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"跡" を 辿って。

麓城( 麓館・吉田城 )跡 | 城主不明 ( 黒川氏家臣 : 入生田氏? )の居城

2016-11-05 13:00:04 | 城館跡等


宮城県黒川郡大和町吉田字麓71


別名       麓館、吉田城
築城・廃城年   不明〜1590年?
主な城主     不明、入生田右京之允?( 主君 : 黒川氏? )


近隣河川      吉田川 
最寄街道     宮床〜難波〜吉田〜吉岡
 
立地       集落の奥、街道の分岐点とも

 
構成       一の丸、二の丸、空堀  
主な遺構     不明
井戸跡      なし




あまりにも、石神山精神社 が有名なので、その上にあったという この城は注目の外という傾向が強い。 石神山精神社 は 奈良時代 もしくはそれ以前からある、宮城県で 一番古い神社 であるらしい。 境内にあるその巨石が真の御神体、参道は社殿でなく磐座(巨石)を向いている。 昔人にとって巨石は、発祥が不思議で神秘的、頑丈ゆえに難攻不落・永遠をイメージさせる神聖なものだったに違いない。

 


坂上田村麻呂 も 聖武天皇の命に従って泣く泣くはるばる来た 東征(792〜804年)の際に、ここを参拝し、今も境内に残る 杉を手植え したそうだ。 この神社の北西・ 悪田 と呼ばれる地域には、「 玉ケ池 」があって、こちらも坂上田村麻呂に纏わる伝説が残っている。 近くに住む娘が毎朝玉ケ池で顔を洗っているのを田村麻呂が見かけ、その美しさに心奪われてしまい妻として娶ったと言うものだ。

 



 



そんな由緒ある地域の 社の上を構えるだなんて、どんな殿様だろう。 東北大学の文学部が所蔵する第一級の歴史資料「 鬼柳文書 」に " 吉田城 " としてその名が初出する。





和賀義綱軍忠状(鬼柳文書)

正平八年(1353年)




和賀常陸権守□□□軍忠事

右今年文和二正月十日、宮城郡小曾沼城□□□治御発向之間、 同十三日、馳参、属惣□□□□□其義手、同十八日、一名坂城追落事畢、同日夜小曾沼城令没落、同十九日、山村城御発向之間、御共仕馳向候処、南部伊予守・浅利尾張守以下凶徒等、令降参畢、同廿日、黒川郡吉田城御共仕之処、中院大納言以下凶徒等、令没落畢、然早下賜御証判、為備末代亀鏡恐々言上如件


文和二年正月 日

一見(花押)






 "
和賀常陸権守義綱(?)軍の忠事

右(上記)の者は今年文和二年(1353年)正月十日、宮城郡 小曾沼城 対治のため、発向の間(出発して目的地に向かい)、同十三日に馳参(到着)した。惣領薩摩守?の手(支配下)に属して、同十八日に 一名坂城 を追落とし事を終えた。同十九日には 山村城 へ発向の間(出発、)(一緒に)向かうところである。 南部伊予の守・浅利尾張の守以下の凶徒等は、降参させられ候。(この者らは我らに従い)同廿日まで(貴殿ら)黒川郡 吉田城(へ、攻めに)共に参るところだ。 (そこに隠れ籠っている)中院大納言以下の凶徒等は没落させられて終わるだろう。 然れば(分かったのなら)早く御証判を下し給わる(行動する決断をする)ように。末代の亀鏡に備えるため(模範となるよう)恐れながらお話申し上げる、この件宜しく。

文和二年正月 日

 

花押( 吉良貞経のものか?)

 

" 








 


戦への寝返りを要請する 証判状(一見状)の文面である。 訳者は 吉良貞経 の依頼を 和賀義綱 に託しこれを 吉田城 へ届けさせたと解する。 書状の主・吉良貞経 は 観応の擾乱東北版・北朝方の先鋒・吉良貞家 の弟だ。 この 吉良貞家が 畠山国氏父子 を 岩切城 に追い詰めたのは 1351年(観応元)、小曽沼城一名坂城、地元の南朝方の本拠地である 山邑城山村城) の壊滅 が 文和2年の1月13〜19日の間であるとこの書状は明らかにしている。吉田城 の皆々も何らかの理由で敵視されており、「 攻撃されたくなければ、我ら南朝方にに味方し後の戦に参戦しろ 」ということなので、1352年(観応2)4月の 多賀城 奪還までの戦闘から、1353年(文和2)宇津峰城 を陥落させて東北の南朝方勢力を駆逐した戦闘までの何れか若しくは全てを意味していることになる。

