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カナダの大虐殺(2)

2012-12-23 19:06:05 | Annett
The International Common Law Court: Genocide in Canada



訳 のつもり




21012年11月5日

No.0915.12.001:カナダの大虐殺

論点整理の要旨


始めます。

訴訟事件一覧表の最初の件は、非常に重要な内容のものです。この裁判で、市民陪審員は教会と国家による大虐殺の根本的問題に対する告発と、そんな犯罪がされていたとは今まで知らなかった、と国が言うことを聞きます。つまり、カナダという国が、ということです。

この件はそのように、証拠書類、実地証人の陳述や他の証拠を通して、人々の土地や資源を強奪するために、宗教や教育を口実に非キリスト教の人々を全滅するため、政府、教会、企業が関わった、全カナダでの、周到な歴史的犯罪計画の存在を明らかにします。

つまり、この件は、キリスト教の三大宗派、ローマカトリック、英国国教会、カナダ長老派メソジスト教徒合同教会に実行され、1890年にはすでに教会と国家の最高権力が関わっていた、自国によるカナダ人大虐殺に関連しています。

今日まで、カナダのどの裁判所でも、この大虐殺の証言が正しく取り扱われることはあり得ませんでした。市民による普通法裁判所の設立で、強制力を及ぼすようになるまで、このような件を認める裁判所はありませんでした。

2000年の春には、アルバータとノバスコシアの裁判所が、管轄が不明瞭であり、犯罪行為について君主や教会に対する訴訟を認めることもない、と裁定しました。

その2年前、1998年の秋に、ブリテッシュ・コロンビア最高裁判所が、カナダに存在したインディアン寄宿学校を通して、先住民の子供たちを集団で拘禁し文化的に根絶する連邦計画を堅く擁護したことを考慮すれば、こういった決定は、平凡で容易に理解できることでした。

1910年には、カナダの裁判所が、寄宿学校を運営していた教会だけでなく、個人をも、いわゆる『学校』での子供の死について、カナダで、裁判にかけることはありませんでした。少なくとも5万人の子供たちがこういった施設で亡くなったという文書化された事実があったにもかかわらず、カナダ政府とローマカトリック、英国教会、カナダ合同教会の法的保護のもとでは、驚くべきことが事実だったのです。

この証拠があるにもかかわらずに、1998年、そのような法的な判決が出されました。2006年と2007年の間に、これらの教会と政府は、子供達の死と寄宿学校の犯罪に対する法的責任を免除するよう取り決めました。合意と免責を成立させることで、そのようにしたのです。

教会のそのような状態の下で、学校の管理者が刑事訴追を受けることなどありませんでした。こういった教会などの機関が、寄宿学校に徹底的に苦痛を負わせました。

代わりに、彼らは寄宿学校の擦り傷程度の面を公に開示し、注意されるべき問題が公開されることは決してありませんでした。

さらに、司法の独立性を侵害し、カナダ政府はこういった犯罪や生存者への賠償のための経済的負担などをふくむ全面的な法的責任を、教会と国家の両方の連帯責任に関する事件としようとする判決を、感情的になって破棄してきました。

私たちが主張するこれらの事実は単純な過失ではなく、莫大で周到な誤審であり、こういった犯罪に関する教会の主要な責任の意図的な隠匿でもあります。こういったことはカナダの司法と政治的後援者によってされています。

従って、こういった出来事も、カナダ政府がカナダ国民をだますに等しいものです。2番目の件の証拠の大半が、この詐欺行為の詳細となります。この件の法廷では、真実和解委員会と呼ばれる、自称、制限された法的に無資格な機関というやり方で、インディアン寄宿学校での犯罪を隠し、最小限度に抑えようとするカナダ政府や教会の奮闘と取り組みます。


訴訟事件一覧表の最初の件は、教会と政府が実に懸命に覆い隠そうとしている犯罪の事実と詳細に焦点を合わせます。

実際に、この最初の件は、カナダで実行された大虐殺の隠された真実が、西海岸カナダ合同教会聖職者ケビン・アネットの解雇や暴露問題についての事件の結果として、1995年に公然と明るみに出るようになったことを認めるものです。ケビン・アネットは、自身がいた教会にあったアルバーニ寄宿学校での先住民の子供の殺人の最初の証拠を公に暴露しました。また、教会による土地の盗用を明らかにしました。この問題の両方が私たちの件を顕著に象徴します。

はじめましょう。

私たちが立証する犯罪は、想像や、道徳的、合理的な説明、特に子供たちにするべきことに反するものです。この裁判は、例外的にも無作為にも単独の個人が、取り組むことはなく、組織的かつ法的に、国家の有能な職員、教会、警察、司法、1世紀以上続くカナダ社会のあらゆる階層が、全面的な制裁、英国の法的機関の監視で、取り組みます。

こういった犯罪は、国際法の下の大虐殺のすべての具体的な定義と国連の従来型の大虐殺で挙げられている大虐殺の5つのすべての定義にあてはまります。これに、カナダは1952年に批准し、2000年にカナダ法の下での法的権限を与えました。

