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カナダの大虐殺(5)

2012-12-23 19:19:02 | Annett
The International Common Law Court: Genocide in Canada



訳 のつもり



第三犯罪:傷害、精神的損傷、感情的苦痛


被告が罪を犯している三番目の大量虐殺行為は、インディアンの子供たちへの傷害、精神的損傷、感情的苦痛を与える行為です。

全体としてインディアン寄宿学校体制は、絶え間なく暴力や危害を加える行為がありました。被抑留者たちに対して、無作為にではなく、組織的に行われました。

子供たちを家からもぎ取り、日常的に拷問、強姦、残虐行為、などの恐怖にさらし、子供たちの言語、家族、独自性を否定するために、寄宿学校体制は実際に設立されました。

被告の罪は、この全面的な事実にあります。 単なる個々の例ではありません。

私たちは既に、全体として寄宿学校体制が、絶え間なく健康に悪い状態にインディアンの子供たちを保つために開設されたことを言及しました。

死亡率が上昇していたその時に、学校のすべての連邦の健康診断を廃止することで、健康に悪い状態が保証されたのです。それは、1920年、連邦法が寄宿学校への強制的な入学を要求した時でした。

インディアン体制のさらなる証拠が、まさにその年に見つけられます。1920年6月8日、西部のインディアンの間で上昇している伝染病の極めて多い死亡率についての反対質問に応じている内務大臣アーサー・ミーエン(Arthur Meighen)がした、カナダの庶民院での声明です。

ミーエンは議会の記録で次のように述べています。

”保健省は、インディアンの健康に関する問題を引き受ける何の権限もありません。それは、保健省の設定行為に含まれないのです。それは意図的に保健省の活動から外れるのです。”

もう一度、このアーサー・ミーエンの発言を述べさせてください。

”それは意図的に保健省の活動から外れるのです。”


(1:22:00 文書)

さて、すべてのカナダ人の健康を管理する法律が、適切な健康管理を受けることを意図したものであるならば、なぜ、インディアンはその法律から意図的に外れているのでしょうか。

インディアンを除外するということは、その時に、幅広く取り込ませた病気がインディアンの間に流行したことを考えれば、インディアンを死に絶えさせようというはっきりした目的をあらわにします。

内務大臣が承認し、カナダ議会が公然と議論したこの政策が、カナダの全ての先住民の男性、女性、子供に狙いを定めた計画的な集団暴力を制定し、寄宿学校での暴力を合法化し促進しました。

全体として、この体制は全てのインディアンに対するひどい蛮行によく合ったので、学校での子供たちの身体、心、精神への暴行の個々の実例は最終的に、被告が有罪となる検査をされませんでした。

これは、被告がこの体制の事実を隠し、維持を助けているので、被告がとがめられるような個々の犯罪行為を犯す

必要はないということです。

それにもかかわらず、私たちの事務所は暴力の個々の行為の証拠を提示します。たとえば、1960年代のオンタリオ、フォート・アルバニー(Fort Albany)のカソリック聖アンナ寄宿学校で、子供たちを拷問にかけるための電気椅子の運用がありました。


提示番号52


(1:23:32 文書)

メアリー・アン・ナーコジー‐デイビス(Mary Anne Nakogee-Davis)とエドムンド・メタタウワビン(Edmund Metatawabin)の二人は、フォート・アルバニーの電気椅子の被害者です。8歳と6歳でした。

ハリー・ウィルスン(Harry Wilson)のようにカナダ合同教会アルバーニ( Alberni)寄宿学校の生存者達が学校の地下室で使用された類似の電気椅子について述べました。

ローナ・マクノートン(Lorna McNaughton)も、ブラッドフォード、モホーク協会の終わりに電気ショックを受けされられました。


ビデオ提示番号53

(ローナ・マクノートン)
私たちは電気ショックを受けました。2週間に1度、、たぶん、2週間に1度か、1か月に2回だったかもしれません。とにかく、頻繁にありました。



バージニア・バプティスト(Virginia Baptiste)が、ブリティッシュ・コロンビア、クランブルック(Cranbrook)のカソリック聖ユージン学校(St. Eugene’s  School)での、弟への電気ショックについて述べます。


提示番号54

(バージニア・バプティスト)
それは、弟の陰茎をだめにするために使われました。電気が弟の陰茎を殺し、弟は気絶しました。弟を笑っている人たちがいました。。弟がされていることを笑っていたのです。