 



様々を参照すると吉田城は同1353年(文和2)正月20日陥落しているらしい。

 


余談だがこれからわずか1年足らずの 1354年(文和3・正平9)には、吉良兄弟の消息が断たれる。どんな書類にも名前を見つけることが出来ないそうだ。






ところで、麓城( 吉田城 )について調べると年代やキーワードに混乱も見える。


・ 入生田右京之允の居館で、文永2年(1265年)没落
・ 黒川郡三十三古城のひとつ
・ 本丸77間 × 7間、二の丸20間 × 4間
・ 城主、入生田右兵衛佐
黒川氏 九世晴氏月艦斉の臣、入生田駿河
・ 天正の戦い?に敗れ伊達家に属し文禄(1593〜1596)まで居住
・ のちに涌谷伊達家に仕え涌谷に移転、麓城は廃止






1200年より以前からこの城は、城として機能していたと見ていいだろう。 代々の通字は " 右 " 、山頂の面積から言っても然程大規模な城で無い事は確かなようだが。 旧吉田村(黒川郡大和町吉田)から 旧難波村(黒川郡大和町吉田字難波)へ抜ける街道の要衝を押さえていると同時に、この城の東側にある行き止まり集落の 麓地区 を警護しているようにも見える。 何か特別な人々が居住している集落? 現地に行くとある特異な氏名の方々が密集して住んでいるようにも見えなくないなぁ。食肉卸大手スターゼン創業家はここの出身? 先祖は平家の落人? 秋保(仙台市内太白区秋保町)と違ってそんな話は聞いた事がないし、石神山精神社 の歴史から言っても平安時代以前から集落として成立していたと考えられる。 じゃ遡って、蘇我氏 年代(古墳時代〜飛鳥時代初期)に同じく隆盛を誇った 大伴氏 の末裔とか? ( 北東側の旧吉岡村には、大友姓が多く旧宮床村には、浅野姓が多いらしい。。。と思ったら、ここにこんな考察がったので引用したい。



※ 只野信夫氏の「新・みちのく古代史紀行 七つ森は語る」
淳和天皇(大伴親王)と、黒川郡の大伴氏に「なみなみならぬ血筋を感じさせる」



※ 大伴氏と大友氏 - はての鹽竈








難波地区(宮床・吉田)

脱線するが、 先述の 難波 地区だが、本当に不思議な集落なのだ。 山形側に渡る事も出来ないし、山伏が修行するような霊場がある訳でも無い、何でこんな所に人が住んでいるのがと驚くような地域なのだ。

村の一部と景勝地であった 鳳鳴四十八滝 は現在、南川ダム の底に沈んでいるが一方、高地である西側の集落だけは残っている。

耕作地が少なく水も冷たく稲作には全く向かない、畑作だって難しそうだ。村人はどうやって生計を立てられたのだろう?


( どこかのブログにあったそうなのだが、ここら辺には、渡来人が伝授した 鉄を作る民 ( 産鉄族 ) が居着いたという説があるそうだ。 四十八滝 の冷たい水で鉄を冷やす必要があったらしい。 この話を地元民に問いかけると、上記とはまた別の独特の苗字の末裔の方が記念にと、その苗字の刀鍛冶の銘のある、刀や包丁などを記念にと譲り受ける(先祖鋳造の刃物収集保存)活動を行った話を最近聞くことができた。とても興味深い話だった。 この地域は、つまり奈良時代以前から、歴史の大変動が起きたことがきっかけで、都からの移民が行き交っていた可能性がある。 そりゃそうだ。 今のように、こんな大昔は下流に橋などなく、大河は渡れない。 こういうところの山深い上流域に、川を渡る大街道があったにちがいない。 それが、この辺だったのであろうことは周囲にできている城や街道筋跡の並木により、容易に想像できるのである。 )



さて、脱線から少しだけ戻って。



淳和天皇とのゆかり

吉田村側に降りるには南川伝いを下れば直ぐだが、仙台市寄りの旧宮床村(黒川郡大和町宮床)へ降りるには現代ですら魑魅魍魎の出そうな長い山道を時間を掛けて下らなくてはならない。2015年9月11日の関東東北豪雨では土砂崩れがあって通行止めにもなったという不安定な道である。

