修行中

修行中です。
原文確認なしでの当記事の利用はご遠慮ください。

カナダの大虐殺(3)

2012-12-23 19:11:50 | Annett
The International Common Law Court: Genocide in Canada



訳 のつもり





では、私たちが提示することの概要を伝えはじめます。


第一提示訴訟事件一覧事件番号1
犯罪が起こった機関と施設内で犯された文書化された犯罪の概要です。

34の確認された犯罪がリストに記載されています。
それは、殺人、拷問、強姦、奴隷労働、日常的飢餓や暴力、伝染病にさらしての感染、断種、強制医学実験、児童売買、誘拐、司法妨害、証拠隠滅、絶滅させることを含んでいます。

(0:36:55 文書)
この犯罪は、カナダ各地の32の別個のインディアン寄宿学校の元被抑留者、計278証人によって検査されています。

この15施設はローマ・カトリック教会が、11はカナダ合同教会が、6は英国国教会が運営していました。さらに、実地証人は、11のインディアンあるいは一般病院の生存者も含みます。

1932年から1981年の間の記録です。正確に、この犯罪に対して責任がある代理人が次に証明されます。


提示番号2
英国君主が、枢密院令を通してつくり1920年7月1日に庶民院にあがったた連邦法で、1920年にインディアン寄宿学校体制を設立したことです。


提示番号3
寄宿学校をカナダ政府や校長が管理する種々の教会が運営していたことです。

(0:38:47 文書)
この文書は、1996年にケビン・アネットが発行し、寄宿学校の生存者の最初の訴訟で使われたものです。1998年にブリティッシュ・コロンビア最高裁判所はカナダ合同教会とカナダ政府の両方に連帯責任があると判決をだしました。強調させてください。寄宿学校でインディアンの子供たちが被った被害への連帯責任です。

それは、インディアン寄宿学校体制で犯した犯罪すべての法的・道義的責任です。教会とカナダ政府の両方、そして英国君主として知られる許可権限を持つ最高位機関にも、明らかに、間違いなく責任があるのです。


(0:39:49)
第一犯罪:殺害


では、続けます。殺人罪、過失致死罪の種類ではじまる言及された5つの犯罪に従って証拠を掲示します。

計画的殺人や間接的殺人、または、病気にさらしたり、世話を拒否したりして、寄宿学校やインディアン病院内での子供たち他の死を引き起こしました。

カナダのインディアン寄宿学校の死亡率は、膨大で、絶えず平均して40パーセントから60パーセントもありました。学校が正式にはじまったとき、少なくとも1891年から、インディアン開発省最高責任者ニール・パーカー(Neil Parker )が、ほぼ半分の寄宿学校の生徒たちが、その体制では生き残らないとコメントした1949年の間の死亡率です。


提示番号4、5、6
オンタリオ衛生保健委員会のドクター・ピーター・ブライスが報告した、1907年初期からとった1909年の西部の寄宿学校の死亡率の注釈付きの記録です。ドクター・ピーター・ブライスは、1907年と1909年に、すべての寄宿学校の視察のためにインディアン開発省により派遣されました。

(0:41:00 文書)
このインディアン学校での記録された死亡率は、ハイリバー・アルバータ学校で25パーセント、ピーガン・カソリック学校で40パーセント、ブラッド・英国教会学校で50パーセントの平均であるとわかります。すべてのアルバータの実業学校の死亡率の全体的な水準は、33パーセントでした。

この3人の子供たちに1人の死亡率はアウシュビッツの死の収容所の年間死亡率に匹敵します。

この莫大な死亡率は、1907年11月15日付けで、カナダで最大の新聞の1つ、オタワ・シチズン新聞の第1面の重大ニュース記事にドクター・ブライスの最初の報告が掲載されてすぐに公に知られるようになりました。


提示番号7
(0:42:05 文書)

この記事は次のように記載しています。

ある学校では、69パーセントが亡くなり、ほぼあらゆる場所でのほとんど耐え難い死の原因は結核でした。

健康なインディアンの子供たちを死亡させるために結核に意図的にさらした行為は、1920年に発行されたドクター・ピーター・ブライスの『国家犯罪(National Crime)』という本で詳しく述べられています。


提示番号8
(0:42:47 文書)

ブライスはアルバータのファイル・ヒルズ学校の75パーセントもの生徒が結核で亡くなったこと、子供たちが学校内のネズミに運ばれた病気に感染したことを主張します。

どうかこれだけは言わせてください。これは、教会と政府の契約上の義務に明らかに違反しています。契約書は、証拠の一部として後で提示します。


提示番号8です。

カナダのインディアン開発省の副責任者ダンカン・キャンベル・スコットが実はブライスの報告を発表せず、勧告をだすことを拒んだことも、ドクター・ピーター・ブライスは述べています。インディアン学校の平均50パーセントの死亡率の直接確認が警察の調書に提供されました。

