シニア留学風土記

リタイア後、日本を脱出して世界を散策したいと旅立つ。英語生活の勉強も兼ねている。その様子を書き綴る。

「丁度いい」は中々ないもの

2008-11-15 06:43:17 | Weblog
 私は今のクラスが丁度よかった。「丁度いい」の意味は、時々学習がやさしいと思う時もあれば、難しいと思う時もある。クラスの学生ともまぁまぁ仲良くやっていける。不満が全然ないかと思えば嘘になる。こうだといいな、ああだといいなと思うことはいろいろある。でもそれらは我慢ができる程度なのだ。自分だって気がつかずに人に何か不快になることをしているかもしれない。そう思えば相当のことが我慢できるものだ。「それが丁度いい」ということだ。

 できる学生とできない学生は、不満をそれぞれに持っているようだ。基本的には「易しすぎる」「難しすぎる」という不満をベースにしていろいろ派生するようだ。「易しすぎて我慢ができない」人は上のクラスに移ればよい。「難しすぎて我慢ができない」人は下のクラスに移ればよい。西欧系の学生は、そういうことをサッサとやる。あくまでも個人本位である。アジア系の学生はそういうことをしないで文句をタラタラ言う。個人本位ではなく、集団が自分に合うようになってくれないかなぁという希望がその文句に表れる。

 教師についてもそうである。私は、入学した途端、西欧系の学生に、習っている二人の先生のうちどちらがいい?と聞かれて困った。前にも書いたが二人の教え方のタイプが違うことを楽しんでいたから、どちらもいいと思っていた。そしてそういう学生は他のクラスを受け持っている先生の評判も聞き回っていた。そうしてとうとう他のクラスに移っていった。それはそれでよい。学費を払って自分の思い通りにならない教育を受けたのでは「時間の浪費になる」と思っているに違いない。

 日本人の学生で西欧人と結婚している人がちょっと前に入ってきた。西欧的になっているのに驚いた。英語圏ではない人と結婚しているのであるが、相当英語も話せる。短期間で英語を完全にマスターしようと思って入ってきたのかもしれない。その学生の背中合わせ後に韓国の学生がいる。13歳のあの学生である。若いからだろう、じっとしていることができない。しょっちゅう話し、椅子を後ろに倒れない程度に反らし、また普通に戻す。そうするとがたがた音がする。私も気になることは気になっていたが、先生のいうことに集中しなければならなかったから、慣れて気にならなくなった。まだ13歳だからやむを得ない、という許容もあった。クラスを観察していると韓国の学生は殆ど授業中貧乏ゆすり(他に適切な言葉をしらない。)をしている。英語ができないと韓国では職にも就けないらしいから、英語を使えるように国を挙げて英語を習わなければという雰囲気になっており、学生はそのことに追い込まれているようにみえる。だからストレスなのかなと同情する気持ちもわいていた。

 先日、西欧人と結婚している、その日本人学生が、若い韓国の学生が椅子を後ろに反らした瞬間、「やめてよ!」という感じで、グイッと若い学生の背中を押したのである。韓国の若い学生は、一瞬何が起こったかというように、ひどくビックリしていた。グループの他の学生と目配せしてビックリした様子を表していた。言葉で言う前に実力行使をしたのだ。私も彼女の隣にいたから、驚いてしまった。そういえば、彼女もほんの時々であるが貧乏ゆすりをする。

 そうこうするうちに彼女は上のクラスに移った。自分の実力では今のクラスは「易しすぎる」と思ったのかもしれない。そういう若い学生がいるこのクラスはいやだと思ったのかもしれない。両方の理由かもしれない。オージーの男の先生は無駄が多いからいやだとしょっちゅう言っていた。そういうこともあったのかもしれない。いい悪いではなく、その行動力は西欧的だと思った。