但しこの宮床村への降り口には、平安時代(823〜858年)の天皇で、宮床村で隠居生活を送ったとの伝説もある 淳和天皇( 754〜840年 )が勅願して創建され、そのも残るとされる 信楽寺廃寺跡(しんぎょうじはいじあと)がある。 こんな ど田舎 に 天皇ゆかりの寺?! 実に不思議で何かの因縁に満ちている。


さらに前段の『 鬼柳文書 』を再度良く見ると、 吉田城 には、中院大納言 が匿われていたと読み取る事が出来る。大納言というのだから南朝方のお偉いさんと一見されるが違うらしい、北朝方の要職者で 1339年 に 24歳で 淳和院別当 の役職に就きその後何らかの理由で南朝方に汲みする事になった 中院通冬( なかのいんみちふゆ、1315〜1363 )なのらしいのだ。観応の擾乱東北版の中心地・宮城郡とは関わりの薄い、黒川郡( 黒川氏は北朝方の頂点・足利氏の親戚 )の、吉田城に戦火が飛んで来た原因は 淳和院繋がり の 彼にあるのでは無いだろうか。 結局 通冬 は吉田城は脱出出来た様だが、北朝政府に戻っても 中院家 の不遇の時代は長く続き、文書が予言した通り没落して行ったらしい。






先の書状を持参した 和賀氏 は、関東から北上市辺りに来て、伊達・最上・南部の勢力拡大について行けず、しかし南部麾下に入る事も出来ず没落してしまったが、麓城 の 城主は何か大切なモノを守りながらその時々の時代に柔軟に対応出来ていたことは伺える。謎はたくさん残るが、糸口はずっと探し続けたいと思わせてくれる、そんな地域の城跡である。




玉ケ池は、広場の向こうの林の中に。





鬼柳文書
鬼柳氏 は、岩手県北上市あたりにに本拠を置いた 和賀氏 の 庶氏 で、本文書は鬼柳氏に伝わる鎌倉〜室町時代の80通程の古文書。



臨済宗 清浄山 禅興寺
1670年(寛文10)、松島・瑞巌寺の和尚へと上り詰めたここ吉田出身の102世大領義猷(だいりょうぎゆう)により再建された。大領和尚は伊達家4代藩主・綱村公に教えを請われた名僧。山門および観音堂は1688年(元禄元)に建立された貴重な遺構であるらしい。





登場文献     「 鬼柳文書 」


解説設備     古いものが若干
整備状況     公園化されているものの放置傾向


発掘調査     不明



若林城 跡 | 伊達氏 の 居城

2016-08-10 13:00:00 | 城館跡等

宮城県仙台市若林区古城2丁目3




別名       仙台屋敷構( 幕府造営許可名 )
築城・廃城年   1627〜1636年( 寛永4〜13 )
主な城主     伊達政宗


近隣河川     平渡戸川( ひらわたどのかわ = 梅田川 )・広瀬川 ( 名取川水系 )
最寄街道     東街道( 奥州街道 )、石巻・塩釜街道( 原町、水運関係有 )

 
構成       南の丸、西曲輪、出曲輪、山里( 的場・築山 )、櫓
主な遺構     土塁、水堀の一部、臥龍梅




たった 8年 しか使われなかった豪壮優雅な城、それが 若林城 だ。 " 仙台輪中( 城下町 )" の外、田畑や草原の中に円墳・前方後円墳等 古代からの遺跡が点々と残るド田舎の朴訥な風景、その中に 仙台藩祖伊達政宗 は自らの 隠居城 を設けた。 " 一国一城令 " そんなもの知らぬと言わんばかり、盛り上げた 土塁 は 高さ 約 6m(二丈余)、の幅 約 54m(三十間、二重・三重と設けていたようでおそらく大外の堀のサイズと思われる)。 隠匿 と 拒絶 を 強く意識した造りと見て良さそうだ。 " 仙台屋敷構 " であると幕府に造営を願い出たのは機転の利く官僚のなせる技だろう、その書類・図面上には表現していないニュアンスで竣工させていると思われるのは「 館の西に杉を植え堀一重を残して田畑にすべし 」という政宗の遺言にも明らか。 西は大手口、残した最内の堀は用水路並のショボい規模だったであろう、城は実際に見られてはいけない様だったに違いない。