1922年からカナダ連邦警察のR.W. クリアウォーター伍長がブリティッシュ・コロンビアとキタマト(Kitamaat)・インディアン保留地のインディアン学校ホームの懸案事項を報告しました。


提示番号9
クリアウォーター伍長は述べています。このホームがはじまって以来、49人が亡くなり、50人がまだ生きていました。
これが提示番号9です。
(0:44:13 文書)

実地証人が述べたように、インディアン寄宿学校の歴史を通して、非常に多くの死を引き起こす行為が続きました。


ビデオ提示番号10、11、12
1950年代にモホーク・英国教会学校機関に収監されたデル・ライリー(Del Riley)、1950年代の間のクーパー・アイランド教会学校(Kuper Island Catholic School)の被収容者デルマー・ジョニー(Delmar Johnny)、1960年代の聖ユージン学校(St. Eugene’s  School)のバージニア・バプティスト(Virginia Baptiste)、1960年代中期にセントメアリーカソリック学校(St. Mary’s Catholic School) に抑留されたウィリアム・コンブ(William combes)の陳述

彼らは皆、結核にかかっている子供たちと寝たり、遊んだりさせられました。


(デル・ライリー)
私の名前は、デル・ライリーです。
カナダ政府が寄宿学校とよぶ囚人作業キャンプで、5年間過ごしました。
姉(妹)と私は、ただ療養所に行きました。
母は療養所で亡くなりました。
私たちはここに来ました。


― あなたは、寄宿学校で結核にかかりましたか?


100パーセントそうだとは保証できませんが、はい、といわなければならないでしょう。

誰も検査はしていませんでしたが。

これは、こういった寄宿学校で、練習といわれていました。子供たちを病気にさせる学校内でのろ過システムでした。

確かに広まっていたと思います。

一人の子供が病気になれば、みんなが病気になるのです。


(デルマー・ジョニー)
私たちは結核にかかっていた人たちと同じ部屋にいました。別にされることはありませんでした。


(バージニア・バプティスト)
彼らは病気の子供たちと一緒に遊ばさせました。みんな一緒に遊ばせるので、簡単に病気になりました。病気になった子供たちで、病気でない子供たちと一緒に寝させられる子供たちもいました。


(ウィリアム・コンブ)
多くの子供たちが病気にさせられました。大部屋で病気の子供たちと一緒にさせられて。結核でした。私もそうやって置かれました。


提示番号14を提示します。
1920年、アルバータのサルシー英国教会インディアン学校の写真です。学校の教室で、明らかに、結核の痛みにさらされて、頭に包帯を巻いて健康な子供たちと並んで座っている子供たちが写っています。

(0:48:08 写真)


提示番号15、16、17、18は、50年にわたる文書や手紙からなります。

1919年11月、ブリティッシュ・コロンビア、ミッション地区のセントメアリーカソリック学校の医師が、地元のインディアンの間に天然痘が発生した責任を問われました。実際に、それは学校から家に病気の子供たちを送ったことが原因でした。

(0:48:40 文書)

5年後の1924年、バンクーバーのカソリック・スクアミシュ学校で解放された生徒の公認記録で、ミリエル・ピータースという少女が、学校に結核菌があることは許されていました、と述べています。


提示番号17です。

(0:49:09 文書)

13年後の1937年1月、ドクター・ピッツは、結核にかかっていて、カソリック学校への入学が認められたポール・ショーティというインディアンの少年が、他の子供たちへの感染源となった、と述べています。

少年は、結核感染が治癒することはなかった、と述べています。

(0:49:40 文書)

ついに、1952年に、キャムセル・インディアン病院で結核の治療を受けていたバーナード・ジョンソンが、ユーコンのカークロース(Carcross)・英国教会学校への入学が認められました。

(0:50:01 文書)

政府自身の統計データが確認しているように、概してインディアンの間の高い死亡率を占める致命的な伝染性疾患を特定の行動が広げでいます。


提示番号19

カナダの国勢調査記録記録によれば、1901年と1911年の間と、1930年代のもう一つの10年間、国中で、20パーセント以上の先住民人口が減少しています。

(0:50:39 文書)

現代の大虐殺行為から、追っていこうとしているのではなく、このような細菌戦でインディアン殺害の前例がインディアン寄宿学校の時代よりずっと以前に確立したことを加えさせていただきます。