6歳で、バンクーバー島のナナイモ(Nanaimo)インディアン病院で、同じような拷問をされたことを述べています。

提示番号55

頭に針を置かれ、電気をかけられました。そのとき、私の腕は椅子に固定されたので、私は動けませんでした。

私の頭は椅子の背につけられたので、私は動けませんでした。

どのくらいの時間だったかを言うことはできません。それは覚えていません。

電気ショックは、キックされたようだったのはわかっています。

食べ物に薬剤を入れられて、たくさんの悪いものを食べされました。

暗い部屋にいると、食べ物をもってきて、それを食べなければなりませんでした。



もう一つのかつての日常的拷問が、寄宿学校の子供たちへの鎮痛剤使用の否認でした。

アリア・ポイント(Alia point)によると、インディアン保留地でも学校でも同様に、政府の意図によって、歯は鎮痛剤なしで抜かれていました。 

提示番号56

(1:26:57 文書)

"私が18か19歳(1968-69)のときのことです。私は未来の夫のいる保留地チヘーリス(Chehalis)に引っ越してきたところでした。保留地では、インディアン開発省から来た歯医者が子供たちを見ていました。麻酔が使われなかったので、子供たちはひどい苦痛と戦っていました。私の未来の夫は『あの歯医者たちはインディアンに絶対に麻酔を使わない』"といいました。”


1997年10月中頃に、デニス(Deniss)が、アルバーニ(Alberni)寄宿学校で体験した同様の拷問について述べています。

提示番号57

(1:27:20 文書)


”1962年から1967年にアルバーニ(Alberni)寄宿学校の生徒だったデニス・タリオー(Dennis Tallio)の、1997年10月13日、ブリティッシュ・コロンビア、バンクーバーでの、ケビン・アネットへの声明

私は1967年から1962年の間、アルバーニ学校に行っていました。私は当時のことを決して忘れません。そこで、絶え間ない懲罰があったからです。

プリント(Plint)氏は、本当に悪い人でした。私たちの誰かがたばこを吸っているのを見つけると、プリント氏は、みんなの前で、たばこ1本を私たちに吸わせました。それで、私たちの息が詰まってたとしても、吸わせました。一度、プリント氏が、プリント氏の歯磨きのチューブをとった子供を捕まえたときは、その子供に4個か5個のチューブの歯磨き粉を食べさせました。

私たちは、学校で死体も見つけました。1965年の秋でした。私たちは学校の後ろの裏グランドでサッカーをしていました。雑草で覆いつくされているところでした。

ボールが雑草に中に蹴り込まれたので、私はその雑草の中に入っていき、遺体を見つけました。3フィート(0.9メートル)くらいでした。腐敗していて、骨がたくさんでていました。しばらくの間、そこにあったに違いありません。

私は学校に走っていきました。私たちは保留地の近くの家から、RCMP(連邦警察)を呼ばなければなりませんでした。警察は来て、遺体を運び去りました。

私は、それが女の子の身体で、7歳から9歳だったと聞きました。検視は、その子が、4、5人の男に性的暴行を受けていたと指摘したということを、警官は言いました。

その後で、RCMPが、私たちのところに来ると、私たちがグランドで発見したことについて何も言わないように、私たちに言いました。私は、これは変だと思いました。なぜ、私たちに黙っていることを求めたのでしょうか?

その前年、1964年に、ジョセフ(Joseph)という7歳の男の子もアルバーニ学校で亡くなりました。回転式タオルで首が絞まり窒息死しました。

それは事故のように見えました。しかし、不注意が関係したものでした。その回転式タオルは危険だったのです。そして誰も、それについて注意するように言いませんでした。ハリー・ウィルソン(Harry Wilson)も、この少年を知っています。

アンドリュース(Andrews)校長は、私をよく馬具ひもで打ちました。本当に太いひもでした。毎週末に打たれました。時計のように規則正しく、いつも土曜日でした。

私がしたことは、他の子供たちと散歩することと、アンドリュースから、この鞭打ちをされることでした。

私はまだ、別の大部屋からの叫び声が聞こえます。女の子が『それをしないで!』と怒鳴り、叫び、悲鳴を上げていました。

私は女の子を助けるために何もできませんでした。私ができたのは、そこで寝るだけでした。私は頭からあの叫び声を消すことができません。

歯医者が、私たちの歯の治療をするときに、絶対に鎮痛剤を使わなっかというのは真実です。歯に穴を開けるときでさえ、そのままでした。歯医者は絶えず、私の歯茎を激しく突き刺すことが好きでした。治療中に私が少しでも動くと、ひどく、ちくちくと刺しました。