近世初頭の城郭技術の到達点 にあると言われる同城、東西約300m・南北約520mとさすが広大だ。前述の通り 大手口 は 西側、内枡形 の典型的な形態・塀 2mの高さで守りを固める。そこを無事通過すると面前には張り出した形で玄関が迫り来る、履物を脱いで建物に上がればそこは政治の表舞台・西曲輪 だ。そのまま東進して突き当たると東南方向には短い渡り廊下で繋がる小型の建物が設けられている。そこからさらに短い渡り廊下を経て南進すると、生活の場・南の丸 に到着だ。 西辺と南辺にを設え、西からまたさらに短い渡り廊下で繋がる別棟が用意されている。なんだか東側は昼間用、西側は夜用と言わんばかりのイメージ、建物と塀との間は " 白洲 " 、一面に玉砂利が敷かれていた。警備の面での機能性も計算され尽くされていたように感じる。





さて、建物群の北側、いやおそらく正確には 北東域 は、的場築山 のある 山里 と呼ばれた、ある意味娯楽スペースだったらしい。野点 等の出来るちょっとした高台は石垣を用いてまで作られた程の凝りようだったそうだ。その南には今も毎春に花を咲かせる 臥龍梅 があり、南の丸東側の借景を彩っていたであろう。ダイニングがここにあったらさぞと思われるレイアウトである。








ところで、政治の舞台・西曲輪 は何故中心的な存在であるにも拘らず 西 と呼ばれたのだろうか。 推理するに、本丸・二の丸と呼称しないことで城であることを表向き否認、並びに西が大手なのでそこからすぐ入れる屋敷だから西曲輪。南の丸は単にその南にあるとの意図だと思う。





政宗はここに住まう以前( 慶長年間 )、花壇 (青葉区花壇) に居を構えていた。 仙台城 は 山城、普段の生活で往来するのはやはり面倒だし疲れるのだ。 2代目・忠宗 に表向きな政権を委譲したことも手伝って、以前の領主である 国分氏 が 古来から隠居の地とした 小泉村 のこの地に住まう事にしたのだろう。


政宗の転居に伴って家臣たちも 若林城 周辺に移転した、ゆえに商人たちも移ってくる。若林城下には直ぐに街が出来、奉行所が置かれる程の成熟を見せた。 若林城 は南北列が 11° ばかり東に触れている、今でも地図を見ると、北は 連坊小路、南は 南材木町・河原町、東は 遠見塚古墳の西側・中倉、西は 荒町 までが 東に 11° 程触れており、若林城を基準とした町割りであった事が明確である。




さて、政宗没後 遺言通りにするため後世代たちはどう処したのだろうか。




まず、西曲輪。 主要な建物は、仙台城二の丸 の 大台所 に移築したらしいことが度々の発掘調査を経て裏付けられたそうだ。 大手口より外に設けられた山門は 松音寺(仙台市若林区新寺)の山門として移築、他の門(北か東かの何れか)は 家臣の 茂庭氏 が 拝領、 西曲輪にあったかもしれない 某書院 は 政宗廟・瑞鳳殿 の御供所に?、黒書院 は 泉屋庄右衛門( 解体移築の功労大工? )の屋敷へ移築されたそうだ。








突貫で田畑を装った城跡は 44年の月日を経て 1680年(延宝8)、藩の漢方薬の栽培畑である 御薬園 に指定された。発掘調査では、17世紀前半の陶器( 志野・織部・瀬戸・美濃・唐津・備前 )、肥前の磁器等の高級品の出土とともに、御薬園の畑の畝と思われる遺構も確認されている。小泉村 に属するもずっと藩の管理下にあって一般の立ち入りは厳しく制限されていたが 1742年(寛保2)になって漸く " 仙台輪中 " に編入、城下の飛び地として昇格した。翌1743年(寛保3)と 1856年(安政3)に 堀の北側( 南側は既に溜池化 )の 修理 を幕府に願い出ている。そして明治維新後も伊達家の所有地となっていたが、1879年(明治12)宮城集治監 の敷地として接収され、宮城刑務所 の現在に至っている。















臥龍梅

国指定(昭和17)天然記念物「 朝鮮ウメ 」。政宗 が 朝鮮出兵文禄の役、1953年・文禄2 )の際に持ち帰ったとされる。樹齢は220年以上、360年とも推定されている。この古木の兄弟分や子孫が宮城県内各所にあるとのこと。







瑞巌寺 境内 造営時、政宗が手植え。左白・右紅( 臥龍八房 )、宮城県天然記念物
瑞鳳殿 再建の際、若林城の臥龍梅から接木
大願寺 瑞巌寺の後継寺で政宗の灰塚がある(青葉区子平町)
・ 高等裁判所 (家臣邸跡?、のちに原田甲斐邸跡地)
・ 西公園 櫻岡大神宮付近(家臣邸跡?)
・ 片平公園 (家臣邸跡?、正確な場所不明)
・ 青葉区柏木の個人宅(家臣邸跡?)
・ 聖ウルスラ学園敷地内(法領塚古墳有、若林城下家臣邸跡?)










