岡山県内の五輪塔の魅力

五輪塔の魅力に浸っています

彦根城

2009年09月12日 | Weblog
★彦根城
元和8年(1622)に20年の歳月をかけて完成。唐破風、千鳥破風、火灯窓をつけた華やかな天守は国宝に指定された。
初代藩主井伊直政(1601)より14代藩主井伊直憲(1860)まで260年間一度の国替えや城攻めもなかった。三十五万石。
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龍応山・西明寺

2009年09月12日 | Weblog
★龍応山・西明寺
平安時代の承和元年(834)に三修上人が仁明天皇の勅願により開創された。

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八葉山・蓮華寺

2009年09月12日 | Weblog
★八葉山・蓮華寺
元弘3年(1333)京都合戦に敗れた六波羅探題北条仲時公は北朝の天子光厳天皇・後伏見華園二上皇を奉じて中山道を下ったが、南朝軍に阻まれ蓮華寺で戦ったが破れ本堂前庭で自刃した。四百三十余人だったという。
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松峰山・金剛輪寺

2009年09月12日 | Weblog
★松峰山・金剛輪寺
今から1200年前聖武天皇の勅願により行基が開山した古刹。
本堂は鎌倉時代の代表的な和様建築物として国宝に指定されている。
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釈迦山・百済寺

2009年09月12日 | Weblog
★釈迦山・百済寺
今から1400年前の推古14年(606)に渡来人のために聖徳太子が創建した近江の最古刹。
御堂は百済の「龍雲寺」を模して創建された。
百済寺の境内は81ヘクタールもあり、宗教史、政治史の一端を担う重要遺跡として「国史跡」の指定を受けている。
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瑞石山・永源寺

2009年09月12日 | Weblog
★瑞石山・永源寺
臨済宗永源寺派の総本山。 鎌倉時代、寂室元光和尚が伽藍を建立、江戸時代には彦根藩主井伊氏の庇護をうけた。
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滋賀・仏の道を尋ねて

2009年09月12日 | Weblog
今回は備中を離れ、滋賀県の湖東三山を中心に石塔物を見てきました。

★阿育王山・石塔寺
ここは、文字の通り阿育王塔(三重石塔・750Cm)を中心に数万といわれる石塔仏が祀られているお寺。
仏法興隆のため聖徳太子が近江に四十八寺の建立を発願されたが、その満願のお寺でもとの名は本願成就寺と言われた。
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落合地区の石塔

2009年03月03日 | Weblog
落合地区の石塔
★田原の長袖みさき(旧落合町・川東地区・田原)
川東地区・田原は旭川の東側に位置する。長袖みさきの由来は、昔備前児島五流の山伏の法印が伯耆大山へ参詣の帰り、旭川で遭難して死亡した。
村人はその死を供養するために宝篋印塔を造立したと伝えられるが年代など不明
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★田原の古墓(配石墓)(旧落合町・川東地区・田原)
田原の「長袖みさき」のまわりにある室町時代と思われる古墳群(配石墓)があり、また近くの墓地内に室町時代の五輪塔残欠もある。



★福田寺跡墓地(旧落合町・福田地区・天津)
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福田から高屋方面へ行く道の途中に三浦氏と関係があると伝えられる村岡家の墓地がある。 豊島石の五輪塔など約50基の墓塔が立っている。 豊島石の五輪塔で完全なものが2基欠けたものが2基がある。 その板碑型、笠塔婆、櫛型、ラントウ、無縫塔、自然石型など石塔がある。 板碑型は延宝三卯年、櫛型は延宝二・天和三・元禄十一・同十五・正徳元年、笠塔婆は宝永元年甲申・享保十年、無縫塔には宝永三戌天、自然石には享保十五年銘などがある。 住職墓には2m近い墓塔が2基ありその一基には「本姓三浦村岡但見苜□九十才」「寛政六年甲寅十一月廿二日」とある。 三浦家は十一代で滅亡したと伝えられているが村岡家はこの三浦氏とどのような関係があったのか?