学校の柔道の講師が、もう一人の性的虐待者でした。名前を思い出せませんが、絶えず、居室に子供を連れ込んでいました。

私はクリフォード・テート(Clifford Tate)の名前を覚えています。(A.E.コールドウェルに殺されたと主張された別の子供)しかし、クリフォード・テートは、だれも話そうとしない子供たちの一人でした。”

提示文から引用させてください。

”歯医者が、私たちの歯の治療をするときに、絶対に鎮痛剤を使わなっかというのは真実です。歯に穴を開けるときでさえ、そのままでした。歯医者は絶えず、私の歯茎を激しく突き刺すことが好きでした。治療中に私が少しでも動くと、ひどく、ちくちくと刺しました。”


さて、インディアンへの鎮痛剤使用の否認という同じ拷問は特別なものではありませんでした。実際に何十年も組織的に行われていました。
1924年の2つの文書がそれを示します。


提示番号58、58A

(1:28:12 文書)

これは、バンクーバーのカソリック・聖ポール。インディアン学校の歯医者の公式報告書です。1924年5月の日付で治療した2分類の子供たちを示しています。

抜歯や歯の詰め物のために局部麻酔を受けた子供たちと、受けなかった子供たちの2分類です。言い換えれば、子供たちへの拷問の、この公式な運用が、少なくとも40年間インディアン寄宿学校でされていたということです。


寄宿学校の子供たちへの適切な歯科治療のこの否認は、2000年4月にカナダのマスメディアに公式に報道されました。

提示番号59

(1:29:03 文書)

1940年代から50年代の間、連邦保健省は、カナダ各地の寄宿学校で子供たちへのビタミンと歯科治療を否認しました。

その研究はビタミンCと歯茎の衰えを示しました。この先住民の子供たちの健康の慢性的無視は、1946年1月、北ブリティッシュ・コロンビアの40部族のチーフから政府への正式な請願で申し立てられました。それは、レジャク(Lejac)・カソリック学校での内容を述べています。

病気の子供たちは決して元気な子供たちと別にされることはなく、子供たちは、寒い日も室内にいることを許されませんでした。

提示番号60

(1:29:45 文書)

この請願への政府からの返答は記録されいません。しかし、寄宿学校での状態が子供たちに継続的に害を与え、生命を脅かしていることを、先住民族の長老たちが主張してたことは継続的に確認されています。

1896年には、インディアン開発省の責任者は次のことを認識していました。

”別の学校へ入学する一見したところ健康のようである多くの子供たちが結核を患っている”


提示番号61

(1:30:27 文書)


W.J. チザム(W.J. Chisholm)の陳述は1905年9月のインディアン学校の検査官の様子を更に明らかにします。

”子供たちは寄宿制学校の居住期間に受け取ることがどれほどよかったとしても、健康のための費用すべてと、いくらかの生命を負担することになるでしょう。”

強調させてください。

”健康のための費用すべてと、いくらかの生命を負担する”


提示番号62

(1:31:16 文書)


W.J. チザムは、実際に寄宿学校の状態が子供たちの健康にどれほどの影響となっているかを述べているようです。

それでもやはり、こういった職員の警告は無視され、子供たちが面していた同様の不健康な状態は20世紀を通して続きました。


提示番号63

(1:31:47 文書)

1929年1月のカナダ合同教会アホウサート(Ahousaht)学校の校長からのこの手紙で、健康を脅かす学校の給水について述べ、機能を失ったトイレ設備について言及しています。

”近年、病気のために実に異常なほど多数の死者と退校者がでているということや、現時点で、学校で完全に健康な子供の割合が憂慮すべきほど低いということは不思議ではありません。”

約10年後、まさに同じ不健康な状態が、同じアホウサート(Ahousaht)寄宿学校で報告されます。1938年6月にインディアン・エージェントのP.D. アッシュブリッジ(Ashbridge)が次のように書きました。

"この建物は火災時の避難が非常に困難な建物で、健康に対する脅威であるとしか言いようがない。衛生設備は、ひどいものである。”


提示番号64

(1:32:53 文書)


では、カナダ合同教会は法的監督下のインディアンの子供たちに、なぜこの文書のようなことが許されたのでしょうか。なぜ健康状態を改善させられることはなかったのでしょうか。

