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最重要証人の死

2013-02-26 14:57:33 | Annett
原文



重要証人が2011年2月26日バンクーバーの病院で殺害されました。



原文



訳 のつもり




先住民の子供たちの拉致・誘拐で英国女王を告発した最重要証人がバンクーバー病院で突然死


バンクーバー、カナダ


拉致・誘拐の証人がバンクーバーのカトリック・セントポール病院で突然死しました。この先住民男性は、ブリティッシュコロンビア州カムループスのカトリック学校で1964年10月に起こった、英国女王とその夫による寄宿学校の子供たち10人の拉致・誘拐を証言しました。


ウィリアム・コンブ(William Combes)59歳は健康状態もよく、英国ロンドンで9月12日に開催する教会と国家の犯罪の国際法廷(ITCCS)の初公判で、重要参考人となる予定でした。


私が最後にウィリアムにあったのは、10日前でした。ヨーロッパでの講演旅行に発つ前夜でした。ウィリアムには何年も前からあっていましたが、そのときは、以前より健康そうに見えました。


ウィリアムのパートナー、メイによると、ウィリアムは安定した健康状態で、先週セントポール病院で新しい医師に担当されることになりました。それから、ウィリアムは『テスト』を病院のためにすることになりました。そして、ウィリアムの健康状態は即座に悪化し始め、昨日、ウィリアムは突然、亡くなりました。死因はまだ、明らかにされていません。


バンクーバー・検視局はウィリアムの死についてのコメントを拒否しています。


女王とフィリップ王子がカナダにいた1964年10月中旬、カムループスの寄宿学校を王族が訪問した際の、10人の子供たちの拉致・誘拐を証言した3人の先住民少年の唯一の生存者がウィリアムでした。


「女王たちは10人の子供を連れて行った、それから誰もその子たちにあうことはなかった」と、ウィリアムはいいました。私が以前もっていたバンクーバー・コープ(Vancouver Co-op Radio)のラジオ番組から、ウィリアムのこうした声明のいくつかを公開しました。そして以下が、2010年2月3日の署名目撃宣言です。



私は内セイリッシュ族( Interior Salish)のスピリットダンサーで、58歳です。カナダのバンクーバーに住んでいます。私はカムループスとミッション・インディアン寄宿学校の生存者です。両学校ともローマカトリック教会が運営していました。

私はそこで酷い拷問を受けました。特にブラザー・マーフィー(Brother Murphy)からされました。ブラザー・マーフィーは、少なくとも2人の子供を殺しました。

私はブラザー・マーフィーが3階のバルコニーから子供を投げだし、その女の子が亡くなったのを目撃しました。

私が逃げようとした後、カムループス学校の地下室で、ブラザー・マーフィーは私を拷問にかけ、私の骨を数本折りました。


私はブラザー・マーフィーともう一人の司祭が、ある夜、学校の果樹園で子供を葬っているのも見ました。


1964年10月、私は12歳でした。私はカムループス学校の収容者でした。英国女王とフィリップ王子が学校を訪問しました。私はおかしな感じがしたのを覚えています。というのも、女王たちだけが来たからです。派手な歓迎もなにもありませんでした。

それでも、私は女王たちだと分りました。学校長が私たちにそれが女王であると言いました。私たちは皆、女王が来る前日、数か月ぶりに、新しい服と、良い食べ物を与えられました。

女王が学校に着いた日、デッドマン川(Dead Man’s Creek)の近くの草地へ、女王とその夫と何人かの司祭がピクニックに行きました。子供のグループも一緒でした。私はそのグループに入っていました。

私は奇妙な感じがしたのを覚えています。というのも、私たちは皆、かがんで、白い編み上げブーツを履いた女王の足にキスしなければなりませんでした。


しばらくしてから、私は女王が学校から10人の子供たちと去るのを見ました。そして、その子たちは二度と戻ってきませんでした。

私たちがその子たちのことをそれ以上聞くことはありませんでした。年をとってからその子たちに出会うこともまったくありませんでした。子供たちは皆そこから集められて、消えてしまったのです。


消えてしまったグループには7人の男の子と3人の女の子がいました。6歳から14歳でした。皆、クラスでも頭のよい子供たちでした。

2人の男の子は兄弟で、ケネル(Quesnel)出身のメティス(ヨーロッパ人と北米先住民との混血児;その子孫)でした。姓はアーヌーズ(Arnuse) かアーノルド (Arnold)でした。

他の子供たちについては覚えていません。ただ、セシリア(Cecilia)のように呼ばれていた子と、エドワード(Edward)という子はいました。


私の友人のジョージ・アドルフ(George Adolph)も、起こったことを目撃しました。当時11歳で、同じ学校の生徒でした。ですが、ジョージはもう亡くなってしまいました。




私はウィリアム・コンブは不正行為のために亡くなったと信じています。

コンブの謀殺は、カトリック・インディアン・寄宿学校での子供誘拐・拉致や、他の殺人や拷問といった犯罪を目撃したというコンブの発言を止めさせようとした者たちが仕組んだと私は信じています。


私は私の友達であり、戦友である、ウィリアム・アーノルド・コンブ(William Arnold Combes)を追悼するために書いています。

最前線にいた先住民活動家ジョニー・ビンゴ・ドーソン(Johnny Bingo Dawson)は、2009年、バンクーバー警察に殺されました。

この殺人と同様に、ウィリアムのことは決して忘れないでしょう。そして、ウィリアムを殺した者たちは、非常に多くの子供たちに死をもたらしたシステムと同様に、正しい法の裁きを受けるでしょう。


ウィリアムの殺人は成功していません。1964年の誘拐・拉致の証言を含め、録画したウィリアムの発言は ITCCSの記録保管所に記録されています。これは2011年9月12日の初公判で公開されます。


ウィリアム・コンブとジョニー・ドーソン両者を法廷の死後名誉長老に任命し、ITCCS幹部に提案します。


ウィリアムの名前と思い出のもとに、そして、すべての子供たちのために。


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