シニア留学風土記

リタイア後、日本を脱出して世界を散策したいと旅立つ。英語生活の勉強も兼ねている。その様子を書き綴る。

視野を広くして歴史を見る(最後の記入に当たって)

2009-01-12 20:28:35 | Weblog
大分前だが、ヨーロッパへ行った帰路に大使館書記官のイスラエル人と席が隣り合わせになった。隣なので挨拶をしたら、流暢な日本語で「イスラエル人です。怖いですか?」と突然聞かれてしまった。あの頃もイスラエルがパレスティナを攻撃しており、世界の顰蹙(ひんしゅく)をかっていた。だから世界中の人がイスラエル人と聞くと怖がると思ったのかもしれない。「いや別に・・・」と私はことばを濁した。シャロン首相が急死した時でそのことだけを「お気の毒でした」と述べた。実はその葬儀の帰りだと言っていた。

この年末以降のパレスティナ攻撃はきわめてむごいもので、今このとき会っていたら「ひどいじゃないですか!」と言っていたかもしれない。中東問題は長い経緯があり、そう簡単には意見をもてない問題である。だからサイードを読みたいと思っていたのだが、日本の西欧化の方が先になってしまった。しかし、どんな経緯があろうとも子どもや女性、普通の庶民を圧倒的な武力で犠牲にして「相手が悪いからだ」と攻撃を正当化するのはおかしい。

 日露戦争でシフから借款(国際間の貸し借り)を受けたと記入した。シフのような人に助けられて勝ったことは感謝すべきことなのだろうか。かなり有名な日本の西洋哲学者が感謝すべきことのように書いているのを読んで「そうかな?」と首をひねった。シフは、その頃ユダヤの世界的財閥ファミリーから紹介されて日本にお金を貸したそうである。その財閥ファミリーの家訓計画書みたいなものに「戦争を誘発し」「対立する双方の国家が更に負債を抱え込み、我々の代理人の手に落ちるように主導されなければならない。」というものがあるそうである。これが本当なら背筋が寒くなる話である。日本は操られていたのか?日露戦争時、日本はたまたま返済したが、貧しい国では借款があまりにも莫大で国自体が「代理人の手」に落ちている例が実際あるという。

 今のイスラエル・パレスティナ問題がユダヤ人のパレスティナ入植(ユダヤ教における約束の地であるイスラエルにユダヤ人は住む権利があるというシオニズム)から、イスラエル国家が形成されて紛争化したと言われ、このような財閥ファミリーの援助を受けているのだとすると、イスラエルの圧倒的な戦力も納得いく。であれば、パレスティナのあまりにも過酷な運命に同情したくなる。第2次大戦中のホロコーストはユダヤ人に誠に気の毒なことではあった。だからといって、ドイツでの凄惨な被害をパレスティナで復讐するかのように惨劇を繰り返すのは筋違いではないのか。それとも長い間、国土を持たない流浪の民であったユダヤ人がどこかにSettleしたいと定めた場所がイスラエルなのか。しかし、それならそれで先住していた人々への敬意が払われなければならぬだろう。いままでそこに住んでいたパレスティナ人が国を追い出されて家族がバラバラになって流浪の民になっていることに心は痛まないのか。流浪の民になった原因は直接パレスティナ人のせいではないのに・・・。
 「Instinct」で主人公の霊長類研究の博士が異文化の狭間で叫んだことばは「独占欲を捨てればいいのだ!」「支配欲を止めればよい!」であった。

 今年は初詣ができない身であったが、去年、明治神宮へ初詣に行った。以前は気がつかなかったのであるが、本殿近くの参道の片側に、沢山の、100個を越えるワイン樽が積み上げられていたのでビックリした。フランスのある富豪のワイナリー所有者と交流があったらしく、贈られたと書いてあった。ユダヤの例の財閥ファミリーはフランスワイン生産のシェア第一人者であることが分かっている。そのユダヤ財閥ファミリーがいなければフランスワインは今ほど有名にはならなかったという。明治天皇は、あのファミリーと交流があったのか!だから日露戦争でシフを紹介したのか!と思った。

 歴史は、係わった人間の物語を介在させるのと同時に、世界的視野をもってみていくと全然様子が違ってくることがある。内向きに日本国内のみに限って筋を考えると突破口がみえないことも明るく開けてくることがある。海外で留学する、外国語を習う、ということはそういう視野を広げるところまで到達できると本当の入り口に来たという感じだ。