 逆に、できる人で、「退屈だ、退屈だ」と文句を言う人がいる。日本人である。上のクラスは試しに受けて見たこともあるようだが、合わないと言っていた。それで戻ってきたのだから、後は我慢するしかないと思うのだが、「退屈だ」と言う。何を示唆しているのか今のところ不明だが、西欧的な日本人も、文句を言う学生も元教師だった人である。
「丁度いいはなかなかないもの」という覚悟ができればもう少し楽になるのにな、と私は考えている。妥協ではなく、いろいろ違った視点でものを見ればいいのにな、ということである。

高校生の卒業パーティはリムジンで

2008-11-14 16:00:32 | Weblog

 今日、宿舎の高校生の学校で卒業パーティがあるという。夕方4時に噂のリムジンが迎えに来た。近所の同じ学校の生徒も含め、7人が勢ぞろいした。男子が4人、女子が3人である。みな盛装であった。女の子はきれいにお化粧もしている。ヘアーも爪もおしゃれにしている。そういう姿はすっかり大人だ。7人揃うと圧巻であった。リムジンの前で勢ぞろいして、宿舎の人々がみな写真を撮った。私もついでに撮った。宿舎のプールに来ていた近所の親たちもリムジンの傍らに来て歓声をあげて見ていた。一人の男の子のお父さんが日本から来ていた。卒業式に出るのであろう。

 アメリカでのそういう話は聞いたこともあるし、映画でもそういう場面を見たことがある。でも実際に見たのは初めてだった。宿舎のある男の子がある女の子にブーケをあげていた。するとみんなが「ヘーイ!」と拍手をして喝采した。パートナーを決めなければならないのかも知れない。一人半端だったが、学校で相手が待っているという話だった。
 
 真っ白なリムジン。ドライバーも正装だ。宿舎か両親が料金を払ってリムジンをハイヤーしたようだ。中は応接室風になっていて、ワイングラスなどが揃えてあった。10人ぐらい乗れそうだったが。盛装しているのでリムジンでも狭く感じるほどだ。貧しかった私たちの時代には考えられない事態である。日本でも卒業式は派手になりつつあると聞いたことがあるが、こういうやり方ではまさかないと思う。

 今日、私の学校では試験だった。グラマーやリーディングは76点取れた。しかし、リスニングは悲惨だった。でも平均すれば65点ぐらいにはなる。上等である。テープを聴いてのリスニングテストはいつまでもよくならないが、実際の会話が日常的には不自由なくできるのが夢だった。それは果たせている。上等だ。テープは聞き直しができないが、実際の会話は聞き直しができる。コミュニケーションとはやり取りなのだから、それでよいと考えた。欲を言えばきりがない。

 高校生たちが夕方4時出発と聞いていたので、試験が終わるや否やとんで帰ってきた。見送りに間に合った。試験のことはそれで吹っ飛んでしまった。来週は、授業を楽しむだけでよい。すべてが終わったようにホッとしてしまった。来週末にこちらも卒業式があるが、みんなの前で感謝のスピーチをするだけでよいらしい。軽い軽い?!

庭のマンゴーの木々を見て考える

2008-11-13 05:46:15 | Weblog
 宿舎にはマンゴーの木が6本もある。今、熟成の時期である。食事に必ず果物が出る。マンゴーは庭でなる自前のものが出る。オーストラリア、ケアンズならではである。いつのまにかそういうことが当たり前に受け止められてそのすごさを見逃すところだった。考えれば、それを拡大したものが熱帯雨林である。豊富な食料に恵まれて例えばアボリジニの人たちは何不自由なく暮らしていたのである。それを野蛮とみなして違う文明を無理に押し付けたことこそ野蛮といえないだろうか。

