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日本磁器の誕生

2005年10月03日 | Weblog
 磁器の歴史は古く中国では、磁器の焼成は紀元2世紀の後漢の時代にさかのぼることができるが、日本での磁器の焼成は、17世紀秀吉の朝鮮出兵の時に朝鮮半島より日本に連れてこられた陶工たちがその始まりとされている。
 詳しいことは顕らかではないが、李参平を1597年(慶長2年)頃、鍋島直茂の下臣が朝鮮より帰国の際、多数の朝鮮の工人とともに佐賀県(肥前の国)に連れてこられた。
 李参平は領内に窯を築いて陶磁器の実験を繰り返し、ついに1616年(元和2年)有田泉山に磁器鉱石(カオリン)を発見、近隣の朝鮮人の陶工を集めて有田に登窯を築き、磁器焼成の第一歩をスタートさせたとされている。
(このほかにもキリシタンの高原万郎七説、深海の陶工宗伝の妻、百婆仙説、日本人の陶工としては慶長の役から帰国した家永正右衛門説など正確にはわかっていないが、李参平説が多数説をしめている。)
その後、多くの窯が築かれ有田郷は次第に九州の磁器焼成の中心的役割を演ずることとなる。これらの創成期の磁器は、素朴な李朝の作品を模したものが多数であるが、1624年(寛永年間)に入り、有田の各窯にも作陶の技術の進歩により作品も除々に向上し、その作風も中国の磁器の図案を模したものが採り入れられるようになった。
酒井田円西の子三右衛門(初代柿右衛門)は1647年(正保4年)頃、中国人より技術を学び日本で初めて、赤絵の焼成に成功した。
その後有田での磁器の焼成は発展し、有田をはじめ領内各地に窯が築かれた。
その主役となったのが明の水軍鄭成功一族の海外貿易とオランダ東インド会社(VOC)による磁器の買付けがあった。

 イギリスに遅れる事1年、オランダは1602年連合東インド会社(VOC)を設立し、東洋へ進出、インドネシアのバタビアを本拠に極東貿易を独占した。
東インド会社もはじめは東洋の珍しい文物をヨーロッパへ運んでいたが、なかでも純白の地にコバルトブルーの絵付の中国磁器はヨーロッパの王侯貴族たちの圧倒的人気を集めたため、東インド会社は1622年からは中国のマカオに基地を開き,本格的に磁器の買付けを開始した。
以後20年間に渡りオランダはマカオ、アモイから莫大な量の染付磁器をヨーロッパに運んだのである。
しかし、この頃を前後して中国では明未、清初の内乱の時代に入り、磁器の生産が不振となり磁器の輸出が不能となった。
それを機にオランダはその不足を補うために1641年(寛永18年)平戸より長崎に移った商館を舞台に日本の磁器の買付けをはじめた。以来日本の磁器の輸出は中国と競うように順調な歩みを重ねその輸出量は、1658年(万治元年)~1682年の25年間だけでも実に約19万点の伊万里が船積みされたと記されている。これらの輸出品には初期の染付の草花文や芙蓉手の平皿、鉢、壺、赤絵の鉢や徳利、香炉のほかオランダ東インド会社のイニシアルのVOCのマークのある水瓶、平皿、平鉢、それにヨーロッパで流行してきた喫茶のためのコーヒーカップ、テイ―カップ、その受け皿、ひげ皿、ジャグやマグ人形などの注文品も多くみられる。
日本ではなじみのない器の絵付けや器形は手 された木型や紙型の見本に基づいて製作されたことが知られる。17世紀後半となりオランダの船がヨーロッパに船載した極東の磁器は、ヨーロッパの王侯貴婦人たちを魅了し彼らは競って高価な磁器(当時は金と同じ価値があった)を購入した。
その理由は東洋という異国への憧れとともに高貴な趣味人としての誇り、そして国家や個人の権力の誇示象徴としてであったであろう。このためヨーロッパでは各地でみずから磁器を焼成しようとする機運が高まったのである。
この後、ヨーロッパにおける硬質磁器焼成の偉業はそれからさらに半世紀後の1709年ザクセンの王都ドレスデンでザクセン王アウグスト強王の命により錬金術師、J・Fベッドガー(1682~1719)によって達成されたのである。
これより以後、急速にヨーロッパ各地に磁器の技術が花開くのである。