登場文献 『 政宗記 』、『 若林所々御普請之覚 』、『 治家記録引証記 』、『 古御城絵図 』、
『 木村右衛門覚書 』、『 節翁古談 』


解説設備     ほぼなし
整備状況     なし、宮城刑務所敷地


発掘調査     1984〜2006年(昭和59〜平成18)までに8回、仙台市教育委員会、他




ちなみに今回の画像は、ブラタモリ #13 仙台 「杜」と「都」( 2015年7月18日放送 )放映にインスピレーションを得ている。




【 その他参考資料 】行人塚( 現・古城神社 )



南目城( 南目舘 ) 跡 | 国分氏 の 居館

2016-03-01 13:00:00 | 城館跡等


宮城県仙台市宮城野区南目館




別名       北目館?
築城・廃城年   1350年代後半~1601年( 室町時代中期 ~ 仙台開府 : 慶長5 )
主な城主     国分氏、喜多目氏


近隣河川     梅田川( 七北田川水系 )
最寄街道     奥大道→東街道(西700m)
立地       街道筋から少し入った田圃の真ん中


構成       主郭、二郭
主な遺構     消滅?




南目城( ミナミノメジョウ・南目舘 )は、仙台市宮城野区榴ケ岡の東方に広がる古来の 歌枕 の地 " 宮城野 " と称された自然堤防上に位置している。『 仙台領古城書上 』では、東西100間・南北70間( 東西 170m・南北最大120m )、城主は仙台藩士 喜多目彦右衛門の先祖・喜多目紀伊(守)。『 奥羽観蹟聞老志 』や 『 奥州名所図会 』は、喜多目紀伊 の前に 結城七郎 が 居住したとも伝える。


1602年(慶長7)、前述の 喜多目彦右衛門 は家督を継いで間も無く、栗原郡 三迫 沼倉村( 宮城県栗原市栗駒町沼倉 )に 知行替え となった。 仙台開府( 1601・慶長5 )の翌年、おそらくその間も無く廃城となっただろう。 陸上自衛隊仙台駐屯地が所蔵するこの土地を撮影した古い写真には、壇状の高まりと2本の木が田圃に囲まれて立っている。また「 明治35年1月調書 南目館址( 作 : 熊谷万山 ) 」という 絵図・鳥瞰図 にも 田圃の中に壇状の高まりと3本の木と祠、方形に張り巡らせた広大な水堀が描かれている。


廃城後そのまま放置されていた訳では無い、当然の如く周囲と同じ様に畑になって行ったようだ。 北側と南側の土塁は壊され、堀は埋められた( 明治中期の地勢図による )。 明治中期、宮城野原一帯は 軍の練兵場 だった。それが自然に北進して 1938年(昭和13)城跡は 陸軍造兵廠 の 敷地に。そして現在、陸上自衛隊仙台(苦竹)駐屯地 となっている。


発掘調査等は行われていないだろうし、遺構は相当破壊されていると思われる。現在僅かに面影の残るのは " 南目館跡の碑 " の下の、高まりの " 壇 " だ。前述の「 明治35年1月調書 南目館址( 作 : 熊谷万山 ) 」に、3本の木と祠とともに描かれた壇を彷彿とさせ、主郭の跡ではないかと推理されている。


南目城 跡 の中心部の字名は「 舘前 」、北西が「 舘裏上 」、東が「 舘裏下」、舘前の南は「 舘南 」、西が「 舘西 」。 舘前 の前はきっと表と言う意味に違い無い。舘裏上 は 宮城野萩の雅やかな野原、他は主に畑だ。のんびりとした浄土のような世界の中心に煌びやかな政治の中心が聳えていた、そんなイメージを感じる。


そう言えば 南目 と言えば、観応の擾乱 : 東北版(1349~1352)・岩切合戦 後の 1353年(文和2)、国分淡路守 宛に 斯波家兼 の下僚から「 沢田氏 が そこから動かないからどうにかしろ、石川兼光 にやるつもりなんだから。 」という 通達 があった。( この件の 国分淡路守 について 本ブログ では 国分氏 ではないとの見解を示した。) そしてその 沢田氏 は他に、 " 大椽沢田平次 " または " 陸奥大椽沢田平次 " と表現されているようだ。「 大椽 」とは一体何を表現する 苗字の一部?