この事実は明らかに、カナダの裁判所が拒否したとしても、これらの犯罪についてカナダとこの教会を法の下で起訴することを許します。

ここに私たちの検察官事務所の論拠があります。裁判の訴訟事件一覧表の最初の件で指名した被告は、カナダのインディアン寄宿学校と病院で被収容者になされた、次に続く5つの意図的な行為に関して罪を犯しています。

1.
標的ににしたグループの個人を直接、或いは間接的に殺害

2.
標的ににしたグループの出産と受胎の防止

3.
グループや個人に、肉体的、感情的、精神的に危害を加える

4.
伝統的な土地資源やアイデンティティーの剥奪を含んだ、グループが長期にわたって破壊する状態を創りだす

5.
あるグループのメンバーを、別のグループへ動かせ、病気や飢餓が続く不健康な状態に閉じ込める

加えて、被告とその組織が、非キリスト部族を根絶し、後世にこの陰謀を隠匿するための歴史的計画の一環として、標的にした先住民部族の土地と資源を手に入れるために共同謀議を行っていることに関して罪を犯していることを私たちは主張します。

この状態とインディアン寄宿学校での少なくとも5万人の子供の重大な死を引き起こした法律はカナダ連邦法により1920年に制定されました。

しかし、この立法行為は、結局のところ、秘密の枢密院令ではじめられたカナダ議会で承認されました。その決定過程は、ほんの一握りの公務員によってされたことです。そしてこれが、英国君主の指揮権と議会をあらわします。

この法律は、7歳以上のすべてのインディアンの子供は、インディアン実業学校とよばれる、一見正常に見える捕虜収容所に強制的に収監されること、そうしなければ、親が刑務所に入ることを定めていました。

実際には、3歳や4歳の子供たちを、日常的に、聖職者やカナダ連邦警察の警察官が、両親から盗み、こういった学校というキャンプに投獄しました。20世紀の大半にわたって、子供たちの半分は絶えることなく、亡くなっていきました。

子供たちがその拘禁から逃げようとすれば、ただちにカナダの法の下の青少年犯罪者という烙印を押され、刑務所に入れられ、罰せられました。

カナダ市民はだれもが、逃げた先住民の子供たちを追跡し捕まえる権利のある人間になることができ、そして、インディアン法の条件の下で、寄宿学校へ逃げた子供たちを戻すために必要であれば、どのような執行力でも持つことができました。

これは、逃げた子供たち隠したり投獄に抵抗したりしたインディアンを残忍に扱い殺すことさえできる事実上の認可でした。

逃げた子供がどんなに幼くても、寄宿学校に戻され、日常的に、規則として定められたむち打ち、強姦を受け、何日間も幽閉され、拷問にかけられ、食べ物を絶たれました。これらすべてが度々子供たちの死の原因となりました。

被告が主張したように、それぞれの職員たちが単独で偶発的に行った行動ではなく、政府が発した共通政策に従って、こういった懲罰が日常的にされたことは気に留めるべき重要な点です。

学校と呼ばれたこういった刑務所の目的は、教育することではなく、過半数の先住民の子供たちを根絶し、生き残った子供たちを回復させて奴隷にし、残忍に扱い、先住民の家族構造を破壊し、その過程でインディアンの土地と資源を奪い取ることでした。

1891年から1941年を含む少なくとも60年間の、カナダ全域の学校での40パーセントから60パーセントという変ることなく確認された死亡率が、国家的な大虐殺の目的の証拠です。

この目的のさらなる証拠が、いわゆる寄宿学校のカリキュラムの中に見られます。カリキュラムは読み書きの基礎以上に、圧倒的に宗教的洗脳で構成され、また、インディアンが高等教育に進む気にならないようにすることに力を入れていました。

いわゆる学校は、実際には、幼い年齢で精神的に従属するように設定された莫大なごまかしの管理体制でした。それは、先住社会の長期間にわたる破壊の大きな要因となる体制でした。

多くの元生徒によれば、学校の子供たちは、実際の学校教育よりはるかに長い時間、田畑や作業場で、あるいは家事使用人として、無報酬労働をすることを強制されました。

ブリテッシュ・コロンビアの伝道でカナダ合同教会の聖職者ジョージ・ダービーのようなやり方では、ジョージ・ダービーの監督下で、5歳という幼い生徒にさえ無報酬農作業をさせていました。

このインディアンの教育を構成する二重基準は寄宿学校の生活すべての領域に明白に及びました。

ドクター・エドワード・ピッツのような学校医からの証拠や手紙が示すように、こういった施設では保健と医療の2つの独立した基準が存在していました。ドクター・エドワード・ピッツは、強制的にインディアンの子供たちに異なる基準の医療を施し、それから白人の子供たちに治療したことを1934年に表明しました。

言い換えれば、人々がインディアンたちと同じ基準の医療を施されることを望むなら、ピッツはすべてのインディアン学校を即刻閉鎖するよう勧めざるを得なかったでしょう。

導き出された声明によれば、このような医療の体系的二重基準は、長い期間をかけて人々の集団を絶滅させる総合計画の最も強い指針の一つです。

ドクター・ピッツや上級公務員の発言が、カナダのインディアン寄宿学校では、政府や教会指導者が、莫大な数のインディアンの子供たちが次々に亡くなっていくことを標準のことであり受け入れることができることとして認識し扱ったことを暴露します。