 帰国が近づいて近隣のことに目が行くようになった。宿舎はとても広くて贅沢なつくりである。果物だけでなく、花々もいろいろある。この前、メルボルンカップのとき帽子に飾るハイビスカスも、今、満開である。果物もマンゴーだけでなく、バナナをはじめ、ライチ、オレンジなどいろいろある。日本で自分の庭でそういう果物が自給自足するなど考えられず、買うとなればその価格も高価なものもあるということを知れば、熟成したら採られる心配があるかと思えば、子どもたちは別に黙って採って食べるなど思いもしないようだ。大人にはそういうことが価値があると思うが、子どもたちは、週1回スミスフィールドショッピングセンターに連れて行ってもらって、お菓子を買い食いするほうが楽しいらしい。

 近隣に目が行くようになったといえば、学校への行き帰りに葉が真っ赤になっている木々を目にするようになった。日本では、秋の紅葉があるが、ここでは夏に真っ赤になる木らしい。名前をきいても誰も分からない。とにかく原色の真っ赤なのである。緑の木々の中で真っ赤になっているから、いやでも目につく。日本の冬に向かう寂しげな秋の風情とはちょっと違う。花でも熱帯のものは色鮮やかでくどいほどである。それと同じで葉っぱも変色するとなると真っ赤になるんだなと思った。形の変わった珍しい木々も沢山目にする。

 気候が変われば植物・動物の姿かたちも自分たちが知っているのと違うものが数多く見られる。その中で暮らす人々が違う考え方を持ち、違う暮らし方になるのは当然だし、それぞれが自分の暮らす環境とその国柄を愛するのは、それぞれに価値を持ってくるのは自然だなと、妙に異国と母国と、ともに愛おしさを感じてしまった。自然にそういう感情が沸き起こるのを待てばいいのであって、そういうものは無理やり教え込んでも決して身につかない。違う環境におかれるから、元いた環境が愛おしくなるのである。母国以外にいて、クジラ問題や国際問題関係で非難されれば立ち向かいたくなるのである。自分が日本を背負って来ている気がするからである。そういうインターナショナルなナショナリストが理想だと私は考えている。

 近隣に目をやったことで、そこに見られる特徴が国土全体の特徴をも現し、人々の生活も特徴づけ、文化を創っている。そういうことを感得させたマンゴ-の木々であった。まことに美味な果物である。太陽の恵みをいっぱい受けている味である。

英語のコミュニケーションで強くなれ

2008-11-12 05:27:06 | Weblog
 めげるな!ひるむな!ということを英語を学ぶ時のモットーとしてきた。なぜかというと、英語はアグレッシブな(日本人からするとこう言いたくなる。分かりやすく極論で言う。)言語だからである。黙っても分かってくれるという言語文化ではないからである。黙っているということは意見がないのと同じなのである。

 日本の言語文化と同じく、黙っていても察してくれると考える限り、アグレッシブな言語である英語を獲得するのは難しい。だから教師は黙りがちな日本人やアジア人の学生の話を引き出そうと挑発したり怒らせたりする。もちろん日本文化の価値観である「沈黙は金」「察する文化」など分かってはいない。分かっていないのだから配慮するはずはないのである。日本人が出向いて英語圏に勉強しに行っている場合、「郷に入れば郷に入れ」を要求されるのは当然と思う必要がある。

 だから、私はカチンと来るような挑発的なやりとりがあれば、積極的にその挑発に乗って英語がブロークンでも熱く意見を言うことにしている。傷つくことを恐れて何も言わないと却って傷つく結果になるからである。めげるな!ひるむな!とはそういう意味である。日本語を使うときと人格を変えるのである。長く習っていると自然に人格がアグレッシブになる場合もある。それは日本に帰った時に気をつければよい。

 隣のクラスで泣いてしまった日本の学生がいるそうである。それを聞いて無念に思った。教師が何か挑発的なことを言ったようだ。分からなかったら「分からない」と言えばよい。それも言えなかったのか、と無念に思った。「分からないから学びに来ている。教えてくれ!」と言えばよい。習う始めから分かっていたら、習う必要はない。「分からないことを恥ずかしい」と思うのは見栄である。見栄も恥じも捨てなければ新しいことは学べない。

