ではそういった部分を取り上げている。

 また、彼は秘密結社の人々達を次の様に評している。「人々は悪心を懐く者達が計画し、達成しようとするその目標の大胆さに驚きまた、その目標の達成を確実にするために結集するその手段の奇抜さに驚くだろう・・・」と意味深な言葉を残している。シラーが決して秘密結社に入会しなかったのは、結社の真の目的、信条、そして彼らが「神」と呼ぶものの「正体」について気付いていたからではないか。

 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756年1月27日 - 1791年12月5日)

モーツァルトが「フリーメーソン」と関係があったという話は有名である。その謎とされている死についても様々な暗殺説等飛び交っているが、彼自身「自分はメーソンの一員である」という 自覚はかなり強かったという。

 ・・・モーツァルトがメーソンのウィーン・ロッジ「べネフィスイエンス」に入会したのは28歳の頃であるが、17歳頃からフリーメーソン的な曲を作っていたらしく、早い頃から関心を持っていた様である。

 彼が残した多くの作品中にもメーソンが象徴的とする数字で大事な意味を持つ「3」(3はブルーロッジの「自由」「平等」「博愛」という徳の3要素、また「美」「知恵」「力」の3徳、入会式では戸を3回たたく・・・等)を駆使した楽曲やオペラを残したりしている。

 特にメーソン的色彩が色濃く出ている作品がオペラ「魔笛」であると言われている。このオペラの台本を書いたのはメーソンであるエマヌエル・シカネーダーであるが、物語の主題は悪、闇、世俗、復讐、女性的饒舌を体現する「夜の女王」に善、光明、聖性、寛容、沈黙、新体制を体現する大司祭ザラストロが対抗して勝利を収めるというものである。そして、夜の女王はフリーメーソンを迫害する「マリア・テレジア」、ザラストロはウィーンのフリーメーソンリーの指導者「ボルン」を意味している、極めて政治的なオペラであった。

 また、彼は自分の手で1つの「ロッジ」を創設しようと考えていた様であり、先の「魔笛」でもメーソンの「秘密の儀式」について連想させる様な「場面」を出してみたりと、回りの反感を買った様である 。・・・そんな中、彼は「誰かが自分に毒を盛っている」という被害妄想に取り付かれ実際にひどく衰弱していった。彼の最後の作品はあの「レクイエム」であるが、やはりそれは自分自身のために作っていたのだろうか?

 12月5日にモーツァルトはこの世を去るが、彼の埋葬はメイソンで「イルミナティ」のゴットリート・ファン・シュヴィーテンが引き受けたが、死因も確認されぬままほとんど金も掛けずに、他の多くの死体の上に積み重ねる様にして葬られたという・・・・・

 (そして、妻コンスタンツと息子は彼が毒殺されたと信じたのだった)だが、誰によって?・・・・・

 フリーメーソンとヨーロッパ王朝との政治的関係

1.イギリス王朝との関係

近代フリーメーソンの体制を確立したのは英国であったが、中世の頃メーソンは権力者達によって禁止されたり迫害されたりした。カトリックの女王「メアリー」は1555年から1558年の3年間にかけてプロテスタントとメーソンを残酷に迫害していた。この3年間でトーマス・モアや5人の司教、21人の貴族、8人の上流紳士、84人の一般市民、100人の農民、55人の婦人、5人の子供が宗教的な理由で火あぶりにされたという。この迫害でメーソン達は再び地下に潜り、秘密性を保持していかなければならなかった。

フランシス・ベーコン(1561年1月22日 - 1626年4月9日)

