エレミヤ書10:1-8
ガラテヤの信徒への手紙3:15-20
竹前 治牧師
パウロはアブラハムが義とされたことは神のみ言葉を信じたからだと言い、さらにこの義はすべての人に向けられていると言います。パウロは信仰によって生きる者と律法に生きる者の違いをはっきりと言いました。律法に生きる者はその定めに生きる。
つまり律法の奴隷として律法の呪縛から逃れられない、律法によって義とされるならば、キリストの救いは無になると言います。さらに律法を自分の解釈の中でとらえるために、自らが神になり自分の正義を律法の中に探し出し、律法を守れない者、知らない者を裁くことをしてしまうという呪縛であります。ですからパウロは、律法は信仰をよりどころとしていないというのです。
では信仰によって生きるとは何か。その者たちは律法を守りますが、律法の呪縛から解き放たれた形で律法と向き合うのです。ただ律法の呪縛からの解放は自分の力ではどうにもなりません。この呪縛から解き放つ方との出会いが大切なのです。
それがキリストなのです。キリストは十字架と復活を通して、罪を赦し、さらに律法の呪縛から私たちを解放するのです。それは律法のあるべき姿の回復であります。
パウロはさらに信仰による義について語ります。そこでパウロは法律の例えを用います。それは当時の人々にわかりやすく理解させるためです。
そこでパウロは遺言状のことを持ち出します。遺言状は自分が死んだ後のことについて書き残すものであります。それが有効となるのは書いた人が死を迎えた後になります。法律的に有効とされた遺言状を本人以外には、勝手に書き直したり無効にしたりはできなのです。
ではパウロはこの遺言状を例にして、何を言おうとしているのでしょうか。それは約束と契約の議論をするためです。約束も契約も同じ意味ではないかと思われます。広辞苑には、約束は「くくりたばねること」、「取り決めること」と書かれています。契約は「神が救いの業を成し遂げるために人間と結ぶ恵みの関係」、神の側から私たちに向けられたものであるということです。
遺言は遺言者の意志に基づくという本質からすれば、神の契約の性質をよく現すことができる例であるのです。神が執行される契約を人間の側で勝手に書き直したり、無効にすることができないと。
アブラハムの義が何であったかを示し、行為義認ではなく、神と人の間に立ち、契約の仲保者となられた方を信じることによってのみ義とされることを語るのです。
救いへと導くのは人間の側の力ではなく、あくまでも契約を全うされる神の一方的な恵みによるものなのです。
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