 例えば、日本人がRとLの発音の違いを違うように発音できないのは恥ずかしいことではない。日本語にはRとLの区別がないからである。区別して発音できるように練習することはよいが、それができないからといって恥ずかしく思う必要はない。母国語にない発音ができるようになるのはなかなか難しいからである。日本の英語教育では、それが発音できた時「きれいな発音である」などと褒めるので、正確に発音できないことを「恥ずかしい」と思うようになる。罪なことをしている。

 一体、RとLの区別ができなければ英語を話してはいけないのだろうか。脳科学では、7・8歳ぐらいまでに英会話を始めなければ本当のRとLの区別はできるようにならないとも言われている。だったら、8歳を過ぎた日本人は英語を学ぶことを断念しなければいけなくなるではないか。RとLの区別ができないのは「当たり前」というところから出発しないから、できないことを「恥ずかしい」と思うようになるのである。

 RとLの話は例えである。どんなことでも新しく習うことは、最初、できないのは「当たり前」から出発する必要がある。開き直るのである。そうすると目の前が明るくなる。分からないことを堂々と前に押し出していけるのである。分からないことを分かるようにしてくれるのが教師の役目ではないか。できないことをできるようにしてくれるのが教師であるはずである。努力した上で、なかなか上達しないときは教師を問責すればよい。泣くことはないのである。

 「英語を学んでコミュニケーションを重ね、強くなれ」と事情を聞いて思った。海外に出れば、戦争中の日本の過誤をまるで若い末裔が償わなければならないように仕向ける議論もままあると聞く。その場合もできるだけ勉強した上で、先祖に代わって謝るべきことあれば謝り、政府がすでに対応済の問題であれば、いつどんなときに対応したか、はっきりと言明すればよい。はっきり言明する人には、どんな理路を説く人であれ、英語圏の人々はそれなりの敬意を表明するはずである。英語文化はそういう言語文化である。日本人よ強くなれ!である。

 しかし、今係争中の元幕僚長のケースは、真似すべき強さではないと考える。日本語では、アジア他国の国土の上で数々の戦争を引き起こしたことを問責されたからといって「濡れ衣」とは言わない。

宿舎の社長さん来たる

2008-11-11 05:18:35 | Weblog
 宿舎のオーナー兼社長さんがオーストラリアに来た。年に一度来るとか子どもが言っていた。子どもたちの様子を見に来るそうである。ご高齢である。理想の燃えて、15年前、定年を過ぎてからオーストラリアにこの施設を造ったという。日本から海外で学ぶ人々が増えるという見通しをその頃持ったのだからたいしたものである。公教育ではないが、広く教育畑でビジネスを手がけてきたみたいだ。今度は日本に英語学校を開くそうだ。

 みんなにお土産を持ってきた。私まで、のど飴とキャラメルの袋をもらった。みんな喜んだ。誰でも差し入れはうれしいようだ。

 私はあと2週間であるからそわそわして勉強がなんとなく手につかないが、子どもたちもお正月休みを控えて卒業する子も居て、落ち着かないようだ。一昨日の日曜日、宿舎内で国連英検の試験が執り行われていた。どこでもかしこでも試験である。私の学校も今週末大きな試験がある。オーストラリアでは年末が学年末である。12月~1月と基本的に休んで、2月が新学年になるようだ。真夏(オーストラリアでは12月~2月が真夏)に学年末の休みが設定されている。西欧系はみなそうである。北半球は夏が7月とか8・9月なので、6月の学年末が多いだろう。日本では夏が学年の途中であるのは、官公庁の年度開始に合わせているからだ。

 書籍類が多くなってしまって、荷物をひとしきり送らないといけないと考えはじめていた。社長さんが土産を入れてきたダンボールをちゃっかりもらってしまった。これで荷物を一抱え送る決心がついた。本を加えると預ける荷物が20kgで済まなくなると思っていた。教科書が2冊増えたし、教師から配られるプリントが1冊の本ぐらいになった。ノートも4冊ある。アボリジニの本もちょっと買いすぎてしまった。本だけでも送ってしまえばあとはデジタル関係と衣類だけになるので助かる。デジタル関係は手荷物だ。