寄宿学校での大量虐殺の死亡率を正当化して認めるというこの姿勢は、すべての事柄に対して責任がある政府高官が、実に明確に表明したものです。

ダンカン・キャンベル・スコット(Duncan Campbell Scott)が1909年に、このように残しました。過度に働かさせたために、実際に結核で膨大な数のインディアンの子供たちが亡くなったことを、私たちは受け入れなければならない。

これは、できることではありません。

連邦基準と比較すると、この大虐殺の目的とされた通常では無い高い死亡率は、秘密の枢密院令が同時期に設立したインディアン学校がもたらしたことは、広い範囲で明らかです。

1909年には、オンタリオの医者ピーター・ブライス(Peter Bryce)のような政府の医務官が過半数の子供たちを文書で記録しました。ブライスの文書から引用すると、教会が運営する寄宿学校で、教会職員が意図的に取り込んだ天然痘 や結核を含む病気で、日常的に、子供たちが死んでいきました。

この情報にも関わらず、翌年、1910年11月、オタワで、政府の予算庁とインディアン局と、ローマカトリック、英国教会、長老派メソジスト教会(後のカナダ合同教会)が、契約を承認し、政府は教会が完全に寄宿学校を支配することを認めました。

同様に、疾病や飢餓で、学校での死亡率が上昇しているときに、教会からの圧力の下で政府は実際に、学校の健康診断を廃止しました。それは、1919年の春のことで、1920年に学校への法的な強制参加がはじまる直前でした。

慢性的に病気がまん延する施設や病気に感染した子供たちの健康診断を、また、秘密の枢密院令が廃止した時、説明は一切ありませんでした。

その後の数十年間、極めて高い死亡率がインディアンの子供たちの間に続き、それを、新しい法律が積極的に隠したのです。

その新しい法律はインディアンが弁護士を雇う権利も、カナダの裁判所で訴訟を起こす権利も認めていませんでした。1929年、聖職者が学校長となり、寄宿学校の子供たちの法的後見人の責任が、実際に、譲渡されました。

1928年から1933年の同時期に、生き残っていた同化されたインディアンの多くが集まっていたブリティッシュ・コロンビアとアルバータで、議会が断種法を可決しました。何千もの先住民の子供たちと女性たちは依然として不妊のままです。

先住民の言語を話すこと、キリスト教徒の礼拝に出席すること、学校で著しく優秀な成績をとること、あるいは、単に不作法な振る舞いをすることへの、攻撃のような法律のように、標的にした集団を故意に断種させるよう実際に意図した法律は、意図的な大虐殺を政府が犯しているという証拠です。

断種法の成立を執拗に求め、専用の教会病院でインディアンを断種させるためにその法律を利用したカナダの教会の行動は、このような基準尺度を明らかに作った、その目的において罪に問われます。

1920年代後半までには、断種診療所はカナダの西海岸に集中し、R.W. 大病院の医者ジョージ・ダービーのようなカナダ合同教会伝道者が大部分を運営していました。

実地証人によれば、ダービーは、卵管結紮強制手術、 精管切除術、X線で性器異常を引き起こすための長期被ばく、のような方法を使用して、多数の先住民家族を断種させました。カナダ北部地域では、教会医師が、同様の断種診療所で、先住民の人々に同様の手術を行いました。

実地証人は説明しましす。

1970年代の間、カナダの断種法の取り消しがあったにもかかわらず、まだ、いわゆる公衆衛生ワクチン接種や注射を利用するなどして、政府の医療従事者や福祉機関が、先住民の女性たちを生殖不能にすることが、よく起こっていました。

カナダで継続しているこのような大量虐殺行為の執行が合法ということになってしまいます。そのような立法権を保証しているのが、カナダのインディアン法であるということは理解する必要があることです。

インディアン法は、人権についての国連条約の下で不法とされた人種の特異性が、いまだに効力を持つ連邦法です。

このインディアン法は先住民を、永遠に永久に国家の法的な言葉でいう、”非市民” として、国費で賄われている保留地に閉じ込めておく人々と規定したものです。

男女をこのような法的に奴隷の地位に引き下げるということは、明らかに国際法に違反しており、大虐殺が続いていることを意味します。

全カナダでの民族浄化を確実にもたらすための、この大規模な中枢機構を考えれば、寄宿学校で、職員や聖職者が、子供たちを日常的に強姦、拷問、殺害し、何の罰も受けないで済んでいたということは、そんなに驚くことではありません。

例えば、ブリティッシュ・コロンビアの同様の学校のカトリック教会の司祭が、1922年に彼ら自身の手書きで記した書簡で、彼らがどのように定期的に、子供たちを学校から、子供たちの村へ、徹底的に破壊された結果として発送したかを説明しています。

総合的な優生学計画に加えて、カナダのインディアン寄宿学校は、教会のもうけになる子供労働事業としても存在していました。莫大な利益を得る教会は学校を設立し、運営し、閉鎖には抵抗しました。

こういった事業は、5歳の幼い子供たちに、1日に12時間以上、無報酬での労働を強制しました。

寄宿学校の校長は、地元の子供の使用者から、子供の使用料として、多めの報酬を受け取ることがよくありました。

同様に、同じ子供奴隷が、インディアン寄宿学校の主要労働力でした。建設を助け、建物を修理し、牛の乳を絞り、学校の作物のために農作業をし、職員のために洗濯をしました。子供たちは日常的に、このような労働で傷つき亡くなり、その死が報告されました。