  この中世を代表する哲学者は自然科学の分野でも有名だが、この彼がフリーメーソンの会員だったとは殆ど知られていなかった。・・・世に残した名言として「知は力なり」とあるが、メーソン会員としてのベーコンの立場でこの言葉の意味を考えてみれば「知識」=「グノーシス」(ギリシャ語で知識を意味する。ローマカトリック教会はキリスト教内に存在したこのグノーシス派を弾圧した。その教えは仏教に似た部分がある)的神秘性を伴った「秘密の教え」を意味しているのではないかと、あるいは「知恵」=ユダヤ密教である「カラバ思想」にある「人の意識の宇宙的広がりまでの向上」を目指す英知・・・を連想させはしないだろうか。また、「死は我々の友である」といった言葉は同じくメーソン思想の拠り所となっている古代エジプト秘術による死生観(永遠の生命)を信じていたのではないか・・・と想像してしまうのだが。・・・何れにせよ、このベーコンの登場によりメーソンは大いに発展してったといわれる。

エドワード7世(1841年11月9日 - 1910年5月6日)

  「インド皇帝」との別名を持つエドワード7世は、1868年12月20日ストックホルムでスウェーデン国王「カール15世」の手によってメイソンになり、1871年には「イギリス大連合ロッジ」の大棟梁に選ばれイギリス・フリーメーソン史で最高の栄誉に輝く人物となった。

 この当時イギリスはヨーロッパ地域に対する干渉、インド支配の確立等を通じその勢力は最高潮に達していた。彼自身が1901年に国王となってからは「フリーメーソンリーの王 」と呼ばれた。

 ・・・だが彼自身がフリーメーソンの精神をよく理解し、ロッジ活動に熱心であったという話は聞かれないので、彼は単なるフリーメーソンの良き道具でしかなかった・・・という説もある。

 この王はドイツの血が半分以上混じっている母と純粋なドイツ人である父との子供であるのに、何故かフランスの「自由」を愛し、ドイツを嫌った!また彼の妻はロシア出身であり、多くの血縁者(ベルギー王、ブルガリア皇帝、ポルトガル王、デンマーク王、ギリシャ王、スペイン王)達は大半がメーソンであった。彼はこの血縁者達を通して「ドイツ包囲網」を目指していたという。

 ・・・(ちなみにナチス・ドイツはフリーメーソンを敵視したが、その淵源はこのあたりの事情によるのかもしれない)しかし、ドイツ人は同じドイツ人の血を持つエドワード7世の反ドイツ的態度のその背後に、彼自身の意思とは異なる「何か」を見出していたのではないか?

・・・ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は「「エドワードは悪魔だ。みな、どんなに悪魔かはわからないだろうが」・・・といった意味深な発言を残している。

2.フランス王朝との関係

 イギリスで生まれた近代フリーメーソンが渡った最初の外国はフランスであった。ルイ15世の統治下であったという。1738年には早速教皇による破門令が出され、メイソンである貴族が王宮に出入りする事を禁止し一般国民も逮捕した。この事により、フランスでもメーソンリーは秘密性を高め地下活動も盛んになった。しかし、禁止令が出ていたにも関わらず高級貴族が次々と入会して1773年10月22日、シャルトル公爵によってフランス大東社(グラントリアン・ドゥ・フランス)が創立される。

 フランス国王・ルイ16世(1754年8月23日~1793年1月21日)

  彼は早い時期から「メーソン」を自分の地位を脅かす存在として敵視していたが、国民の富を浪費する王族とそれを支え国土の10分の1を所有するカトリック教会に不満を持つ国民は多く、それら不満分子を上手く取りまとめ、精神的、政治的統一を与えていったのがメーソンであった。また、メーソンは本来ルイ16世を守るための「王の軍隊」にも潜入して多くの将校達をメイソン化する事に成功していた。つまり、王の軍隊は既に内部から崩壊していたのである。メイソンである多くの兵士は非メイソン部隊長の命令には従わず、むしろ群集と連動し新しい国民議会を準備した。この流れに対し宮廷は無力であった。そして、1789年フランス革命の象徴的事件である「バスチーユ牢獄の襲撃」が起きる。

 ラファイエット侯爵(1757年9月6日 - 1834年5月20日)

 1789年の8月27日には、ラファイエットを中心とする指導的メイソン達によって「フランス人権宣言」が国民議会と国王によって承認され公布された。これによりフランス国民が主権者となり、王は国民の僕となった。教会の土地や財産は国有化され、全僧侶は公務員となった。
 