これだけの基本方針が決まれば、あとは実行するのみなので簡単だ。迷っていると仕事というものは進まない。

一頃より暑くてたまらない。熱帯といっても涼しい・暑いの違いがあることが分かった。夕べは蒸し暑くて寝苦しかった。寝不足だ。私の場合、ブルーマンデイではなくてブルーチューズデイのようだ。毎週火曜日が調子悪い。

タイプの違う二人の先生

2008-11-10 04:58:10 | Weblog
 今回の留学で二人の先生に代わる代わる習っている。一人はイギリスから来た女性の先生で、一人は西欧系オーストラリア人で、典型的なオージーってこういう人のことかなと思わせられる愉快な先生である。女性の先生はブリティシュイングリッシュで話し、男性の先生はオージーイングリッシュを話す。集中すれば大体分かるが、物理的な難聴の問題もあって、両方とも私には聞きづらい。このごろ少し聞くのに慣れてきたけれど。

 女性の先生は、大人しい感じだがしっかりした人で、日本人学生に人気がある。文法をしっかり論理的に教えてくれる。ガチャガチャしていない。しっとりしている。だから、少し年配の学生や日本人学生に好かれるのだろう。元英語の先生でこちらに勉強しに来ている日本人の学生は文法を丁寧に教えてくれるから女性の先生の方がいいと言っていた。しかし面白みから言えば面白いとはいえない。真面目なのである。「下品な言葉を自分は使いたくない主義だからなかなか教えられないのだけれど教わる方からすると教えてほしいと思う?」とフーリトークの中で聞かれたことがある。「もしその下品な言葉を知らないで誰かにからかわれて、それはどんな意味など?と公の場で聞いてしまうかもしれない。そういう場合には知っておいた方が助かるかもしれない。無視することもできるから」と答えた。「精神科医である夫にも聞いたら同じ事を言われた」と言っていた。そういう真面目な先生である。

 しかし真面目な教え方を楽しめればよいが、文法は必要ないし、苦手という若い学生は男性のオージーの先生が好きなようだ。韓国の学生は若いからか、みな男の先生の方がいいという。沢山話させてくれるから好きだという。話したいと思って勉強に来たのだからという。目的意識がしっかりしている。今現在文法を習う必要を感じていないということなのだろう。また、男の先生としては流儀として笑わせながら学習させる方が身につくと思っているのかも知れない。おかしな話をよくする。少しちゃらんぽらんなところもある。でも正直な先生である。自分のマイナス面を隠そうとしない。祖先がイギリスで軽い犯罪を犯してオーストラリアに流罪されてきた、と言っていた。末裔である自分はそういう風に開き直るしかないのかもしれない。その点は同情するしかない。

 そうなのだ。オーストラリアはその昔、イギリスの流刑地だったのだ。でも下町の人々が犯した小さな犯罪(お腹がすいてパンを盗むなど)でみんな流されたと聞いたことがある。大航海時代、土地を求めて大国は自国の人々を送り込んだ。イギリスは特にロンドンは人口が多くなって広大な土地が必要だったという話を私も読んだこともある。それを「発見」と歴史上の言い方で読んでいる。そういうことを正直に話す人である。オージーイングリッシュがなぜオージーイングリッシュなのか、この歴史をみればわかる。イギリスの下町の言葉なのであった。「マイフェアレディ」という古い映画があった。そこに描かれていることとあわせれば事情がよく飲み込める。

