岡山県内の五輪塔の魅力

五輪塔の魅力に浸っています

有漢町保月山六面石憧

2008年09月01日 | Weblog
高梁市有漢町保月山六面石憧
 保月の六面石幢(せきどう)の幢とは、縦に長い旗で、それに仏の像や教えを書いて仏を供養したものですが、その旗を6枚合わせた形を石で形どったのが六面石幢です。全国でも数少ない遺作の中でも、これほど大きく(高さ264cm)優れた石幢は他に例がなく、我が国の標準作例として貴重なものです。奈良の石大工の井野行恒の名作で、嘉元4年(1306年)に作られています。

保月の板碑
 保月の板碑(もともとは仏の供養のために建てられた石塔婆の一種)は、花崗岩でできていて、奥行きが厚く、高さ315cm、幅43cmと、この様式では最大級に属するもので、釈迦、阿弥陀、地蔵の三尊が見事に彫られています。嘉元3年(1305年)、井野行恒の作です。

(この説明は高梁市のホームページの観光ガイドを利用させていただきました。)
高梁市のホームページ観光ガイド
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有漢町医王堂秋庭氏の墓

2008年09月01日 | Weblog
高梁市有漢町有漢茶堂
 秋庭氏は相模の国三浦(神奈川県)の一族で、秋庭三郎重信が関東での戦いで勲功があり、功行賞として有漢郷を賜り、貞応元年(1222年)に地頭としてこの地へ来た。そして有漢町貞守に台ヶ鼻城を築き約18年間この地にいたが、仁治元年
(1240年)高梁川の水運、山陰との交通の要衝、備中の軍事的拠点として備中松山の重要性を感じ、臥牛山の大松山に城を築き移った。
 二代秋庭元四郎信村、三代秋庭平六重運、四代秋庭小三郎義継、五代秋庭三郎重和と続き、元弘に至る約110年間である。(前期秋庭氏)
 その後秋庭氏のあと松山城主になるのが高橋九郎左衛門宗康であるが、北条氏滅亡の際、六波羅探題、北条仲時と共に近江の国番場蓮華寺において多くの備中武士と共に一門ことごとく自決した。(元弘三年) 今から約670年前の事である。
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