提示番号36の1940年の手紙で次のように言及されています。

”注意することはあまりにも綿密に扱いすぎることになるので回避した。”


寄宿学校にかかわること、言い換えれば、殺意のある政府の行動、この場合は、カナダ合同教会の行動による容認行為について、このような申し合わせは、この体制のあらゆる階層が害を及ぼしたり放置したりする権限を与えられていて、そういったことについて責任を問われない場合に限ってのみ可能です。

教会や寄宿学校の職員は、インディアンの子供たちを直接または間接に殺して処罰を免れられることを知っていました。


1942年6月のブリティッシュ・コロンビア英国教会・聖ジョージ・インディアン学校の校長からのこの手紙に更なる証拠を見つけられます。

提示番号65

(1:33:59 文書)

C.F. ハイブズ(C.F. Hives)が、ある校長が実施したことを説明して、オタワのインディアン開発省事務所への手紙に鎖の手錠一式を同封しました。

”2人の女の子が逃げました。そして、その子供たちは共に鎖につながれ、校長の前へ追いたてられました。

ベッドに逃亡者を鎖でつなぐために囚人用の手枷が使われました。学校の遊び場にも足かせがあり、使われました。”


多くの生存者たちが規定の皮紐について述べています。すべての寄宿学校職員が、日常的に思い付きの内容を強制するために持ち歩いていたベルトを、規定の皮紐という言い方をしています。

エルマー・アザック(Elmer Azak)の文の中にそれらについてが含まれています。

提示番号66


エルマー・アザックは、 カナダ合同教会アルバーニ(Alberni)学校で1967年から69年の間に生き延びたチムシアン(Tsimshian)族です。


”私の人生がすべて、あの学校のせいで破壊されました。私たちは毎朝、むちで打たれました。私たちが何も悪いことをしていなくてもされました。

みんなが自動的にむちで打たれました。職員はみな、むちを持ち歩いていました。私はいつも怯えていました。子供たちは、いつも、そこからいなくなりました。

校長のジョン・アンドリュース(John Andrews)は、それについてすべて知っていました。でも、私は、私がアルバーニにいた3年の間にインディアン・エージェントを見たことはありませんでした。

政府は、ただ私たちを無視していました。政府は教会が私たちにひどいことをするのを望んでいました。

私は普通の性生活をすることができません。それは、私がそこで、何回も強姦されたからです。

私はそれが焼け落ちてしまえばいいと思います。”



さて、この恐怖の大きな割合を占めていたのは、日常のむち打ちだけではなく、組織的強姦も含まれていました。組織的強姦は平均的インディアン寄宿学校での標準的行為でした。

エドモントン学校の生存者シルベスター・グリーン(Sylvester Green)が思い起こしています。

ビデオ提示番号67

(シルベスター・グリーン)
私たちを一人ずつ連れていきました。ワセリンをもっていました。一人一人に、それをしました。3回です。覚えています。自分を満足させるために、、自分が楽しむために、、小さな子供たちで、、何歳だったか忘れました。6歳、、7歳、、8歳、、9歳だったか、、忘れました。しかし、私は覚えています。決して忘れません。ムーア氏を。


提示番号69

1937年2月の手紙で、バンクーバーの近くのカソリック・シーシェルト(Sechelt)学校の様子をインディアン・エージェントが述べています。

”結核で亡くなった少年は、亡くなる1ヵ月くらい前に、痛みがあったので抗議したにも関わらす、罰として校庭で片足跳びを続けること強いられました。

少年の父親は、少年が亡くなる前日に、少年が学校の窓のところで、呼ばれて、たたかれていたのを見た、と言われたそうです。”


(1:37:38 文書)


日課となっている強姦や拷問の背後には、インディアンの子供たちを怖がらせ、傷つけようという持続的な狙いがあり、子供たちの死という結果もよくあることでした。

元RCMP(カナダ連邦警察)の警官、ジョージ・ブラウン(George Brown)が、その友人の体験が、ブリティッシュ・コロンビアのカソリック・インディアン寄宿学校で、厳しく批判されていることを述べます。


提示番号68

(ジョージ・ブラウン)
少年は罰せられていた。その子供は背中にむちを打たれていた。300回は打たれていると少年はいった。少年の姉妹はもう疲れ果てていると少年は言った。その2週間後、少年は亡くなった。