 私は両方の教師としての特徴を観察したりしているから、双方の授業を楽しんでいる。両方揃っているから満足できるのである。どちらか一人の先生だけに習っていると、それぞれ言われる点で満足できなくなるかもしれない。「もっと話せるように指導してほしい」とか、「文法をもっときちんと指導してほしい」とか不満が沸きあがりそうである。文法は高度な話をするのに必要になる。日常会話だけでいいならそういうことを考えなくてもよい。買い物や観光だけならそれで十分というところがあるからである。しかし仕事を持つ必要があったり、もっと高度な話がしたいなと思ったら、文法も知り尽くさなければならない。そして使いこなせなければならない。私の場合、この英語の粋の大事な文法を習ったはいいが使いこなせないというところで壁にぶち当たっている。知識を活かしてどんな難問題でも話すことはあるが、やや激情に駆られてつい言ってしまうし、習った文法は身についていないしで、英語はかなりのブロークンになってしまう。難問題に相応する高度な言葉遣いができない。

 でもそういうことで四苦八苦しているうちに街中での現実の日常会話はずいぶん楽になってきている。一昨日の買い物で感じた。「これでも学生で英語を勉強しているのよ」というと、私の白髪をみてみんなびっくりし「どおりで上手だと思った」などと言って、景品をくれたり、おまけしてくれたりする。それがおかしかった。そうやってスパイラルしながらゆっくりゆっくり上達するしかないのかなと帰る道すがら考えた。

飾り気なしのオーストラリア

2008-11-09 06:53:40 | Weblog
 習っている二人の先生に感謝のお礼をしたいと考えた(日本人的だ!)。それに電子辞書の電池が切れてしまい、電池を買う必要もあった。単4型はこちらではAAAという表示であった。これはスーパーで買った。ついでにレンタル携帯のリチャージ料も購入した。
 学校生活をしていると本当に買い物は必要なかった。バス代とお昼のランチ5ドル前後を使うだけだ。オーストラリアドルを持ち帰って日本で替えると円が強いので今度は逆に損をする感じになる。ドルが余っている。体験的に買い物をしてみるということもあった。

 昨日、お礼のプレゼントを買いに街中に出た。プレゼントだからもう少しきれいに飾ってほしいと思ったのだが、そういうことはオーストラリアでは望めない。女性の先生用のアンティークなネックレスはみやげ物やでみつけた。イギリスの人だからアンティークが好きだろうと勝手に考えた。さすがにこれは箱に入れて薄紙でくるんでくれたが、リボンも何も無しである。男性の先生用のワインはボトルショップで買った。ただボンとポリエステル袋にいれてくれただけだ。試しにこれはプレゼント用なので割れないように何かきれいな紙で包んでくれないかと頼んでみると、スーパーで飾り付けの用紙など売っているから自分でやってくれといわれた。「あぁ、ここは日本ではなかったな」と思った。飾りは無駄だといわんばかりだ。環境には確かにその方がよい。デパートの有名店やブランドの店は別かもしれない。ブランドものは高いばかりで好きではない。

 スーパーでも面白い売り方がある。同じ商品で4色カラーできれいになっている箱のものと2色刷りで簡単な箱のものとで価格が大きく違うのである。2色刷りの簡単な包装の方には消費税がつかないのだ。きれいな5色カラーで商品名など書いてある方にだけ消費税がかかるようになっている。贅沢な商品にだけ消費税をつけ、一方節約したい人は飾り気のない方を買えばよいという考え方の政策だ。同じ棚に2色刷りと4色刷りが並べられているので、すぐ分かる。安い方が売れると見えて常にそちらが少なくなっている。バスの待合でお年寄り夫婦の買い物が薄いポリエチレンの袋から見えた。パンやバターや牛乳などですべての商品が2色刷りのものであった。年金暮らしになって節約しなければならない人のためになっていることがよく分かった。そういう人からは消費税を取らないという政策である。その点は感心した。企業には同じ商品で4色刷りと2色刷りの2種の包装をするよう推奨しているのかもしれない。実質が大事という国柄が表れている。

