今日の聖書は、旧約聖書です。
イザヤ書 63:16
あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らずイスラエルがわたしたちを認めなくても主よ、あなたはわたしたちの父です。「わたしたちの贖い主」これは永遠の昔からあなたの御名です。
聖書は、一言で簡単に言うなら「主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖(あがな)い主』」
と、言うことが書かれている本です。
「贖(あがな)い」って、難しいけど「罪を償(つぐな)う」という意味です。
ですから、聖書は
「神様は、私たちの父です。私たちの罪を償(つぐな)ってくださる方です」ということが、書いてある本だと言えます。
旧約聖書は、イエス様がお生まれになる前に書かれたので、イエス様のお名前は1回も出ては来ませんが、もっと解説を加えると
「神様はイエス様の十字架によって、私たち人間の罪を償って
死から救ってくださる」という預言が、書かれている本だとも
言っていいと思います。
それで、ここからちょっと、イエス様のお話をすることにします。
イエス様は、神様の子供です。
ですから、イエス様は本当の神様です。
イエス様は、父なる神様にとって大切な、大切な愛する独り子です。
イエス様は、私たちと同じ体を持つ本当の人間でもあります。
イエス様は清らかで全く罪がない、というところが私たちと違います。
イエス様は、お父さんの神様を片時も忘れることなく信頼しきって、「父よ」、「アッバ父よ」と呼んで、祈ってました。
「アッバ父よ」というのは、子供が「お父さん、おとうちゃん、パパ」
と呼ぶけれど、そういう親しみを込めた呼び方です。
子供讃美歌に、こんな讃美歌がありますね。
「悪いことは、小さくてもお嫌いなさ~る~神様♪」
神様は、悪いことが大っ嫌いです。
人間の目にはどんなに小さく見えても、神様からすれば、悪は悪、罪は罪です。
キリスト教でいう罪とは、神様に背を向けて生きることをいいます。
罪は「神様のことなんか無視、無視。自分勝手に生きる方が、自由で楽しいよ。バレなきゃ、悪いことする方が得だよ」
と、誘惑して来ます。
神様は、罪に対して怒ります。
罰しないではおかない厳しいぃ~方です。
どんな罰かって?
それは、最終的には死です。
コワ~~ッ!
でも、大丈夫!
十字架のイエス様が私たちの間に立ちはだかって、命を懸けて守ってくださったからです。
人間は、いつか必ず死にます。
ということは、「自分は、警察に捕まるような罪なんか犯してないもん」って思ってる人も、だれもが罪を持ってることになります。
神様は、罪の私たちを罰する代わりに、大切な大切なかわいいい神様の独り子イエス様を、怖ろしい十字架刑にしました。
罪ある私たちの罪を、代わりにイエス様に背負わさせて死なせました。
よりによって、全く罪のない愛するイエス様を罰っすることで私たちの罪を償って、帳消しにしてくださいました。
十字架とは、こういう事です。
正しい人や好きな人のためならまだしも、怒りの対象である大っ嫌いな罪人のために、自分のかわいい息子を死なせる人が、どこにいるでしょうか。
しかし、神様はそういうことをなさったのです。
これが奇跡でなくて、何が奇跡だっていうのでしょうか?
神様は、十字架で死ぬまで従順だったイエス様を死なせたままにはしませんでした。
三日目に、復活させてくださいました。
それで、私たちを罪あるままで罪のない者と見なし、神様の子供としてくださいました。
神様の子供ということは、イエス様の復活にあやかって、私たちにも、復活の命、永遠の命が与えられたということです。
だから私たちも安心して、神様を「父よ」、「おとうさん」と、呼べる身分になりました。
イエス様は、十字架という永遠的な苦しみを、味わいました。
ということは、大切な大切なイエス様を十字架につけなければならなかったイエス様のお父さんの神様も一緒に苦しんでおられたということになります。
「大っ嫌いな」罪の私たちのために、神様が痛み苦しんだのです!
ですから、私たちもこの神様の愛を信じ倣って、「好きな人だけじゃなく嫌いな人をも愛せますよう聖霊をください」と祈りたいと思います。
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