「フランス人権宣言」の標章。ここで注目してほしいのは、上の真ん中に光り輝く「ピラミッド」と見張り予見する知恵の目「ヤーヴェの目」である。・・・ここでもフリーメーソンの象徴的シンボルが克明に記されている事に留意する必要がある。。
  このフランス革命の標語であり、ラファイエットが考案したフランスの3色国旗が示す「自由」「平等」「兄弟愛」は革命が起きる49年前にフランス大ロッジで「フランス・フリーメーソン」の標語として採択されていたのである。この近代フリーメーソンの思想は先にも述べたように、イギリスからもたらされて来たので当然イギリスもこの革命を陰で支援していた。革命当時は群集の間にも、多くの金がばら撒かれたがその資金の一部はイギリス首相「ウィリアム・ピット」の指導する英国政府から出て来たという。英国政府にとってフランス王政の崩壊は自国の利益になると考えていた様である。
 (英国がカトリック教会の支配を拒んでいる事や当時からイルミナティの目的である世界統一政府の計画に共鳴して実行している輩がいる事に関連している・・・)
ナポレオン1世(1769年8月15日 - 1821年5月5日)
 「ナポレオン・ボナパルト」、彼の生涯を賭した戦争と外交の目的も要約すれば「フリーメーソン」を通して、イギリス勢力をヨーロッパ大陸から排除していこうという点に集約出来るのではないか。
 ・・・彼自身はメーソンリーではなかったが、父「カルロ・ボナパルト」はメーソンリーだったという。
 ナポレオンはフリーメーソンの思想に近い自分の見解を持っていた様で彼らの人脈を上手に使い戦争に勝利していった。エジプトへの遠征も地元のメーソンの人間から手引きを受けて容易にアレキサンドリアの諸都市を占領していった。
 彼は様々な改革を断行していったが、その中の1つにカトリック・ローマ教皇の影響力を弱めようとした事が上げられる。この点についてはメーソンの目標と一致しており協力はし易かった。
 (しかし、イギリスという国家に対してはフランス国内の愛国心と軍事力を結集させ、常に対決姿勢をとり続けた。)
   皇帝に即位し、血縁者をヨーロッパ中の王にした彼は側近を全員メーソンにして自分の目や手足として利用した。・・・しかし、この時期からメーソン達は少しずつ離れていく。ナポレオン自身次の様にメーソンを評している。「フリーメーソンを保護してもよい。しかし、フリーメーソンに権威を与えると危険になるに違いない。今日、彼らは私に依存している。しかし、私はフリーメーソンに依存するつもりはない。・・・」しかし、当時の彼の軍隊は末端から頂点までメーソンの組織と重なり合っていた!
 ・・・(この事を彼は知っていたのだろうか?)
 ナポレオンの快進撃も1809年を最後にかげりを見せる様になる。この頃からヨーロッパ各地でサボタージュや反抗に遭い、軍隊内でも多くの裏切りが出て来た。その原因となったのが「メーソンがナポレオンを見限ったから」なのか?
 ・・・「メーソンの離反及び裏切りを、彼の敗北の諸原因の1つに数える事は全く正当であろう。フリーメーソンリーの役割を過大視しても、また無視してもならない。」
 ・・・結局の所、「フランス革命」と「フリーメーソン」の関係について考察していけば間違いなく両者には深い関係があり、下準備から実行段階まであらゆる局面においてメーソンリーの仕業と考えてよいと思う。
 私たちは少なくとも学校の教科書で学ぶ限りにおいては、「フランス革命」とは1つの政治形態の変化であり「ブルジョア革命」であったと考えがちだが、より本質的な部分に目を凝らして見ると次の様な事が解る。
(フランス革命とは)「それまで 支配的であったキリスト教とは異なった、あるいはキリスト教に逆らう一種の神秘主義を伴っていた。
 18世紀の合理主義はある種の神秘主義を排除しないのである。多くの者は特に日本人はこの事を意図的に看過している。この神秘主義を提供したのがフリーメーソンリーなのである。」
 ・・・フランス革命が、この様な側面を持っていた事を見過ごしてはならない。この事は現代及び将来の歴史を理解する場合も当てはまるであろう。」
(だが、この神秘思想の土台となる教えが彼らヨーロッパ文明にあったのでななく、ユダヤ密教やエジプト神秘学、あるいはゾロアスター教も?といった「オリエンタル思想」から強い影響を受けている事を見逃してはならない。・・・)
  3.ロシア・ロマノフ王朝との関係
エカテリーナ2世(1729年4月21日 - 1796年11月6日)
  ドイツ出身のこの女帝がフリーメーソンを容認した結果、多くのロシア貴族や政治家等がメーソンに入会した。しかし、フランス革命の勃発に警戒心を強め1794年にロシア内にある全ロッジを閉鎖させたという。
その後、彼女の息子・皇帝パーヴェル1世は母親に習い1797年にメーソンを厳禁とするが、1801年に暗殺されてしまう。この暗殺に関わったのは全て皇帝を取り巻く側近達で、実の息子でアレクサンドル1世も加わっていた!そして全員がメーソンリーであったという。
 パーヴェル1世はイギリスの支配下にある「マルタ島」をエジプト遠征途上で同島に寄ろうとするナポレオンの地中海支配の拠点にして、ナポレオンと共同して英国の制海権を打破しようとした。
 そこで、親英派であるメーソンリー達は「皇帝暗殺」という形でこれを阻止したのである。イギリス政府は邪魔な皇帝を人間(メーソンリー)と金を使って取り除き、ロシアの外交政策の方向転換を図ったのであった。
 ・・・果たせるかなその後ロシアはイギリス政府の全ての要求を受け入れ、新皇帝・アレクサンドル1世が逆にフランスに戦争を仕掛けるという形になった。
 この暗殺事件は決して「自由を抑圧する独裁的皇帝」からロシア国民を解放するためではなく、イギリス帝国主義の保護、拡張のためだったと考えてよい。