★太平寺(落合町・鹿田地区)
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太平寺は現在無住である。 本堂左手の壇上に縦貫道工事でスノウチから出土した白色石灰岩五輪塔残欠が約50個寄せ集められている。宝篋印塔・五輪塔などの残欠である。石灰岩のほか花崗岩のものもみられる。 スノウチで発掘したとき古備前の壺が9個出たといわれ、その中には骨もあったといわれる。またスノウチの現地にはまだ残欠が多く置かれている。 この五輪塔群の左に江戸時代向津矢地区が大洪水にあい壊滅状態になった災害の復興に力をそそいだ石黒代官の墓が祀られている。石黒代官は宝暦六年(1756)に没している。


★石黒代官の墓


スノウチより出土した五輪塔残欠


★妙蓮寺跡墓地(落合町・大庭)
妙蓮寺に入る場所に天明元年(1781)建立の題目石があり、その台石の下に地蔵菩薩と大日如来の浮彫石仏があり室町時代と推定される。
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天明元年(1781)題目石                地蔵菩薩と大日如来石仏


★日蓮宗・妙蓮寺跡ラントウ群(落合町・大庭)
妙蓮寺には祖師堂一宇が残るのみであるが寺伝によると永正十三年(1516)の創建で法性院日華上人の開基であると伝えられる。また妙蓮寺の過去帳には
 窓見禅定門 寛永三年十一月廿五日 旦野伊左衛門
 清正院法悦入道 寛永九年八月二日 旦野助右衛門父
と記し梵鐘寄進の関係者であると述べている。
また町指定文化財となっている。 旦家のラントウ群が祀られており、その中に現在県内最古といわれる。「天正十三年七月廿六日」(1585)銘のものがある。







屋根はほとんどくずれてわずかに残っているだけで落合町史によると奥壁の五輪塔型の中に「妙□父去□霊」とあり前面の右柱に「元和九年」左に「十一月廿日」とあると書かれているが、現在は読み取ることは難しい。





このラントウは屋根も棟もくずれておらず、軒垂木があり前面左扉がある。右側面三茎蓮の文様を刻む。奥側に五輪塔があり中に「妙法」下方は不明。左右の柱には「寛永五戊辰年」「九月十五日」とある。


正面の柱右に「天正十三乙酉暦」左に「七月廿六日」正面に五輪塔を浮彫にして「妙法蓮華経」地輪に「浄願禅定門」とあり県下でラントウでは最古の年号が入っている。



このラントウは屋根もなく下の箱型も割れていて年代も不明である。もし屋根があれば140㎝ぐらいのものであったと予想できる。 前面の扉も失われている。 正面の中央に五輪の浮彫があり左右に板碑型を刻んでいる。
板碑型の中に「妙法蓮華経」とあり五輪にも各輪の中に妙法蓮華経と五字を刻み、下に「角実禅定門」とある正面の箱型の柱部分右柱の文字は風化が激しく読むことができないが、左柱の部分に「一月二十二日摺□□門成」とある。 また箱型正面の背面に枠で囲んだ中に六本の細長い五輪塔を刻み各五輪「妙法蓮華経」とありてまをかけて造られたラントウである。


庄一族関係のお寺に(北房町)

2009年02月13日 | Weblog
庄一族関係のお寺に(北房町)
安庭山・上合寺(呰部) 
上合寺は庄備中守為資の開基で開山は禅庵繁興大和尚とつたえられる。
寺の住職墓地には歴代住職の墓と共に庄氏と伝えられる白色石灰石の宝篋印塔がある。
その他残欠20個
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医王山・光合寺(呰部)
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福井孫六左衛門は庄家の重臣として活躍した武将であった。光合寺は火災により現在のように建て替えられた。現在、寺は上合寺により管理されており、寺の西下50mに住職墓地があり開山能山字賢大和尚の墓があるが、開基である福井孫六左衛門の墓は不明である。
また寺には位牌も残されている。地元では眼の上様として参拝者も多い。










