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アライアスの大虐殺

2013-01-25 23:48:43 | War Battle Massacre
原文



訳 のつもり


The Marias Massacre アライアスの大虐殺


アライアスの大虐殺は、1870年1月23日、モンタナで起こった戦闘で、ほとんど知られていません。それは一方的な虐殺でした。歴史上、ほとんど注目されていない大虐殺ですが、約200人のピーガン(Piegan)・インディアンが殺されました。その大部分は女性と子供達でした。ある中隊長はこれを『アメリカ軍による最大のインディアン虐殺』と述べています。

この出来事に先立つ数年間、ブラックフット(Blackfoot)族・ブラッド(Blood)族・ピーガン(Piegan)族から成るブラックフット連合と白人移住者の間には敵対関係が続いていました。

小規模の戦闘が続く中で、1869年、オウル・チャイルド(Owl Child)という若い戦士が白人商人のマルコム・クラーク(Malcolm Clarke)から数頭の馬を盗みました。

その後、クラークはオウル・チャイルドを追跡して捕らえ、オウル・チャイルドのキャンプの前でオウル・チャイルドを投打しました。

恥をかかされたオウル・チャイルドは、ピーガン族のならず者の一団と復讐を企て、クラークを殺しました。


その殺人は市民を刺激し、フィリップ・シェリダン将軍(General Philip Sheridan)が騎兵隊一団を派遣することになりました。犯人グループを追跡して捕らえ罰するための騎兵隊はユージン・ベーカー少佐(Major Eugene Baker)が率いていました。

1870年1月23日、騎兵隊は、マウンテン・チーフ(Mountain Chief)が率いるピーガン族グループがアライアス川沿いでキャンプをしているという偵察情報を受けました。

夜明けとともに、200人の馬を降りたアメリカ軍騎馬兵が、アライアス川を見下ろす雪に覆われた断崖に沿って広がり、待ち伏せの態勢をとりました。

騎馬兵は、発砲命令を待っていました。キャンプにいたチーフが、安全通行権証紙を振り、ロッジから出て断崖に向かって歩いてきました。それは、あらかじめ警告のあったマウンテン・チーフではなかったのです。マウンテン・チーフはすでにその地域から去っていました。

それどころか、それは白人との友好的な関係を楽しんでいたピーガン族リーダー、ヘビー・ランナー(Heavy Runner)でした。

ジョー・キップ(Joe Kipp)という名の軍の偵察者が、これは間違ったキャンプだと叫びましたが、黙るよう脅されました。そして、もう一人の偵察者ジョー・コベル(Joe Cobell)が最初の発砲をして、ヘビー・ランナーを殺しました。そして大虐殺が起こりました。

その早朝の時間帯、インディアンキャンプは無防備でした。ほとんどの男性が猟に出かけていたのです。弾丸はテントを穴だらけにしました。煙る炉の中に崩れ落ちたり、寝ぼけたまま窒息死した犠牲者もいました。

大虐殺が終わったとき、173人が亡くなっていました。ほとんどが、女性と子供とお年寄りでした。140人が捕らえられ、後になって、馬も十分な食物も衣類も無しで解放されました。難民となった犠牲者たちはフォート・ベントン(Fort Benton)に向かって進みました。およそ90マイル(145 km)の道のりでした。多くが凍死しました。

一方、ユージン・ベーカー少佐(Major Eugene Baker)は、命令に従い、明確に指定された本当の標的を探すために部隊を率いて下流に向かいました。しかし、部隊がついたときにはもう、マウンテン・チーフとその一団は、近くのカナダの準州へ無事に逃れていました。

この大虐殺で亡くなった騎馬兵は、落馬して脚を骨折した1人だけでした。F中隊の指揮官、ガス・ドーン中尉(Lieutenant Gus Doane)は、『アメリカ軍による最大のインディアン虐殺』と、この大虐殺を述べています。

その後、アメリカ連邦議会と東部の報道機関で怒りに満ちた抗議の嵐が、短い期間ですが、ありました。

しかし、ウィリアム・シャーマン将軍(General William Sherman)はモンタナ・インディアンのBIA(インディアン事務局)の最高責任者アルフレッド・サリー将軍(General Alfred Sully)と、非常に不利な戦死者数を報告したピーガン・インディアン管理官ウィリアム・ピース中尉(Lieutenant William Pease)の抗議を黙らせることで公式の調査をかわしました。

シャーマンは一切の軍事的罪を否定し、死んだピーガン族のほとんどがマウンテン・チーフのキャンプにいた戦士だと主張する報道発表を行いました。

人々は、よく知られたアルコール依存症者だったベーカー少佐(Major Baker)を、大虐殺とマウンテン・チーフの戦士達の捕獲失敗で非難しました。しかし、その後の論争で、シェリダン将軍(General Sheridan)が、ベーカーの統率力への信頼を表明しました。とはいえ、シェリダンとシャーマンの発言の中で事件の公式捜査がされることは決してありませんでした。

この事件は、例えばベア川(Bear River)・サンドクリーク(Sand Creek)・ウォシタ川(Washita)の大虐殺のような、他の多くの事件と全く同じくらい重大な出来事でしたが、歴史はこの事件を見過ごしてきました。過去の本や雑誌ではこの出来事についてほとんど触れていないのです。

多くのピーガン族犠牲者たちが亡くなった場所には、事件の表示も記念碑も、なにもありません。






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