ニコライ2世(1868年5月18日~1918年7月17日)
  ロシア帝国最後の皇帝・ニコライ2世の時代になると、フランスのメーソンの援助を得てロシア国内にはモスクワ、ペテルブルグ、キエフ等、に50近いロッジが創設された。しかも、彼らメーソンリーの中には帝政国会の議員達が大勢いて既に皇帝の膝元には反君主制の波が押し寄せていたのである!
 そして、1917年のボリシェヴィキ革命の際はフリーメーソンの指導的グループである「イルミナティ」が支配する金融グループから多額の資金援助があり、レーニンやトロツキーらがロマノフ王朝を崩壊させる手伝いをしている。・・・
 結局、近代フリーメーソンとヨーロッパ王朝との関係を政治的視点で見るならば、イギリスのヨーロッパ大陸への干渉であり、政治的影響力の強化、引いては英国中心の保護貿易網の拡大であり、メーソンの活動は確かにそこの国の民主化や自由啓蒙思想を広める推進力にもなるが、その活動資金等を英国が援助という形を取るので君主体制が崩壊した後は英国にとっての傀儡体制の様な国になる可能性が高いと言わざるを得ない。(実は日本がそのいい例である。)
 

日本とフリーメーソンの関係

 マシュー・C・ペリー(1794年4月10日 -1858年3月4日)
 江戸時代末期に鎖国をしていた日本に黒船で浦賀沖に現れ、開国を要求したこのペリーがフリーメーソンであった事をアナタはご存知だろうか?日本に来た時はメーソン暦34年の古参者でニューヨークの「ホーランドNo8」というロッジに所属していたという。しかし、「自由」「平等」「博愛」といったモットーを掲げていた割には我が国に対して貿易上の不平等条約を突き付けてきたのだから、本当に公正なるメーソンリーなのか?と疑いたくもなる。

 

 


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