提示番号20

この手紙は英国の将軍ジェフリー・アマースト(Jeffery Amherst)から、1763年7月16日の日付で、部下に命じています。

 根絶するために毛布を用いてインディアンに植菌しなさい。

天然痘を使ってノバスコシアのミクマク(Mi'kmaq)インディアンを殺害するためでした。

ほとんどの場合、細菌戦は、インディアン寄宿学校に高死亡率をもたらした主要手段でした。こういった施設での死は、徹底的な身体的な殺人を含め、多くの他の要因によってもたらされました。

寄宿学校での子供の殺害を述べた最初の実地証人は、ポール・アルバーニのカナダ合同教会の元被収容者、ハリエット・ナハニ(Harriett Nahanee)です。

1995年、ハリエットは、1946年のクリスマス・イブの、学校長アルフレッド・コールドウェル(Alfred Caldwell)牧師による14歳のメイジー・ショー(Maisie Shaw)の殺害について述べています。


提示番号21のビデオが明らかにします。


(ハリエット・ナハニ)
私は見ました。彼女は階段の上に立っていました。そして、彼が蹴りました。彼女は階段を転がり落ちていきました。彼女は下で止まりました。そして、彼女は横たわっていました。目を開いたままで。

(0:52:33 文書)

彼女は動きませんでした。彼女は泣きませんでした。

(0:52:37 文書)

私はそれを見ました。


さて、ハリエットの話は、1995年12月にバンクーバー・サン紙が、カナダ史の寄宿学校の子供の殺人の第一報として報道しました。


提示番号22

(0:53:02 文書)

2、3日後、もう一人の実地証人が二番目の子供アルバート・グレイ(Albert Gray)の殺害を報告するためにやって来ました。1938年に、ブリティッシュ・コロンビア、アホウサートのカナダ合同教会学校で、同じ学校長アルフレッド・コールドウェルによってされた殺害でした。


(0:53:28 文書)


提示番号23

12歳のアルバート・グレイは、瓶から一つのプルーンをとったために、殴り殺されました。実地証人アーチー・フランク(Archie Frank)が述べました。

コールドウェルが、この2つの殺人の裁判にかけられることは、決してありませんでした。それは、政府が犯罪を隠匿したためです。


さて、提示番号24は、驚くほどの疑わしい死亡記録です。

(0:54:00 文書)

メイジー・ショーが1946年に、コールドウェルに殺害されました。この死亡記録が、ただ1995年のブリティッシュ・コロンビアの人口動態統計記録に入れられるだけだったとは考えられるでしょうか。少女の死は最初の報道だったのにです。

メイジーは、1946年のクリスマス・イヴの死亡日の2日後に心不全で死亡した、と死亡記録が主張しているとは考えられるでしょうか。ブリティッシュ・コロンビア検視局によれば、なにもなかったのです。

(0:54:38 文書)

死亡記録に記載された、ポール・アルバーニのスティーブンズ葬儀場(the Stevens Funeral Home)にも、 ツェツァウト墓地(the Tseshaht cemetery)にも、メイジー・ショーの記録はありませんでした。

2008年7月に、イレーネ・フェイブル (Irene Favel)がCBCテレビで、1944年のサスカチュワン州マスコウェクヮン・カソリック寄宿学校でのカソリック司祭によるインディアンの新生児の炉での焼却を証言しました。


提示番号25

(イレーネ・フェイブル)
私は、イレーネ・フェイブルです。私は75歳です。1941年から1949年までマスコウェクヮンの寄宿学校に行っていました。私はつらい生活をしました。私は何をやるにしても虐待されました。

少女がいました。妊娠していました。赤ちゃんが生まれると、あの人たちは赤ちゃんを取り上げました。

すてきなピンクの服を着せて下につれて行きました。

私は修道女と、夕食をつくっていました。

あの人たちは赤ちゃんをつれてきました。火をおこして、炉の部屋につれて行きました。

あの人たちは小さな赤ちゃんをその中に投げ入れました。生きたまま焼きました。肉の焼ける匂いがしました。



さて、この子供たちの身体を焼却するという行為は、サスカチュワン州のカソリック・インディアン寄宿学校のみでされたことではなく、アルバータ州やブリティッシュコロンビア州でも同様にされていました。実地証人のローリー・インシャーとウィリアム・コンブが述べています。


提示番号25Aと25B

(ローリー・インシャー)
― 何がありましたか?

恐ろしいことです。
そこで、かなりたくさんの小さな頭蓋骨を探していました。何があったのか、どこからきたのか、

― どのように見つけたのかですか?