支配下にある子供たち一人ずつに対して出される利益の多い連邦補助金の受け取りに加えて、英国君主はカトリックやプロテスタントの教会に、寄宿学校が建っている場所の広範囲の土地、豊かな森林、鉱物、海洋資源をも許していました。

通常、その同じ教会がその土地を売って莫大な利益を得ました。こういったヨーロッパの教会の先住民の土地の窃盗を、先住民部族は決して容認してはいませんが、教会は土地を売った金銭をまったく先住民族に戻すことなく、利益を得ていました。

起訴の具体的内容にはいります。被告の教会は、先住民の土地と資源から利益を得て盗みました。私たちの事務所がそれについて詳しく触れます。その確実な証拠は、カナダの教会による大虐殺の重要な側面です。土地資源の窃盗は著しく、カナダの生活の基盤となっており、それは、今日に至るまで続いています。

特に、伝道活動のために、アホーザット(Ahousaht) 族から、盗んだ土地で利益を得ているカナダ合同教会の件について調べます。この件は、
1994年に、アホーザット族の長老、チーフ・アール・マックィナ・ジョージ(Chief Earl Maquinna George)とカナダ合同教会聖職者、ケビン・アネットが、その生活している海岸を白日の下にさらしました。

こういった教会と初期の伝道活動が協力し、先住民の土地や資源を盗み利益を得るために、民間会社との連携を続けていることは、今や明白です。

実際に、インディアン寄宿学校の基本目的は、特にカナダ西海岸で、よく発達した森林地や漁場のような、学校のある地域の豊かな資源を分断し、土地を取引しやすくすることでした。

特許状をカナダ西部でとった最初の会社、ハドソン湾会社が、1820年までインディアン特別保護区で、初期のプロテスタントとカトリックの伝道を支援し、支払いをしていました。

英国君主は、聖職者保留地制度として、キリスト教伝道活動がすべての先住民の土地を先に入手することができるとしました。

私たちの事務所は、ヨーロッパの会社が求めたインディアン部族の土地の占有で、こういった伝道活動が、どのように積極的な役割を果たしたかということの具体的証拠を発表します。

英国の伝道活動の教会の例では、シープシャンクス(Sheepshanks)が1864年に、ブリティッシュコロンビア州内陸部のチルコーティン・インディアンのほどんどに天然痘を感染させました。この病気の意図的感染のためにチルコーティン族の90パーセント以上が亡くなりました。

ハドソン湾会社の子会社、ピュジェット湾会社の強い要請により、英国国教会の直接命令で、この殺意のある行動をシープシャンクスが実施しました。シープシャンクスは英国教会の司教で、植民地の政府職員はすべてその会社の株主でした。

この男たちは、チルコーティンの領地を、違法に、先買権によって取得しています。シープシャンクスの殺意のある接種によって、すぐに、現在のブリティッシュ・コロンビアの周辺の土地すべてを獲得するに至ったのです。

シープシャンクスは、その後、英国君主から、このような行為によって貴族院の議席とノーリッチ司教という報奨を得ました。

大虐殺での教会、政府、企業の共謀のこのパターンは、永続的なカナダ社会の特徴です。

ウラン、水、採掘、材木会社が、先住民社会の徹底的な破壊を続け、先住民の領地を奪取する教会との金融協定を通して、その土地を利用するのです。

この体制的犯罪が私たちの検事事務所の働きの極めて重要な側面を強調します。つまり、私たちの事務所は、個別の状況や、犯罪の加害者に重点を置くというやり方を問題となる個々の項目に対して避けます。それによって、個々の問題の背後にいる、犯罪に関わる機関や最高位の職員という、より大きなパターンを見逃すことを避けます。

裁判所は常に、見せかけのインディアン寄宿学校と私たちが実証する犯罪の背後にある広範な目的と、その目的が今日、カナダでどのように続いているかを、最大限の法的・道義的制裁について、よく考えなければなりません。

はじめから、インディアン寄宿学校の中では秘密主義の階層的な権力構造が、この全体にわたる大量虐殺の目的と、そこで犯された犯罪の性格と程度を隠すために作られていました。

学校を共同で設立した連邦政府と、学校の管理などをした政府の職員の一端である個別の教会との、直接的な支配力の下で、こういった犯罪は犯されたのです。

1929年に、入学願書用紙として知られる文書が出されました。その連邦法のおかげで、各裁判での唯一の法定後見人となった第一の聖職者、独身男性の日常の規則の下で、寄宿学校は機能することになりました。

寄宿学校で校長は、1962年にはまだ書かれていなかった規則や規定で、すべての子供たちと被雇用者に対する絶対的な権限がありました。

校長は、許可なく記者や部外者に話したり、校長の決定に異議を唱えたり、校長の命令を遂行することを拒絶したりした被雇用者を、すぐその場で解雇することができました。

職員によるものも生徒たちによるものも個人的な手紙はすべて、校長が検閲しました。地元警察は、インディアン寄宿学校を調査したり、捜査したりする権限を持ちませんでした。子供たちのけがや死でさえ、その権限の状況を変えるものではありませんでした。