石城寺(井尾上)
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真言宗石城寺。 由緒は不明。 現在は無人となっている。
寺裏の住職墓地内には白色石灰岩宝篋印塔・五輪塔の残欠約20個がある。






如意山・三尾寺(新見市豊永赤馬)
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三尾寺本堂 岡山県指定重要文化財(昭和34年1月13日指定)
現在の本堂は古記によると永禄2年(1558)呰部(あざえ)の丸山城主庄兵部大輔勝資が寺の荒廃を嘆き再建したと言われている。 しかし、様式から見ると17世紀中頃の再建と考えられる。














新見真福禅寺裏山の五輪塔群の整備

2008年12月08日 | Weblog
新見真福禅寺裏山の五輪塔群の整備が
吉備文化財センターと地元「塩山城守る会」にて進められた。
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新見市上熊谷の五輪塔

2008年12月08日 | Weblog
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新見真福禅寺裏山の五輪塔群

2008年11月01日 | Weblog
新見市上熊谷の真福禅寺裏山に五輪塔群が発掘されたと聞いて早速訪ねてみた。
過去にも真福禅寺裏山にはハチ屋敷跡の「白色石灰岩残石」として認められたものがあるが(備中の白色五輪塔:川瀬潔著)真福禅寺の北西裏のため池土手から発見されたもの。
発掘されたばかりで整理されていないが、いずれも白色石灰岩の五輪塔残石で西暦1600年頃のものの様であった。
吉備文化財センターと地元「塩山城守る会」にて整理が進められる予定という。
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有漢町保月山六面石憧

2008年09月01日 | Weblog
高梁市有漢町保月山六面石憧
 保月の六面石幢(せきどう)の幢とは、縦に長い旗で、それに仏の像や教えを書いて仏を供養したものですが、その旗を6枚合わせた形を石で形どったのが六面石幢です。全国でも数少ない遺作の中でも、これほど大きく(高さ264cm)優れた石幢は他に例がなく、我が国の標準作例として貴重なものです。奈良の石大工の井野行恒の名作で、嘉元4年(1306年)に作られています。

保月の板碑
 保月の板碑(もともとは仏の供養のために建てられた石塔婆の一種)は、花崗岩でできていて、奥行きが厚く、高さ315cm、幅43cmと、この様式では最大級に属するもので、釈迦、阿弥陀、地蔵の三尊が見事に彫られています。嘉元3年(1305年)、井野行恒の作です。

(この説明は高梁市のホームページの観光ガイドを利用させていただきました。)
高梁市のホームページ観光ガイド
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有漢町医王堂秋庭氏の墓

2008年09月01日 | Weblog
高梁市有漢町有漢茶堂
 秋庭氏は相模の国三浦(神奈川県)の一族で、秋庭三郎重信が関東での戦いで勲功があり、功行賞として有漢郷を賜り、貞応元年(1222年)に地頭としてこの地へ来た。そして有漢町貞守に台ヶ鼻城を築き約18年間この地にいたが、仁治元年
(1240年)高梁川の水運、山陰との交通の要衝、備中の軍事的拠点として備中松山の重要性を感じ、臥牛山の大松山に城を築き移った。
 二代秋庭元四郎信村、三代秋庭平六重運、四代秋庭小三郎義継、五代秋庭三郎重和と続き、元弘に至る約110年間である。(前期秋庭氏)
 その後秋庭氏のあと松山城主になるのが高橋九郎左衛門宗康であるが、北条氏滅亡の際、六波羅探題、北条仲時と共に近江の国番場蓮華寺において多くの備中武士と共に一門ことごとく自決した。(元弘三年) 今から約670年前の事である。
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寿覚院五輪塔

2007年11月10日 | Weblog
寿覚院五輪塔
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