11日、千葉県木更津市の林道脇で女子大生(19歳)の全裸遺体が発見され、死体遺棄容疑で無職の男性が逮捕された。この事件はまだ捜査中で、男性を犯人と決め付ける段階ではない。
※<女子大生遺棄>24歳男を逮捕 容疑は否認 千葉・木更津(毎日)
逮捕された男性が真犯人かどうかは捜査の結果を待つとしても、こうしたおぞましい事件の発生が頻発し、人の目耳を引き、マスコミの社会面はネタが途切れそうにない。ここで人間の本性について考えれば、マスコミに毒された哀れな頭脳だと揶揄されそうである。
しかし、想定される非難にもめげず考えてしまうのは、人間の根源が怪物性にあるだろうことである。
アウシェビッツや西欧の思想・哲学を持ち出すまでもなく、この日本でも古くから人間の怪物性については考えられてきた。たとえば歎異抄でも、親鸞は「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と述べ、後世、親鸞の悪人正機説と呼ばれてきた。これを投稿者としては、人間性に潜んでいる悪と戦ってきた「善人」が救われ往生するのは当然だから、自分や他者に潜む悪を克服できず、振り回されて生きざるを得なかった者が救われるのは、いうまでもないことだ、と解釈する。すなわち親鸞は、人間に潜む本性(悪)を救うことが仏教という宗教の役割だと考えていたのだろう。「善」とは、部分的ではあるが人間の本性を自力で克服しようとする努力なのである。
不思議にも親鸞の悪人正機説は、キリスト教の「原罪」説と共通するものがある。神の命令に反して楽園に実る禁断の果実をかじったアダムとイブは、その楽園から追放されなければならなかった。この「原罪」を背負う者が、神とは異なる人間なのである。神(理想)とは異なる、罪を負った者が人間だとキリスト教は説く。
ただキリスト教は、「原罪」を負ったものをそのまま救済しようとはしないようである。人間は罪びとであり、未来永劫、神のもとに集い神に忠誠を誓わなければならない。しかし浄土真宗は、悪を本性とする人間そのものが救われると考える。キリスト教は人間の本性を「罪」として否定し、浄土真宗は「悪」を抱える人間そのまま、救われるものとして肯定する。奇妙な言い方だが、キリスト教より浄土真宗のほうが「人間的」なのである。すべての仏教が悪人正機説ではないが、こんなところにも、仏教を現状肯定の宗教と見る根拠があるかもしれない。
解剖学者の養老氏の言葉を借りれば、この人間の本性を人間に潜む「自然」と呼ぶこともできるだろう。あるいは子ども性と。人間は自然を、子ども性を、そのまま肯定して生きていくわけにはいかない。ここが人間のむずかしいところでもある。
※<女子大生遺棄>24歳男を逮捕 容疑は否認 千葉・木更津(毎日)
逮捕された男性が真犯人かどうかは捜査の結果を待つとしても、こうしたおぞましい事件の発生が頻発し、人の目耳を引き、マスコミの社会面はネタが途切れそうにない。ここで人間の本性について考えれば、マスコミに毒された哀れな頭脳だと揶揄されそうである。
しかし、想定される非難にもめげず考えてしまうのは、人間の根源が怪物性にあるだろうことである。
アウシェビッツや西欧の思想・哲学を持ち出すまでもなく、この日本でも古くから人間の怪物性については考えられてきた。たとえば歎異抄でも、親鸞は「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と述べ、後世、親鸞の悪人正機説と呼ばれてきた。これを投稿者としては、人間性に潜んでいる悪と戦ってきた「善人」が救われ往生するのは当然だから、自分や他者に潜む悪を克服できず、振り回されて生きざるを得なかった者が救われるのは、いうまでもないことだ、と解釈する。すなわち親鸞は、人間に潜む本性(悪)を救うことが仏教という宗教の役割だと考えていたのだろう。「善」とは、部分的ではあるが人間の本性を自力で克服しようとする努力なのである。
不思議にも親鸞の悪人正機説は、キリスト教の「原罪」説と共通するものがある。神の命令に反して楽園に実る禁断の果実をかじったアダムとイブは、その楽園から追放されなければならなかった。この「原罪」を背負う者が、神とは異なる人間なのである。神(理想)とは異なる、罪を負った者が人間だとキリスト教は説く。
ただキリスト教は、「原罪」を負ったものをそのまま救済しようとはしないようである。人間は罪びとであり、未来永劫、神のもとに集い神に忠誠を誓わなければならない。しかし浄土真宗は、悪を本性とする人間そのものが救われると考える。キリスト教は人間の本性を「罪」として否定し、浄土真宗は「悪」を抱える人間そのまま、救われるものとして肯定する。奇妙な言い方だが、キリスト教より浄土真宗のほうが「人間的」なのである。すべての仏教が悪人正機説ではないが、こんなところにも、仏教を現状肯定の宗教と見る根拠があるかもしれない。
解剖学者の養老氏の言葉を借りれば、この人間の本性を人間に潜む「自然」と呼ぶこともできるだろう。あるいは子ども性と。人間は自然を、子ども性を、そのまま肯定して生きていくわけにはいかない。ここが人間のむずかしいところでもある。
このエピソード、生徒たちはどう受け取るか?「正直者が損をする」と受け取るのか?興味があります。
で、「放蕩息子の帰還」ですが。
まろ先生の解釈では、父と子の暖かいエピソードとして理解されすぎていませんか? その点に若干の違和感、というか疑問を感じたりいたします。
と申しますのは、もしこれを「子にたいする親の愛」と解釈しますと、聖書という書物が、あまりにも現代的な通俗的教科書に堕するのではないかと考えるからです。いつも変わらず、家族の愛、人の優しさなどを説いてきたNHKの「国民的」昼ドラ(現・ひまわり)みたいに。
あるいは聖書そのものが、古代の人間たちに説かれた古代の道徳書だったのかも知れませんね。その可能性はありますが。古代ヨーロッパの「水戸黄門」ですか。
しかし、この記事『木更津・全裸遺体事件と人間の根源』に関連させますと、最終的に「父」を頼り、「父」のもとに帰還した息子を、神と人間の関係の象徴、寓話として出されたのではないかと思われます。たとえ神から離れることがあっても、最終的に人は神を頼らざるをえず、神のもとに集うことになるのだと。最終的に人の罪を救済できるのは神以外にないのだと。人は神によって救われなければならない罪びとなのだと。
こうした思想が人類のなかに文明人ー未開人、優秀民族ー劣等民族、などの差別と征服ー非征服の合理化を裏で支えたと想像するのは容易でしょう。聖書に登場する預言者たちの努力に反し、人間の怪物性が発現することに青信号を差し出したのではないかと、深く危惧いたします。
善悪の判断の違いの人がいる。その 善悪の因果が 未来になる。心口意。悪いことの結果が恐ろしい。BATIとはあるのだろうか?宿命 宿業 因果と償いと生死
宗教研究会(名前検討中
悪人とは 仏教の戒律を 守れない人と 聞いたことがります。現代社会で 仏教の戒律を すべて 守れる人が いるのだろうか?修行~