明らかに、この圧制的な軍事システムはカナダの法律を無視して動いています。このシステムは、効率的に子供たちを閉じ込めるだけでなく、情報を制御し、犯罪活動を隠匿し、特に教会は学校を秘密施設として運営することを目的としており、法そのものとなっていました。

医者ピーター・ブライス(Peter Bryce)自身が提示したように、明らかに、教会は多くを隠していました。1909年10月の報告で、ブライスは、どのように、莫大な死亡率を隠すために職員が偽造した学校記録でインディアンの子供たちの死が規則的に隠匿されていたかを文書で記録しました。

ドクター・ブライスの文書からの引用です。
子供たちの死は規則的に隠匿され、この膨大な死亡率を隠すために職員が学校記録を偽造した。

当時、この施設の状況は政府がよく知らないものではありませんでした。こういった事実は、1891年に、連邦保健衛生官ドクター・ジョージ・オートン( George Orton)の報告書で、ピーター・ブライスの報告より20年も前、学校の開設から2、3年のときにすでに正式に報告されていたのです。

ドクター・ピーター・ブライスが数年後に報告したように、学校のインディアンの子供たちの間で流行っている結核で、学生の50パーセントもの極めて多い死者が出ていることと、その死を職員が前向きに容認していることを、ドクター・ジョージ・オートンは政府へ報告していました。

それは非常に重要であり、インディアンの子供たちの間に、徐々に発症したのではなく、インディアン寄宿学校体制の設立当初から、このように莫大な死亡率があったということは、犯罪意思に関する一連の問題と関係しています。

寄宿学校体制で絶えず続いた40から60パーセントの死亡率は、1892年から少なくとも1950年の、少なくとも60年の間、継続しました。この事実は、残忍な個人の無差別行為や、資金不足が引き起こした避けられない問題ではないことを示します。カナダの教会はまだ、異議を唱えていますが、これに反して、カナダ社会のあらゆる階層には、強制的に押し付け、執行したi絶滅政策を、映し出しています。

結核による死は、この病気が教会や政府が恐ろしい武器として使われたというよりも、真実をもたらすように使われ、私たちの主張に確かな光を示すようです。

早期のペニシリンの使用と隔離が結核感染者の回復に必要でしたが、学校でインディアンの生徒たちに、そういったことは全くされず、健康は二の次で、規則通りに、共に働き、眠り、遊ぶことを強いられました。これは、手紙や実地証人の証言によっています。

高い伝染性の病気で亡くなるために、典型的なインディアン寄宿学校での継続的に無視し、不適当で、ストレスの多い環境で、免疫不全になるような状況で、子供たちは長期にわたり病気にさらされなければなりませんでした。

子供たちは結核にかかると、すぐに亡くなりました。この病気で亡くなるために、助けとなる治療に頼ることもなく、数週間から数カ月にわたって病気とともに過ごさなければなりませんでした。

そして論理的にいって、数千人の子供たちが結核で亡くなったのは、子供たちが病気が広がる状況に置いておかれたからであり、当然のこととして、それが、大虐殺を犯すために学校職員とその管理者が計画を強化した意図的に作られたその状況から生じた災害であるのは確実です。

そのような計画が存在しないならば、なぜ、子供たちが隔離されず、別の場所へ動かされずに病気に襲われたのでしょうか。

寄宿学校体制の全保有期間、1890年から1996年に最後の学校が閉鎖されるまでの間、政府のどの地位も、このキリスト教の捕虜収容所に密接していた教会のどの要素も、子供たちの死という事実になんら重きを置いていなかったことも理解する必要があります。

莫大な数の死が報告され、カナダの新聞各紙が報道し、よく知られるようになっても、実際に、教会も国家も全くその問題に反応しませんでした。そして、1996年初めに、教会と政府は先住民生存者たちの訴訟に直面することになりました。

実に、1970年代から80年代にかけて、インディアン寄宿学校はついに段階的縮小をはじめました。それは、先住民族自身からの抗議行動や圧力行動の結果であり、教会や政府が主導したためではありませんでした。


そしてはっきりと、インディアン寄宿学校を再建する力を、依然として、カナダの内部に保ち続けており、カナダのインディアン法はまだ、正式な法律のままです。

要約すると、先住民の子供たちの死や殺人を含む、大虐殺の体制から生じている犯罪行為の証拠が見つかっています。それは単に、数百人の実地証人の供述録取書や陳述というものではありません。この事件は公になり、供述録取書も解説されるようになります。

同様に、カナダ各地の28の前インディアン寄宿学校にある、墓標のない墓地や墓所の犠牲者の遺骨も見つけられなければなりません。

この裁判に参加しているグループの調査は、私たちの事務所が行ったDNAを採取する徹底的な法医学調査の対象者と、こういった遺骨などに付随した死亡原因や身元の証拠を提示し身元を特定しました。

いくつかのこういった場所からの、数個の法医学的証拠を裁判の過程で、私たちの事務所が説明します。

しかし、私たちは裁判に警告しなければなりません。それは、この捕虜収容所で亡くなった子供たちの遺骨などの完全な回復は恐らく不可能だということです。その理由は膨大な数の死や遺骨などの破壊行為だけではありません。長年にわたって警察、政府、教会の職員の間にある教会法もその理由です。