 プレゼントぐらいはきれいに包装してもよさそうだがと思ったが、国柄を考えて良しとすることにした。きれいなリボン紐ぐらいは自分で買って結ぼうかなと考えている。今日はバスの時間が迫っていて買う余裕がなかった。そういう国柄であれば、きれいな包装は期待していないだろうから、無しでもいいのかも知れないが…。でもビンは割れないように工夫しないといけない。今の生活ではその紙さえない。週明け、学校で新聞でも買おう。

オーストラリアロングステイ事情

2008-11-08 06:37:01 | Weblog
 いままでオーストラリアのマイナスイメージ面にあまり触れてこなかった。それは直接自分がそういう目にあっていなかったからであるが、国の事情というものはどこでもある。それをいちいちあげつらっていたら、きりがないところもあるからであった。日本だって難民を受け入れない酷薄な国として知られているし、観光客は受け入れるが、働きたい人は雇う側スポンサーシップがあればビザを発行しても、基本的に受け入れていない。ビザ延長不法滞在者を厳しく取り締まっているのはそのためだ。不法滞在者が増えるのは、ビザ延長がなかなかできないからである。

 オーストラリアでも事情は同じである。以前は熟年のロングステイを推奨していたが、今では観光客でも3ヶ月となるとビザを取るのは大変らしい。昨日そういう類のひどい目にあった人の話しを聞いた。娘が留学しているので卒業間際の一定の時期、世話をしたいと思ってやって来た人の話である。自分自身が勉強する気は全然なかったそうである。それなのにビザ発行のときに、3ヶ月も居るなんて働く気だろうと邪推されたというのである。そして働く気がないことを証明するために、英語学校に入って勉強するならビザを発行してやると言われたというのである。それで仕方なく学校に入ったという人がJCUの英語コースに少なくとも二人居る。

 だから学生ビザは簡単に発行しているのだ。ワーキングホリデイ(1年間)が取れるのは29歳までである。ワーキングホリデイの人も最初の3ヶ月ぐらいは英語の勉強を義務付けられている。仕方なく学校に入った人は、学校に学費を納め手続きを済ませた後に、健康診断も厳しく求められ、病気がみつかったらビザは発行しないし、学費の返還も無しといわれたそうである。そして手続きのたびに高額な手続き料を請求されたという。私は最初から英語を勉強するつもりであったから何も問題は起こらなかった。健康診断さえ求められなかった。

 これらを勘案してみると、観光がやや衰退していて、教育産業で外貨獲得をねらい、外国人を入国させようとしているのではないかというのがその人の意見であった。その人は働く気などさらさらなく、子どもの面倒をみようと来たかっただけなのに物入りで本当に大変だったと言っていた。もう一人の若い同じように就学を求められた西欧の男性は、勉強しながら、週末、牧場などで働いている。月(20時間以内?)なら働いていいという決まりらしい。労賃は安いという。なんか日本の就学生ビザ発行の様子と似ている。

 日本でも観光立国だといってその方面に力を入れようとしているが、付随するいろいろな問題をあらかじめ想定し、解決法を探っておかないと問題が起こるのは目に見えている。そもそも観光で環境破壊が進んでいるのはどこの国でも見られる現象である。観光でその国や地元に利益がもたらされるのはごくわずかである。観光客の所属国の旅客産業に皆利益が吸い取られるのがおちである。日本にそういう想定力があるのであろうか。

殆ど帰国モード

2008-11-07 11:51:16 | Weblog
 昨日は宿題がいっぱいだった。それで記入の準備ができなかった。直接記入している。20分で書く。

 あと2週間で私の学習スケヂュールは終わる。残り2週間というのは殆ど帰国モードになる。勉強に集中できない。理由はいろいろだ。

① 学校が終了したら、どこへ行くか決めなければならない。
② エアーズロックにいくことに決めたから、旅行エージェントにホテル・チケットその他の手配を頼まなければならない。
③ 折角会ったのだから話してみたいと思う人に声をかけ、日程を調整しなければならない。そして、その日は空けておかなければならない。
④ 少しずつみやげ物を買い揃えなければならない。人によって買い分けをするのが大変である。
⑤ 宿舎の代表には何かお礼をするのか、先生にはどうするのか、考えなければならない。
⑥ 旅行エイゼンシーに予約チケットの番号ができたとき、取りに行かなければならない。