怖くて、とても怖くて、階段を駆け上がって、ドアの向こうへ、、



(ウィリアム・コンブ)
子供たちはなにか身体みたいなものを奪い取られて、白い衣類でくるまれて、炉の中に入れられました。



ビル・スワード(Bill seward)が、バン・クーバーで1998年6月に聴衆に、姉のマギー(Maggie)がクーパー・アイランドのカソリック学校で修道女に窓から付き出されてどのように亡くなったかを話しました。


提示番号26
(ビル・スワード)
名前はマギーでした。私より2歳年上でした。
修道女に窓からつき出されて、殺されました。
2階でした。マギーは死にました。
しかし、何もされませんでした。弁護士に会うこともなにも許されませんでした。
それは、ただ隠されました。



ポール・アルバーニのカナダ合同教会インディアン寄宿学校の生存者ハリー・ウィルソン(Harry Wilson)とデニス・タリオー(Dennis Tallio)が、どのようにアルバーニの学校の敷地内で子供たちの遺体を発見したか、を2005年に記者に話しました。


ビデオ提示番号27

(デニス・タリオー)
1965年に、裏のグランドで、子供の集団がサッカーをしてた。
茂みがあって、身体の上に葉や草の山があった。
子供の一人がボールをキックして、それを取りに行って、見つけたんだ。



(ハリー・ウィルソン)
1960年代にポート・アルバーニにいました。1967年に遺体をみつけました。16歳くらいの少女でした。私はJ・アンドリューにいいました。J・アンドリューは、ナナイモに行くようにいいました。それが隠すことだと思います。



シルベスター・グリーン(Sylvester Green)とダグ・ウィルスン(Doug Wilson)の2人は、エドモントンのカナダ合同教会のインディアン学校の元生徒です。他のインディアンの子供たちを埋葬するのを手伝い学校の埋葬の詳細に関わったことを述べます。


ビデオ提示番号28、29

(ダグ・ウィルスン)
私たちがそこで墓を掘ったのを覚えてます。それはチャールズ・キャムセル(Camsell)・インディアン病院からきた子供たちでした。子供たちがどのように亡くなったのかは知りません。ただ墓があったことだけを知っています。



(シルベスター・グリーン)
たくさんのエスキモーの赤ちゃんがいました。校長の家の後ろの方で、
私たち4人は墓を掘りました。私と私の兄と、メル・パッチー(Mel Patzie) と アルバート・カーディナル(Albert Cardinal)でした。



マニトバのポルタージュ・ラ・プレーリー・カソリックインディアン学校に拘置されていたリッキー・ラバリー(Ricky Lavallie)が、身の毛もよだつ拷問と、カトリック司祭の手でされた5歳の弟の殺人を述べます。


提示番号30

(リッキー・ラバリー)
私の弟は、牛追い棒のショックで亡くなりました。弟は5歳でした。鞭でやられたように頭の皮膚が切れてました。馬用の鞭のようなものです。それに小さな刃がついていて鋭いものです。私はそこで、弟が助けを呼んで叫んでいるの聞きました。すぐに、床は血でいっぱいになりました。病院にも行かせず何もしませんでした。私がそこにいたとき、何が起こっていたのか、、叫び声はまだ聞こえていました。『リック、たすけて、ぼくにいたくするよ、しんじゃうよ』そして、弟はすぐに亡くなりました。私のただ一人の兄弟。いつも愛していました。



訴訟事件一覧表の4番目の件で、次を詳しく検証します。 カナダ合同教会の雇用者、被雇用者とエドモントン寄宿学校のクニーツキー(Knizky)による、1958年4月の、ビクトリア・スチュアート(Victoria Stewart)9歳の殺人です。ビクトリアの姉妹が証言しました。


提示番号31

(1:01:48 文書)


ブラントフォードの英国教会インディアンスクールの生存者ローナ・マクノートン(Lorna McNaughton)が、彼女の兄弟が1943年、モホーク学校近くのカナダ兵によるモホークの子供たちの大量虐殺を目撃したことを述べます。


ビデオ提示番号32

(ローナ・マクノートン)
『少年たち全員にやったのね。』というと、弟はいいました。
『そうだよ、みんなだよ。みんなになにがあったの?』
私は、『わからないわ』といいました。弟がいいました。
『兵隊を呼んで、兵隊にやらさせたんだ。兵隊がみんなを立たせて、撃ったんだ。
穴の前に、みんなを並ばせて、撃ったんだ。
兵隊がみんなを埋めた。みんな、穴の中に落ちたんだ。
まだ生きている子もいた。
穴の中で、まだ生きてる子もいた。』
私はすべてを伝えたいと思います。思い浮かぶことを伝えたいです。
そのときは、弟の話が、本当かわかりませんでした。
でも、弟はその後、許しを請うようなことをしたり、
夜になると叫んだり、隠れたりするようになりました。
そして、弟はいいました。
『それが、みんなにされたことなんだよ。』



