アセンションへの道 PartII

2009年に書き始めた「アセンションへの道」の続編で、筆者のスピリチュアルな体験と読書の記録です。

第4章 聖書の解釈とエックハルト ④ 離脱

2017年02月07日 14時47分33秒 | 第4章 聖書の解釈とエックハルト
 前稿に続き、「神を愛する」とはどういうことなのか、更にまた、神を愛する「主体」とは「誰」なのか、良く考えてみたい。

 話は突然飛ぶが、筆者の中学時代、吉川英治氏の『三国志』を夢中になって読んだ。ご存知の方も多いと思うが、この小説は中国の後漢末期から三国時代にかけて活躍した劉備、諸葛孔明などを主役とした歴史小説である。漢の皇帝の血筋を引くと言われる劉備は、幾多の苦難を経ながらも、孔明の智謀や関羽、張飛、趙雲といった豪傑の活躍に支えられ、中国の西方を領土とする三国の一つ、蜀の皇帝になるが、中原を制する強大な魏や、南部に割拠する広大な呉と比べ、その国土、国力は比較にならぬほど小さく、いつも戦いにおいて劣勢を強いられる。そうした中で、時々軍師の孔明或いは他の将軍などが、「斎戒沐浴」して神に祈る場面が出てくる。中学生時代の語彙力では、この「斎戒沐浴」の意味が良く判らず、辞書も使わずに読み流していたが、沐浴ということばが出てくるので、多分体を清潔にすることなのだろう位に想像していた。その後長じて、神に祈る前に心身を清めることだと理解したが、念の為辞書に基づく定義を、ここに示しておく。即ち、「神仏に祈ったり神聖な仕事に従事したりする前に、飲食や行動を慎み、水を浴びて心身を清めること。「斎戒」は物忌みをすること。 神をまつるときなどに、心身を清め汚れを去ること。「 沐浴」は髪やからだを洗い清めること」ということである。

 多少くどいかも知れないが、もう少し噛み砕いて言うと、神仏に祈る際に、心身共に十分に浄化しておく必要があり、その手段として肉や魚を断ち、場合によっては食事自体もやめることがある。更に心の汚れを取り除くために行動を慎み、水などで体を洗い浄めることである。これは、前稿でも紹介した、ヨーガの修行者の「勧戒」の一つである「清浄」に相当するものである。

 ところが、エックハルトの祈り方「離脱」は、この「斎戒沐浴」より更に徹底している。『エックハルト説教集』(以下、同書)からその一端を伺わせる部分を引用してみる。
 
◇◇◇
 ・・・私が真剣に全力を傾けて捜し求めたのは、どれが最高にして最善の徳であるのか、すなわち、人を神に最もよく、最も近く結びつけ、恩寵により人を神の本来の姿と同じものにすることができるような徳とはどのようなものであるのか、神が被造物を創造する以前、人と神との間にいかなる区別もなかったとき、神の内にあるその自分自身の原像と最も近くなるためにはどんな徳によればよいのかを捜し求めたのである。私の知性が無し得る限り、認識し得る限り、あらゆる書物を徹底的に探究した結果、私がそこに見つけたのは、「純粋な離脱」はあらゆる徳を凌ぐということに他ならなかった。・・・
◇◇◇

 ここで、この「純粋な離脱」という言葉が何を意味しているのか、同書の編訳者、田島照久氏の解説に助けを求めたい。

◇◇◇
 「純粋な離脱」とは、「貧しさの説教」で説かれた「内なる貧しさ」が「何も意志せず(無所求)」、「何も知らず(無知)」、「何も持たず(無所有)」、さらにこのような無所求、無知、無所有であることの自覚からも自由であったように、自己の外に建てられたどんな獲得対象も持たず、更に「私は離脱した心の状態にある」という「離脱」の自覚からも「離脱」したあり方を語るものである。「一切の被造物及び自己自身から離れること」が「離脱」と名付けられ、「離脱」とはこの意味で「この世界と自己とに死すること」であるが、ただしここで注意を要することは、それが外的な「隠遁生活」を必ずしも意味するものではなく、むしろ、活動的で豊かな中世都市生活の只中に生きて、しかもそれらの豊かさに捉われず、不動にして神とひとつとなり、さらにはその神とひとつであるという自覚からも離脱した真に自由で主体的な人間の在り方を説いているものであるということである。またシャーマニズム的な「脱魂状態」、つまり「霊魂離脱」という意味はエックハルトの説く「離脱」とは無縁である。
◇◇◇

 これは、ヨーガで言うところの、ヴァイラーギャ(離欲、或いは無執着と通常訳されている)、或いは恐らく禅宗で良く説かれる「放下」に限りなく近い概念、状態ではないかと思う。