実地証人たちによれば、寄宿学校で亡くなった子供たちは、学校スタッフに施設内の炉で焼かれ灰にされ、その後、まき散らされることがよくありました。

カナダ政府によれば、政府の文書破壊チームが、こういった施設の生徒の登録簿、死亡記録、他の有罪を示す証拠を消去するために1960年代に派遣されています。これは、自分たちの犯罪を文字通り葬り、忘れさせるために、加害者が行ったすべてのことのさらなる証拠です。

では、はっきりさせましょう。このカナダの大虐殺の等しく説得力のある証拠は、この捕虜収容所の生存者とその子孫の実生活の中にあります。

カナダのインディアンの死亡率は、まだ概して、全国平均の10倍から15倍です。そして、貧窮した結核病や、暴力によるものは、40倍以上です。

これは、寄宿学校での多くの症状が機能障害を引き起こしたり、生存者の子供たちや孫たちに伝わったりしているということがよくあります。弱まることのない世代間のトラウマの現れです。

そして、人々はまだ、法律的にカナダの法の下で完全な市民権が制限され、インディアンは人類史上数値的に最悪の大虐殺から、本当の意味で回復することができません。

こうしたことが、私たちの議論の中心となります。カナダ、君主、ヴァチカン、カソリック教会、英国国教会、カナダ合同教会、また、同様に責められるべき、継続している人道に対する罪を明らかにし、こういった犯罪を考え、それにふさわしい最も強い判決を求めることです。

私たちの検察官事務所は今、裁判の検討のために提出された他の証拠、文書、実地証人の陳述や意見、録画された証拠、法医学的な証拠、遺骨と言った形で、要旨とこの犯罪の確かな証拠の掲示と説明をはじめます。

裁判には、全世界の市民陪審員が関わります。
よろしくお願い申し上げます。






裁判をいたします。

私たちは訴訟事件一覧表事件番号、0915.12.001の提示をはじめます。

問題に関連する人々は、指名された受託職員、会員、英国国家元首、ヴァチカン、カナダ政府、カナダ合同教会、カナダのローマカトリック教会、メソジスト教徒、カナダの英国国教会、カナダ先住民族会議、ウエアハウザー社、カナダ連邦警察、ブリティッシュ・コロンビア事務弁護士会です。

告訴は、個人あるいは組織の責任のある職員として指名した2人の被告が、全カナダのインディアン寄宿学校と病院で知られる体制の一部として国際法の下で大虐殺と定義される次に続く5件すべてを、相互に隠匿し、罪を犯し共謀したことが、何の合理的な疑いもないことを主張し証明します。


1.
直接に、間接的に、あるいは任務で殺害

2.
標的ににしたグループの出産と受胎の防止

3.
肉体的、感情的、精神的に危害を加える

4.
標的ににしたグループの生活資源やアイデンティティーを剥奪し、そういったことを強制的に忘れさせることを含み、そのグループが長期にわたって破壊する状態を創りだす

5.
あるグループから、別のグループへ個人を動かせ、強制的に混乱させる


検察官は訴訟事件一覧表の2番目の件で、この事実と罪を隠匿するために被告が継続している共同謀議に関与していることを証明します。

宣誓証言とこの件で言及された他の文書の完全な保存記録が、一般閲覧のためにインターネット上と www.hiddennolonger.com に掲載されます。本日、裁判で提示される資料は、特定のウェブサイトにあるもっと多くの資料も含みます。


では、私たちが提示することの概要を伝えはじめます。


第一提示訴訟事件一覧事件番号1
犯罪が起こった機関と施設内で犯された文書化された犯罪の概要です。

34の確認された犯罪がリストに記載されています。
それは、殺人、拷問、強姦、奴隷労働、日常的飢餓や暴力、伝染病にさらしての感染、断種、強制医学実験、児童売買、誘拐、司法妨害、証拠隠滅、絶滅させることを含んでいます。

(0:36:55 文書)
この犯罪は、カナダ各地の32の別個のインディアン寄宿学校の元被抑留者、計278証人によって検査されています。

この15施設はローマ・カトリック教会が、11はカナダ合同教会が、6は英国国教会が運営していました。さらに、実地証人は、11のインディアンあるいは一般病院の生存者も含みます。

1932年から1981年の間の記録です。正確に、この犯罪に対して責任がある代理人が次に証明されます。


提示番号2
英国君主が、枢密院令を通してつくり1920年7月1日に庶民院にあがったた連邦法で、1920年にインディアン寄宿学校体制を設立したことです。


提示番号3
寄宿学校をカナダ政府や校長が管理する種々の教会が運営していたことです。

(0:38:47 文書)
この文書は、1996年にケビン・アネットが発行し、寄宿学校の生存者の最初の訴訟で使われたものです。1998年にブリティッシュ・コロンビア最高裁判所はカナダ合同教会とカナダ政府の両方に連帯責任があると判決をだしました。強調させてください。寄宿学校でインディアンの子供たちが被った被害への連帯責任です。

それは、インディアン寄宿学校体制で犯した犯罪すべての法的・道義的責任です。教会とカナダ政府の両方、そして英国君主として知られる許可権限を持つ最高位機関にも、明らかに、間違いなく責任があるのです。