 そういう合間に勉強し、宿題もし、ブログも書き、洗濯もし掃除もするのである。食事だけは宿舎で出るから、自分ではしていない。にもかかわらず、結構大変である。宿題で一番困っているのは、電灯が暗いのである。その中で宿題をするのは結構大変だ。でも宿題をしないと習ったことがなかなか定着しない。それで、目がショボショボしてもする。昨日は、通常の宿題としても多かった。その上、国の誰かに書く手紙を何でもいいから100words書くように言われた。今日の授業は眠くて仕方がなかった。

 それでも宿題をしてよかったと思うのはすぐ評価が返ってきてそれが良かったときだ。手紙の例が評価されて返ってきた。
 Nice work Hiroko.Very close to perfect structure. There are few minor grammar errors for you to consider but otherwise wonderful!と評価され、90点をもらった。
 まだ午後の授業があるので、頑張らなければならない。では。

日本ではありえないトピックー陰謀説

2008-11-06 05:24:39 | Weblog
 テキストに「ダイアナの死の真相」「アポロは本当に月に到着したか」「ケネディ・ジュニアは暗殺されたのか」がトピックとして出ていた。昨日さわりを習い、長文なので読みが宿題となり、今日それを本格的に習う。これらは陰謀説がいくつもある代表的なトピックである。日本では週刊誌がゴシップとして取り上げるか、正統派でない特殊な書籍扱いで本屋に並ぶぐらいで、それを読む人はちょっと変わった人の扱いを受けるに違いない。

 特に日本では教科書でそのトピックはタブー扱いに違いない。でもこちらの英語教育ではそうした話題が堂々と出される。それを信ぜよ、と言っているのでは決してない。そういう説があるがどう思うかという扱いである。主として、「陰謀説=Conspiracy Theory」という概念や、そういう問題を話すときの概念や言葉遣いを習うのが目的である。でもそういうトピックを避けないというところが日本と違うと思った。

 ありうる情報はみんなさらけ出して自分の拠って立つ意見を決めさせるようなところがある。ある種、公平な感覚といえる。日本では右も左も分からない学習者たちにそういう情報を与えては混乱させるだけだというに違いない。教育と名のつくものは、正統なものだけしか与えてはいけない、という感覚である。この感覚では「正統」とは何か、という疑問を封じる。

 こういう問題に対して、韓国・日本の学習者は黙ってしまって、何も言わない傾向がある。多分知らされていない。だから意見を持っていないか、全貌について知らないから意見をいうのが怖いのだと考えられる。西欧系の人はちょっとでも知っていることがあれば何らかの意見を言う。この違いが面白かった。

 私は最初の導入でこの三つの陰謀説以外に何か知っているかと聞かれたので、9/11同時多発テロの陰謀説について語った。「アルカイダ・ブッシュ政権共謀説」があるのである。「大きな嘘ほど見抜かれにくい」という典型みたいなところがある。ブッシュ政権が国民の「再調査」の要望を受け入れていないことや調査報告書を公開していないことが陰謀説の氾濫に拍車をかけている。娘があやうく巻き込まれかねなかった時からその筋の本を読む気になったのである。みんな「エーッ」と言った。自国の多くの国民を犠牲にするはずがないといった国民の思い込みに乗じて陰謀は行われる。今日その米国で大統領選挙の結果が出た。面白い偶然だった。

 陰謀説に怪しげなものもあるのは事実だ。しかし、後世の歴史においてそれが真実だったと言われるかもしれないことも混在しているに違いない。私は後世ではなくて今知りたいと思うことが沢山ある。そういう場合、いろいろな角度から自分で研究する以外にない。