精神的恐怖が絶えず、子供たちに対して使われました。

カソリック・クーパー・アイランド(Kuper Island)学校の生存者ベルビー・ブレバー(Belvy breber)が、子供たちに、吊るされた亡くなった兄弟の身体をどのよう見させ、怖がらせたかを述べます。


ビデオ提示番号70

(ベルビー・ブレバー)
リチャードがいいました。

『この地獄から出るのか待ちきれないよ。ここからでたら、全部はなすからね。』

そして、電話は切れました。クーパー・アイランドの電話はいつも聞かれていて、手紙のやりとりも検閲されていました。

それで、リチャードのことが気がかりでした。でも、あれほど酷いことになるとは思っていませんでした。

2日後、私たちは電話をもらいました。リチャードが首をつって自殺したということでした。

でも、私は絶対にリチャードがしたとは信じません。

子供たちは、まだリチャードが吊られたままの体育館を歩かされ、その子達にもそれが起こるかもしれないと言われたのです。



そのほんの数年後の1966年にバンクーバーの別のカソリック・インディアン学校でされた、同様の殺人です。

ビデオ提示番号71

”私が6歳だったとき、修道女に私の目の前で殺された小さな女の子を見ました。シスター・ピエール(Pierre)という修道女です。本名は、エセル・リン(Ethel Lynn).です。

殺された女の子はエレイン・ディック(Elaine Dick)、5歳でした。修道女は首の横を激しく蹴りました。恐ろしいポキッと折れる音が聞こえました。

女の子は床に倒れて動きませんでした。その子は、私たちの本当に目の前で死んだのです。それから修道女は私たちに女の子の身体をまたいで教室へ行くように言いました。それは1966年でした。

スティーブン・H(Steven H) 聖ポール・カソリック・デイ学校 北バンクーバー”



寄宿学校の暴力については、ブラッドフォードの英国国教会学校を生き抜いたチペワ族の先住民族リーダー、デル・ライリー(Del Riley)が、最もよくまとめています。

ビデオ提示番号72

(デル・ライリー)
多分、みんな6歳だったと思います。私がここで、性的虐待を受けたときです。私自身、何度もされました。何度もです。私たちみんながされました。打たれたり、投げ出されたり、、みんな、その場で、どうすることもできませんでした。子供たちはいつもひどく殴り倒され、拷問されました。

呼ばれたら行かなければなりませんでした。子供たちの一人を呼ぶのです。みんながそこで、ひどく打たれました。私たちは激しく打たれました。常軌を逸したことだと思います。

子供たちが、どうやって生きのびたのか、、私にはわかりません。みんなお腹が空いていました。生ごみを盗んだりしました。生の野菜を食べたりしました。週に一度、生ごみをあさって食べました。



カナダの寄宿学校の生存者278人の証言はなかったものと仮定して、この最初の部分をまとめさせてください。基礎となる部分や証拠をつくって、生存者のだれが、なんらかの体験もしていない暴力を受けた話など述べるでしょうか。

ここに、生存者の統計資料があります。生存者の100パーセントが強制的な監禁を経験をしていました。この証人の100パーセントが、強制的に髪の毛を剃られた経験がありました。同じ100パーセントが自身の言語を話す権利を奪われました。

同じ100パーセントが、適切な、或いは定期的な食べ物を許されませんでした。同じ100パーセントが適切な教育をされませんでした。

97パーセント、278人の内271人が何らかの形で打たれました。95パーセント以上、278人の証人の内265人が精神的拷問や脅迫を受けました。

90パーセント以上、278人の内253人が無償労働を強制的にさせられました。89パーセント、278人の内251人が寮で適切な暖房や衣料を許されませんでした。

67パーセント、278人の内183人が強姦や性的虐待を受けました。それは3分の2ということです。56パーセント、278人の内161人が、他を打ったり拷問したりすることを強制的に見せられたり、それに参加させられたりしました。

54パーセント、278人の内156人が何らかの方法で肉体的拷問を受けました。電気ショック、舌に針を刺す、麻酔なしでの抜歯、陰茎に針金を巻きつけるというようなことをされました。54パーセント、過半数ということです。

43パーセント、278人の内129人が不本意な薬剤試験や医学的実験に使われました。17パーセント、278人の内45人が、強制的な中絶や不本意な避妊手術をされました。

そして、278人の内33人、12パーセントが、収監されていた寄宿学校で亡くなったり殺されたりした他の子供たちの埋葬を、実際にさせられました。


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