ブラントフォードの同じ寄宿学校で、私たちの事務所が、現地のモホーク族長老の招待で、2011年の10月に、学校で亡くなった子供たちの最初の独自発掘調査をはじめました。


ビデオ提示番号33

(1:04:04 調査)
靴の底があります。
これは人の骨だと思います。



この発掘では骨の破片を含む遺骨や、1950年代の学校の制服のものであると確認できるボタンを発見しました。


ビデオ提示番号33A

(1:04:51 調査)
ボタンです。
衣服のものでしょうが、ここは墓地ですから、興味深いことですね。
同じ形状のボタンです。
制服かなにかでしょう。
子供かもしれませんが、学校の制服でしょうね。



このボタンの意義は、ボタンがモホーク協会寄宿学校で1950年代に少女が着ていた制服のものであると、ローナ・マクノートンや他の元生徒により、完全に確認されたことです。
ボタンが学校の建物から50ヤード(46メートル)の木の根元で見つかったということは、マクノートンによると、子供が学校で亡くなったときはいつも、職員が遺体の上に木を植えたということです。


私たちの事務所は28の集団埋葬地を、カナダ各地の旧インディアン寄宿学校で、実地証人や地中探知レーダー調査に基づいて確認しています。この墓地のリストは2008年の4月、世界のメディアに初めて報道されました。


提示番号34は、このリストを含みます。

(1:05:54 文書)

寄宿学校での死亡報告は地元の医者が、継続的に隠しました。それは、年少の生徒のレジー・アレンの死に関して1948年の5月にアラート・ベイの英国教会セントジョージ病院のドクター・KR・ブランチャードが標準報告書でしたようにです。


提示番号35

レジー・アレンの頭蓋骨骨折を記述する欄に、骨折の理由の記述が何もされていないことがわかります。


(1:07:13 文書)

インディアン・エージェントも同様に、学校での不正行為や教会にとって恥になるかもしない出来事を積極的に隠匿しました。


提示番号36

(1:07:37 文書)


西海岸のインディアン・エージェント、P.B.アッシュブリッジ(P.B.Ashbridge)からの、1940年1月26日付のこの報告書はカナダ合同教会アホウサート(Ahousaht)寄宿学校の焼却を説明しています。

”この学校は教会の所有物であり、教会に運営されているので、注意することはあまりにも綿密に扱いすぎることになるので回避した。”


(1:08:12 文書)


不正行為や死を隠匿する国家の、この共謀行動も、政府教会支配者層最高位が、正規化した大虐殺をつくり出した態度により、表されていました。


提示番号37

例えば、インディアン開発省の副責任者ダンカン・キャンベル・スコットからの、1910年の手紙です。

”学校が運営されているとしても、私たちは多数の年少の生徒が結核にかかるだろうという事実を直視しなくてはなりません。この生徒たちの無差別の入学許可は、間違いなく高い死亡率を導くでしょう。”


(1:08:57 文書)

この受け入れの態度、病気の必然性、インディアンの間の死は、恐らく、学校での死者数が上昇していたちょうどその時、1919年のインディアン学校でのすべての医療検査の不可解な全廃に意味をあたえるのかも知れません。


提示番号38

(1:09:25 文書)

学校に加わる直前に生じた医師の指示を、あからさまに気付かないでいることが、1922年にカナダ法のもとで強制されるようになりました。そして、それは秘密の枢密院令を通して発生したものでした。この法は、政府が学校での病気や死を意図的に助長することを示唆しました。

これは、インディアン寄宿学校での保健医療に対してされた疑う余地のない二重基準のために、高死亡率が長年にわたって続いたということです。


提示番号39

学校医ドクター・ピッツが、1935年に、インディアンの子供たちのために一つ、白人のためにもう一つの、二つの治療基準を採用すると述べています。

”私が複数の健康基準を適用するなら、それは白人の子供たちの学校に適用します。私はインディアンの90パーセントを排出し、学校をなくさなければならないのです。”


(1:10:28 文書)


提示番号40や41のように、さらに、政府の公式方針は、結核にかかったインディアンを入院させることさえありませんでした。1938年の寄宿学校の医師からの手紙と、1953年の全国紙から、その方針が伝えられています。


(1:10:59 文書)


さて、この死に至る病に感染したインディアンを治療しないという、カナダの数十年間の国策が、インディアンを絶滅させる計画の一環でなければ、なぜあるのでしょうか。






post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。