大椽氏
  常陸大椽 となったことに由来する 坂東平氏桓武平氏国香流 嫡流、通字 は 幹 = もと )だがしかし在庁官人として君臨したことはないので根拠不明、しかも庶流には 石川氏 がいる。

大椽
  日本の律令制度の四等管の内の三等管。 律令制度は、飛鳥時代の7世紀後半~8世紀( 701年大宝律令 )にピークを迎え、桓武天皇 が 廃止を命じ、そこからゆるくフェイドアウトして 10世紀には完全消滅。 平安後期辺りからは転じて、芸人 の称号 に。 商人刀匠 等にも使われた。浄瑠璃の太夫には代々受け継がれている。






芸人……。 ところで、 田楽猿楽 は 平安時代 後期 から 室町時代 に至る頃に、寺社 の 法会 や祭礼 に 重宝されていた。西洋教会のステンドグラス同様、経典を物語化して民衆に分かりやすく伝えるのに役立った。発展して 座 が 寺社の保護下で組織されるものもあったらしい。 あれ? そう言えばこの地、陸奥国分寺の至近にあるんだよなぁ。




ちなみに " 壇 " の西側にある「 英魂碑 」のそばには、正応 3年(1290) 銘の 板碑があるが、これは 鎌倉時代後期 に ここで 供養行為 が行われたことを示している。



小泉城の項 でも理解した通り、国分寺の影響を強く受けた地域には極端に板碑が少ない。 若林地域よりも距離的に近いこの場所、歌枕である宮城野原以外、地形的にさして特徴もないのに神聖じみた扱いを匂わせている、意味深な板碑である。




話を戻そう。 滅多に見られ無いほどのこの規模には、特別感が半端ない。 前述の通り、本城が出来る前からスペシャルな土地でもある。「 明治35年1月調書 南目館址 」の 絵図・鳥瞰図 には、二重の土塁や塀、南端のセンターには橋が描かれている。喜多目氏 の 居城以前は伝承通り、国分氏( 結城七郎 )の居城だったと言うよりは、国分領の政治の中枢として機能した城では無いだろうか。多賀城の衰退に比例して盛大になった。時代を経て、国分領の中枢が移動するに従い、土地は家臣に分け与えられた。上物は広大な土地に似合わず質素なものだったに違い無い。


余談だが、北目城 跡 が 仙台市太白区東郡山2丁目にある。ここが北にあるのに南目で、南にあるのに 北目 だ。 館主の 喜多目氏 は元は 国分能登守盛氏 の 一家で、南目 と言う苗字だった。 伊達家に属すると 政宗 から 喜多目(北目)の苗字を拝領。それが国分領攻略のための拠点・北目城 に由来するのかどうかは分からない。




登場文献     『 仙台領古城書上 』、『 奥羽観蹟聞老志 』、『 奥州名所図会 』


解説設備     有り(古い解釈のもの)、駐屯地内
整備状況     陸上自衛隊苦竹駐屯地、自衛隊宿舎


発掘調査     なし



小泉城 跡 | 国分氏 の 居城

2016-02-10 13:00:00 | 城館跡等


不明、 宮城県 仙台市 若林区 遠見塚1丁目~古城3丁目?


別名       結城七郎館、結城館
築城・廃城年   1100年代~1500年代(12世紀~16世紀)
主な城主     国分氏


近隣河川     広瀬川
最寄街道     東山道→奥大道→東街道( 太白区郡山~宮沢橋~国分寺西~燕沢・小鶴~多賀城 )
立地       城下街の中心

 
構成       不明
主な遺構     消滅?