 111回というぞろ目の回数となった。このブログ記入とわが生活にちょっと不都合が起きたので、一旦このブログは閉じることとする。<2009年1月12日>

【読んで下さった皆さま、本当にありがとうございました。何日かおいて、削除いたします。いつか、違うURLで再開できる時、またご愛読ください。そういう時が来たら、お知らせ可能な方にはお知らせいたします。】

明治期戦争と昭和期戦争のあいだと異文化理解

2009-01-12 09:47:08 | Weblog
 日露戦争の勝ち戦の記憶が、昭和期、戦争につきすすむ心理を形成したという指摘がある。保阪正康『あの戦争は何だったのか』もそのようなことを書いている。
しかし、日露戦争(1904-05年)は、ジェイコブ・シフという人に莫大な戦費を出してもらって辛うじて戦勝した。シフとその背景にいるものがロシアを叩こうと考えていて日本にそれをさせたと言われている。シフはユダヤ人富豪である。戦費を出してもらったといっても、借款(借り入れ)である。莫大な借り入れなので戦勝したといっても返還したら殆ど残らなかったといわれている。その他の戦争は、調べなければならないが、西欧列強も自らの植民地獲得で忙しかったから、ドサクサにまぎれて極東の国を植民地にしてしまったり、西欧から黙って放って置かれたり、シフのような援助を受けたりしたと考えられる。

 明治維新以降の日本は、多くの戦争を起こした。明治期の戦争が殆ど勝ち戦だったことが、明治時代の人たちは偉かった、という評価に繋がっていないだろうか。それに比べ、昭和期の戦争は負け戦が多かったという点が、駄目だという評価になってはいないだろうか。私はそういう捉え方に疑問を持っている。日本は、西欧文明化に邁進したと同時に帝国主義領土拡張路線も西欧の真似をするようになったからである。弱い国を侵略してその土地を奪い、その国民を奴隷に等しくこき使い、日本の利益につなげるのがいいことだとは、私は言えない。西欧もやっていたのだからいいのだという考え方もあろうが、同じアジア人を植民して、そう理屈をつけるのは、アジア人からすれば憎さ100倍になるといえないだろうか。だからいつまでも断罪を受けるのだと・・・。

  帝国主義によって他国を植民地にするという方向が、西欧と肩を並べて西欧との利害と衝突したとき、欧州各国は日本の植民地獲得を許さなくなってきた。昭和に入って中国本土に入り、満州国を作って植民地にしたときからである。西欧は満州国を認めなかったのである。以降、日本の世界での位置が狂っていき、敗戦まで突き進む。
 
 文明発展の西洋の常識と言われた3段階について前に記入した。福澤諭吉も同調していたと述べた。文明国、半文明国、未開国規定である。文明国は進んでいるのだから半文明国や、未開国を差別し、差別的な条約を結ばせるのは当然としていたそうである。(牧原憲夫『文明国をめざして』)幕末開国期の不平等な条約締結はそうして結ばれた。 植民地にしてそこの人々を殺したり、こき使ったり、本国の利益追求をしたりするのも当然だとしていたのではなかろうか。文明国の西欧は、半文明国の日本を差別的に扱い、半文明国の日本は未開国のアジアを差別する、これほどの悪循環はあるまい。悪循環は断ち切らなければならない。

 正月番組で、日本のタレントがアマゾンの奥地の人々に会いに行くというのがあった。その人たちは洋風の半ズボンをはいていて、その説明で「自分達の伝統ではこういうものをはかないだが(腰みの?をつける)。そうじゃないと(文明人に)ガンで打たれるから(しょうがなくてはいている)。」と言っていた。21世紀のこの時期でもそういうことがあるとは、と驚いてしまった。オーストラリアのアボリジニは、伝統としては腰みのさえないのではないかと思う。相手の文化を尊重するとはなにか。昨日記入した映画「Instinct」で主人公の博士がゴリラと一緒にいるとき、雨の場面で博士が大きな葉っぱを頭の上に乗せて雨を凌いでいたが、ゴリラは勿論そんなことをしておらず、それを見て博士は葉っぱを取る。そして濡れるままでもいいじゃないか、それも自然の恵みと思えばありがたいというように、ゴリラの文化を享受する。たいしたことでなければ、自分の文化を脱ぎ捨てる象徴のような場面だと感じ入ってしまった。その時のアンソニー・ホプキンスの演技は本当によかった。究極の異文化交流の意味を教えられた。文明の低いものは文明の高い国からどんな扱いを受けてもいいのだとなれば、地球は終わりだ、と考える。(長くなるので、あと1回、今日中に記入する。)