(0:39:49)
第一犯罪:殺害


では、続けます。殺人罪、過失致死罪の種類ではじまる言及された5つの犯罪に従って証拠を掲示します。

計画的殺人や間接的殺人、または、病気にさらしたり、世話を拒否したりして、寄宿学校やインディアン病院内での子供たち他の死を引き起こしました。

カナダのインディアン寄宿学校の死亡率は、膨大で、絶えず平均して40パーセントから60パーセントもありました。学校が正式にはじまったとき、少なくとも1891年から、インディアン開発省最高責任者ニール・パーカー(Neil Parker )が、ほぼ半分の寄宿学校の生徒たちが、その体制では生き残らないとコメントした1949年の間の死亡率です。


提示番号4、5、6
オンタリオ衛生保健委員会のドクター・ピーター・ブライスが報告した、1907年初期からとった1909年の西部の寄宿学校の死亡率の注釈付きの記録です。ドクター・ピーター・ブライスは、1907年と1909年に、すべての寄宿学校の視察のためにインディアン開発省により派遣されました。

(0:41:00 文書)
このインディアン学校での記録された死亡率は、ハイリバー・アルバータ学校で25パーセント、ピーガン・カソリック学校で40パーセント、ブラッド・英国教会学校で50パーセントの平均であるとわかります。すべてのアルバータの実業学校の死亡率の全体的な水準は、33パーセントでした。

この3人の子供たちに1人の死亡率はアウシュビッツの死の収容所の年間死亡率に匹敵します。

この莫大な死亡率は、1907年11月15日付けで、カナダで最大の新聞の1つ、オタワ・シチズン新聞の第1面の重大ニュース記事にドクター・ブライスの最初の報告が掲載されてすぐに公に知られるようになりました。


提示番号7
(0:42:05 文書)

この記事は次のように記載しています。

ある学校では、69パーセントが亡くなり、ほぼあらゆる場所でのほとんど耐え難い死の原因は結核でした。

健康なインディアンの子供たちを死亡させるために結核に意図的にさらした行為は、1920年に発行されたドクター・ピーター・ブライスの『国家犯罪(National Crime)』という本で詳しく述べられています。


提示番号8
(0:42:47 文書)

ブライスはアルバータのファイル・ヒルズ学校の75パーセントもの生徒が結核で亡くなったこと、子供たちが学校内のネズミに運ばれた病気に感染したことを主張します。

どうかこれだけは言わせてください。これは、教会と政府の契約上の義務に明らかに違反しています。契約書は、証拠の一部として後で提示します。


提示番号8です。

カナダのインディアン開発省の副責任者ダンカン・キャンベル・スコットが実はブライスの報告を発表せず、勧告をだすことを拒んだことも、ドクター・ピーター・ブライスは述べています。インディアン学校の平均50パーセントの死亡率の直接確認が警察の調書に提供されました。

1922年からカナダ連邦警察のR.W. クリアウォーター伍長がブリティッシュ・コロンビアとキタマト(Kitamaat)・インディアン保留地のインディアン学校ホームの懸案事項を報告しました。


提示番号9
クリアウォーター伍長は述べています。このホームがはじまって以来、49人が亡くなり、50人がまだ生きていました。
これが提示番号9です。
(0:44:13 文書)

実地証人が述べたように、インディアン寄宿学校の歴史を通して、非常に多くの死を引き起こす行為が続きました。


ビデオ提示番号10、11、12
1950年代にモホーク・英国教会学校機関に収監されたデル・ライリー(Del Riley)、1950年代の間のクーパー・アイランド教会学校(Kuper Island Catholic School)の被収容者デルマー・ジョニー(Delmar Johnny)、1960年代の聖ユージン学校(St. Eugene’s  School)のバージニア・バプティスト(Virginia Baptiste)、1960年代中期にセントメアリーカソリック学校(St. Mary’s Catholic School) に抑留されたウィリアム・コンブ(William combes)の陳述

彼らは皆、結核にかかっている子供たちと寝たり、遊んだりさせられました。


(デル・ライリー)
私の名前は、デル・ライリーです。
カナダ政府が寄宿学校とよぶ囚人作業キャンプで、5年間過ごしました。
姉(妹)と私は、ただ療養所に行きました。
母は療養所で亡くなりました。
私たちはここに来ました。


― あなたは、寄宿学校で結核にかかりましたか?


100パーセントそうだとは保証できませんが、はい、といわなければならないでしょう。

誰も検査はしていませんでしたが。

これは、こういった寄宿学校で、練習といわれていました。子供たちを病気にさせる学校内でのろ過システムでした。

確かに広まっていたと思います。

一人の子供が病気になれば、みんなが病気になるのです。


(デルマー・ジョニー)
私たちは結核にかかっていた人たちと同じ部屋にいました。別にされることはありませんでした。


(バージニア・バプティスト)
彼らは病気の子供たちと一緒に遊ばさせました。みんな一緒に遊ばせるので、簡単に病気になりました。病気になった子供たちで、病気でない子供たちと一緒に寝させられる子供たちもいました。