出処不確かだがある文献によれば「 1480年(文明12)に 国分盛行(想定11代)が 子の 国分盛綱(想定12代)に家督を譲り 小泉村 に別荘を作って隠居 」と初出、『 仙台領古城書上 』には「 此( 松森 )城主 国分彦九郎盛重小泉村より取移 」とある。 この両方を指すのが 小泉城 なのだろうか。


どうも 小泉村 には 2つ城があったようだが、それらを何城・何館と呼称していたのか明らかでない。


[1]. " 若林古城 " ・" 国分殿古城 " (『東奥老士夜話 』、『 封内名蹟志 』)

[2]. " 結城七郎館 "、東西40間、南北38間、国分能登守 まで居住(『 封内名蹟志 』)

[3]. " 要害 "、東西58間、南北38間、1576年(天正4)国分彦九郎盛重 が 築く、千代城より移転。
または 城主 堀江伊勢、国分彦九郎盛重も居住(『 国分千代御城之事(千田家資料)』他)


[2]~[3] は 1500年代(16世紀)、[1] は 鎌倉時代(1200年・13世紀前後)から 若林城 築城(1627年・寛永4)までの年代を含み、以下のように仮想・整理出来る。


[1]. 盛行 及び代々 の 隠居館 で 若林城 の 前身

[2]. 天文年間(1532~1555)まで居住の館( 国分能登守 は 宗政(想定14代))

[3]. 天正年間(1573~1592)居住の館


これらはいずれも規模から見て 国分氏 の 本城 ではないそうだが、2005年(平成17)月末時点で報告書が刊行された 『 南小泉遺跡発掘調査(~第43次)』のうち、第16次調査で、拡張・防御性の強化・館としての連続性(13世紀~16世紀)が認められる大規模な遺構が発見された。 ネッツトヨタ仙台遠見塚店 の 西から北西のエリアにだ。 この遺構、堀跡が16世紀半ばから再利用されているとのことで [3] を該当させても不自然ではない。 [3] は 松森城 へ 拠点を移転したのちに家臣に 管理させる名目で建て直したとも受け取れる。 『 国分千代御城之事(千田家資料)』に出て来る 堀江伊勢 は、のちに謀反を起こす 堀江長門 のことだろうか。 盛重 はそれほどまで部下の統率に苦心していたことが浮かび上がって来る。


地政 から考えるにおそらく常に 小泉村 にある城が継続して、嫡流による 政治の拠点 となったものではないだろう。 想像するに 国分家代々の隠居所・ブルジョアジー的地位を許された家のみが居住出来る城であり、地域 だったのではないだろうか。 古くから 官衙 が置かれた 郡山 に近く、古代領主の大規模な 遠見塚古墳雷神山古墳法領塚古墳 )が数ある古くから華やかな村、それが 小泉村 であったに違いない。 周囲一帯にはまさに 12世紀後半から16世紀に至る 国分氏庶子 や 家臣 のものと見られる 屋敷跡 の数々が発見されている。 尚、12世紀後半からの屋敷跡があるにも拘らずこの地域に 板碑 が 明らかに少ないのは、国分寺 が しっかり機能していたからに他ならないらしい。




登場文献     『 仙台領古城書上 』、『 封内風土記 』他


解説設備     なし
整備状況     なし、住宅地


発掘調査     参考 : 南小泉遺跡/2005年まで(~第43次)






遠見塚1丁目




古城3丁目


松森城 跡 | 国分氏・伊達氏庶流 の 居城

2016-01-20 13:00:00 | 城館跡等

宮城県仙台市泉区松森字内町、他


別名          鶴ヶ城、乙森城
築城・廃城年代     1530年代~1590年(1611年)
主な城主        国分氏(~末代 : 盛重)、伊達宗清


近隣河川        七北田川(七北田川水系)
最寄街道        岩切街道


構成          本丸、二ノ丸
主な遺構        曲輪、虎口、空堀、堀切、土塁、(掘立柱建物跡4棟)
井戸跡         発掘調査箇所で 1基





七北田川流域では 最も完成度の高い 同城。 現在も残る公園へ誘導する道が往時からの 登城路 と考えられるがここより右手側の尾根に 東曲輪群、左手側に 西曲輪群 が 連なる。 東曲輪群 の最高部で最も広い平場が 主郭 、西曲輪群 の最高部が 二ノ丸。主郭 の南西角には ニ折一空間 の 外枡形 から発展した見事な 大手虎口 がある。


東曲輪群 も 西曲輪群 も それぞれ南西・南東方向に幾重にも連なる曲輪を携え、所謂 " 鶴翼の陣 " 形 を成している。それが別名『 鶴ヶ城 』と言われた所以だろう。南の登城路から侵入しようとする敵は西・北・東の3方を囲まれ、壊滅的な攻撃を受ける、鉄壁の防御システム だ。