 更にエックハルトの所説を検討してみよう。

◇◇◇
 ・・・神はどんな心の内でも同じように働くというわけではない。神は、見つけた備えや受容性に応じて働くのである。心の内にあれとかこれといったようなものがある場合、このあれとかこれというものの内には、神が最高の状態で働くことができなくなるようなあるものが存在するのである。それゆえ心が最も高きものに対して備えを持とうとするならば、心は一つの純粋な「無」の上に立たなければならない。・・・離脱した心が最高の状態にあるとすれば、それは「無」の上にあるのでなくてはならない。・・・それゆえ、神は離脱した心の内では、最高の状態で、最も高き意志のままに働くことができるのである。こういうわけで、離脱した心の(向かう)対象とはあれでもなく、これでもないのである。
 ところで私は、離脱した心の祈りとはどのようなものなのかとさらに問おう。私はこれにこたえて次のように言いたいと思う。離脱した純粋性には祈りというものはあり得ないと。何故かと言えば、祈る人というのは、神に何かを与えて欲しいと願うか、何かを取り去ってほしいと願うかのいずれだけあるが、離脱した心は何一つとして望むこともなければ、自由になりたいと思うようなものも何一つとして持っていないからである。そのために離脱した心は一切の祈りから自由なのである。離脱した心の祈りとは、神と同じ姿でいること、そのこと以外何ものでもない。これこそ離脱した心の祈りの全貌である。
◇◇◇

 つまり、最高の祈りとは、何も求めず、何も願わず、ただ神と同じ状態にあることだと言う。これは、ヨーガで言うサマーディの最高の状態、ニルヴィカルパ・サマーディ即ち「無想三昧」を意味している。これこそ、エックハルトが、「ドイツ神秘主義の源泉」と呼ばれる所以であろう。

 次は、聖書に出てくる井戸端に水を汲みに来たサマリア人の女とイエスが交わすヨハネ伝第四章の有名なエピソードの一部を、『神の慰めの書』(相原信作訳)から引用する。

◇◇◇
・・・彼女は尋ねた、「主よ、わたくしらの先祖たちはこの山で礼拝をいたしましたが、あなた様方ユダヤの人たちは、礼拝の正当な場所はエルサレムの神殿であると申されます、主よ、この両方の人たちのどちらが最も真実に神様を礼拝しているのでしょうか。どちらが最上の場所なのでしょうか、どうぞわたくしに教えて下さいませ」主は答え給うた、「女のひとよ、本当の礼拝者がこの山においてでもなく、また神殿においてでもなく、霊において真理において御父を拝するときが来るでしょう、いや、もうすでに来ています、なぜというに、神は霊なのであるから、拝する者も霊と真理とにおいて拝しなければなりません、このような礼拝者をこそ御父は求めておいでになるのですから」
 これを聞いて女は神に満たされ、神の豊かさに満ち溢れ、大声で教えを述べ、伝え、叫び、誰をでも見つけしだい神に導こうとし、彼女自身が満たされしごとく神によって満たしめようとした。見よ、彼女がまさに彼女の「夫」を呼び来たったとき、彼女の上にこのような事が起こったのである。
◇◇◇

 このエピソードで最も大事なフレーズは、「神は霊なのであるから、拝する者も霊と真理において拝しなければなりません」という個所である。ここで、少しヒンドゥー教の聖典、バガヴァッド・ギーター(上村勝彦氏の訳)から、「霊」即ちアートマン或いはジ―ヴァ(通常「個我」とも訳される)に関する記述を少し引用したい。第15章7節からである。

◇◇◇
私自身(訳者註:クリシュナ、ここでは至高神)の一部分は、生命界において、生命(ジ―ヴァ:個我)として永遠に存続する。それはプラクリティ(根本原質)に依存する、思考器官(マナス)を第六のものとする諸感官(六根)を引き寄せる。主(個我)が身体を獲得し、また身体を離れる時、彼はそれら[の感官]を連れて行く。風が香をその拠り所から連れ去るように。彼は聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚、及び思考器官に依存して、諸々の対象を享受する。[身体を]離れ、またそこに留まり、諸要素を伴って[対象を]享受している彼(訳者註:ジ―ヴァ、個我を指す)を、迷えるものは認識しない。しかし知識の眼を備えた人は認識する。
◇◇◇

 つまり、「霊」或いは「個我」は、諸感官(思惟機能も含む)に覆われている。因みに、この諸感官は、上記の通り、死後も「生気体」或いは「エーテル体」として「霊」を覆っている。つまり、死後も人間が個性を存続させることになるのは、この生気体の諸感官(ここには、生前の記憶や好き嫌いなどの嗜好が保たれている)を伴って転生するからなのだ。そしてこの諸感官は「エゴ」とも密接に関係しているので、これが「霊」を厚く覆っている限り、「霊」、アートマンを認識することはできない。

 ここで再度、「霊と真理」において神を拝するという聖書の言葉に戻るが、これは、「霊」を覆っている諸感官や雑念或いは欲望から離れ、純粋に「霊」として神を拝するという意味であり、これこそエックハルトも主張している「離脱した状態」で神を拝することなのだ。つまり、これが最高の「神の拝し方」なのである。

 それでは本稿冒頭の、神を本当に愛する主体とは何なのかという問いに戻ろう。それは、「アートマン」即ち神の「分霊」なのである。つまり、「神」が神を愛するのである。

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