(ウィリアム・コンブ)
多くの子供たちが病気にさせられました。大部屋で病気の子供たちと一緒にさせられて。結核でした。私もそうやって置かれました。


提示番号14を提示します。
1920年、アルバータのサルシー英国教会インディアン学校の写真です。学校の教室で、明らかに、結核の痛みにさらされて、頭に包帯を巻いて健康な子供たちと並んで座っている子供たちが写っています。

(0:48:08 写真)


提示番号15、16、17、18は、50年にわたる文書や手紙からなります。

1919年11月、ブリティッシュ・コロンビア、ミッション地区のセントメアリーカソリック学校の医師が、地元のインディアンの間に天然痘が発生した責任を問われました。実際に、それは学校から家に病気の子供たちを送ったことが原因でした。

(0:48:40 文書)

5年後の1924年、バンクーバーのカソリック・スクアミシュ学校で解放された生徒の公認記録で、ミリエル・ピータースという少女が、学校に結核菌があることは許されていました、と述べています。


提示番号17です。

(0:49:09 文書)

13年後の1937年1月、ドクター・ピッツは、結核にかかっていて、カソリック学校への入学が認められたポール・ショーティというインディアンの少年が、他の子供たちへの感染源となった、と述べています。

少年は、結核感染が治癒することはなかった、と述べています。

(0:49:40 文書)

ついに、1952年に、キャムセル・インディアン病院で結核の治療を受けていたバーナード・ジョンソンが、ユーコンのカークロース(Carcross)・英国教会学校への入学が認められました。

(0:50:01 文書)

政府自身の統計データが確認しているように、概してインディアンの間の高い死亡率を占める致命的な伝染性疾患を特定の行動が広げでいます。


提示番号19

カナダの国勢調査記録記録によれば、1901年と1911年の間と、1930年代のもう一つの10年間、国中で、20パーセント以上の先住民人口が減少しています。

(0:50:39 文書)

現代の大虐殺行為から、追っていこうとしているのではなく、このような細菌戦でインディアン殺害の前例がインディアン寄宿学校の時代よりずっと以前に確立したことを加えさせていただきます。


提示番号20

この手紙は英国の将軍ジェフリー・アマースト(Jeffery Amherst)から、1763年7月16日の日付で、部下に命じています。

 根絶するために毛布を用いてインディアンに植菌しなさい。

天然痘を使ってノバスコシアのミクマク(Mi'kmaq)インディアンを殺害するためでした。

ほとんどの場合、細菌戦は、インディアン寄宿学校に高死亡率をもたらした主要手段でした。こういった施設での死は、徹底的な身体的な殺人を含め、多くの他の要因によってもたらされました。

寄宿学校での子供の殺害を述べた最初の実地証人は、ポール・アルバーニのカナダ合同教会の元被収容者、ハリエット・ナハニ(Harriett Nahanee)です。

1995年、ハリエットは、1946年のクリスマス・イブの、学校長アルフレッド・コールドウェル(Alfred Caldwell)牧師による14歳のメイジー・ショー(Maisie Shaw)の殺害について述べています。


提示番号21のビデオが明らかにします。


(ハリエット・ナハニ)
私は見ました。彼女は階段の上に立っていました。そして、彼が蹴りました。彼女は階段を転がり落ちていきました。彼女は下で止まりました。そして、彼女は横たわっていました。目を開いたままで。

(0:52:33 文書)

彼女は動きませんでした。彼女は泣きませんでした。

(0:52:37 文書)

私はそれを見ました。


さて、ハリエットの話は、1995年12月にバンクーバー・サン紙が、カナダ史の寄宿学校の子供の殺人の第一報として報道しました。


提示番号22

(0:53:02 文書)

2、3日後、もう一人の実地証人が二番目の子供アルバート・グレイ(Albert Gray)の殺害を報告するためにやって来ました。1938年に、ブリティッシュ・コロンビア、アホウサートのカナダ合同教会学校で、同じ学校長アルフレッド・コールドウェルによってされた殺害でした。


(0:53:28 文書)


提示番号23

12歳のアルバート・グレイは、瓶から一つのプルーンをとったために、殴り殺されました。実地証人アーチー・フランク(Archie Frank)が述べました。

コールドウェルが、この2つの殺人の裁判にかけられることは、決してありませんでした。それは、政府が犯罪を隠匿したためです。


さて、提示番号24は、驚くほどの疑わしい死亡記録です。

(0:54:00 文書)

メイジー・ショーが1946年に、コールドウェルに殺害されました。この死亡記録が、ただ1995年のブリティッシュ・コロンビアの人口動態統計記録に入れられるだけだったとは考えられるでしょうか。少女の死は最初の報道だったのにです。

メイジーは、1946年のクリスマス・イヴの死亡日の2日後に心不全で死亡した、と死亡記録が主張しているとは考えられるでしょうか。ブリティッシュ・コロンビア検視局によれば、なにもなかったのです。

(0:54:38 文書)

死亡記録に記載された、ポール・アルバーニのスティーブンズ葬儀場(the Stevens Funeral Home)にも、 ツェツァウト墓地(the Tseshaht cemetery)にも、メイジー・ショーの記録はありませんでした。

2008年7月に、イレーネ・フェイブル (Irene Favel)がCBCテレビで、1944年のサスカチュワン州マスコウェクヮン・カソリック寄宿学校でのカソリック司祭によるインディアンの新生児の炉での焼却を証言しました。








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