また、同城で注目されるのが城の南に都市的な 城下集落 が存在したこと。『 安永風土記 』には、「 本町・中町・下町 があり、国分時代の町であろう 」かと記している。 市道 泉6115号線( 内町線 )より北側が 内町 地区、市道 泉6023号線( 天神沢台谷地線 )と 内町線 の間が 前沼地区、天神沢台谷地線 以南の一部が 岡本前地区 と 城前地区、往時を彷彿とする地名が残っている。 前沼 は 水堀 の名残、内町 は 本町・中町・下町 で いずれも計画的な屋敷割が施されていた。城前 や 岡本前 などと言う地名も隣接する。ちなみに 岡本前地区は 岡本と言う家臣の屋敷前の意味かと思いきや、江戸時代の絵図のそこには「 佐々善兵衛 」。 岡本何某かの文字が見たいという期待からは外れた。





戦国期の資料から確認することは出来ないが『 仙台領古城書上 』によれば「 此城主 国分彦九郎盛重 小泉村より取移、天正年中迄居住 」、二ノ丸( 乙森城 )は「 国分盛重 家来 高平大学 」が治めたとしており、他様々な文献にも類似の表現が見られる。 国分盛重 は、伊達政宗 の祖父・晴宗 の 5男で 輝宗 の弟、つまり政宗には叔父に当たる。国分氏 には 初め代官として遣わされたが後に継ぐ(1577年)事となった。


城自体は 盛重 入城以前から、陣場 が発展した様な簡易なものが建っていたのだと思う。『 留守家文書 』の「 白石実綱書状 」には、天文の乱(1541・天文11) の 際に、稙宗方 の 国分宗政 が守る 松森城 に、高森城( 岩切城 )で陣を張る 晴宗方 の 留守景宗 が攻め入ったとある。 岩切城 と言えば同城のすぐ東にあり、観応の擾乱・東北版の 岩切合戦(1351・正平6)で落ちた城だが、 国分方はこの時もおそらくここ松森に陣を構えたと推察される。 高森 と 松森 はあまりにも近いゆえに本拠対本拠であることは考えにくい、国分氏 にとって 留守氏 が 高森山(岩切城)を本拠としている間には 松森は、「 留守領内 の 国分ゆかりの地 」ぐらいの認識だったのではないだろうか。 留守氏 が 岩切城 を捨て 利府 へ退くのは、元亀年間(1570~73年)だが、実際にはそれ以前から拠点は他へ移りつつあった、明けて 天正年間(1573~1592)に晴れて 松森城 が 竣工 となったのだろう。城の東端の造りが堅固でない事もそれを示している。


同城の 縄張 は 戦国末 の 伊達領内城の特徴的な構造であるらしい。 先述の、二折一空間を有する虎口及び外枡形に近い虎口受けの曲輪を有する形式 も同様。一部の研究でこれらは 1584年(天正12)以降に造営されたものに適用されていると言われる。




さて、松森城 が竣工してその後、様々を経て 盛重から 国分氏 の 名跡は取り上げられ 国分領 は 伊達氏 の 直轄下に置かれた。1590年の 奥州仕置とともに城は廃城となるが 松森 は、元 黒川領 の 境 を掌握する戦略的な拠点として、石母田左衛門景頼 や 粟野大膳宗国 などが 在番衆 や 駐屯・定番 に任じられる。 飯坂氏に入嗣し 下草城 ( 下草古城 )へ 入城する以前の 伊達宗清 が一時居住、いたく平和な江戸時代を迎え、やがて 城跡 は 伊達藩主 の正月行事「 御野初 」( 御野始、狩猟・軍事訓練 )の 陣場 として利用される程度となり、華やかだった 城下町 は 百姓町 へと変貌した。 現松森字本田町(仙台市泉区)辺りに 虎之間番士 の 矢野氏 が 「 在所 」として拝領出来たのは 領内の要所 であった 唯一の名残 なのかもしれない。




※ 市道・泉6023号線( 天神沢台谷地線 )/ローソン仙台松森店( 仙台市泉区市名坂砂押町2-1 )・泉市名坂簡易郵便局( 仙台市泉区市名坂本町13 )が面している道路。
※ 市道・泉6115号線( 内町線 )/市道・泉6023号線以北でほぼ平行した一条の道路、松森城への登城路とも交差する。




登城文献       『 仙台城古城書状 』、『安永風土記 』、『 伊達正統世次考 』他


解説設備        解説看板有り
整備状況        山林、一部公園化されるも放置傾向


発掘調査        2006年、仙台市教育委員会( 松森内町20-2・19-1、地主要請受領による )