森美術館。企画展を観終わって出る直前のところで何か上映している。何気なく入ってみたら、これが面白くて、思わず1時間ぐらい滞在してしまった。
「不平の合唱団」
ヘルシンキの2人のアーティスト、Tellervo KalleinenとOliver Kochta-Kalleinenが始めたいわゆる参加型アートのプロジェクトだ。何らかの不平を持つ市民が自発的に合唱団に参加し、彼らが書いた不平に基づいて歌詞を決め、作曲し、合唱を行う。…という「アイディア」自体が、彼らの作品。
したがって世界中どこの誰がこのアイディアに従って「不平の合唱団」を組織しても良いのだ。森美術館では、世界各地で行われたプロジェクトの記録映像がマルチスクリーンで次々に上映されているので1つ観終わっても「それじゃ別の都市ではどんな演奏だろう?」という興味から、延々と観てしまったわけ。(東京篇もある。作曲はチャンチキトルネエドの大口俊輔さん。指揮は元アノニマスの神田智子さんではないか!)
彼らのウェブサイトには「不平の合唱団」をオーガナイズするためのマニュアルが掲載されている。簡単に紹介しておこう。
STEP1: 人集め
フライヤーやポスターやプレスリリースを使って、あなたの街の人々に「不平の合唱団」への参加を呼びかけよう。参加者は何らかの不平不満をもっていなければならない。
STEP2: 音楽家探し
音楽家は短期間で作曲し、リハーサル中も手直しし続けなければならないので大変な仕事だ。アマチュア、歌手ではない人を指揮したり指導したりする必要がある。
STEP3:不平を集める
街、近所、テクノロジー、生活全般、どうにもならないあれこれ…など様々な不平を、1枚ずつ紙に書いて提出。
STEP4:初リハーサル:作詞
最初のセッション。小グループに分かれ、提出された「不平」を編集したりつなげたり再構成したりする。
STEP5:作曲
音楽家と、合唱団からの参加者が共同でアイディアをまとめ、歌詞と楽曲をつくる。
STEP6:リハーサルを進める
いよいよ歌う時だ。リハ中の新しいアイディアもどんどん取り入れていく。恥を捨てて大声を出そう。3~5回程度のリハを行う。くたびれない程度に!そしてリハーサルの後は、食べものや飲みものを提供すべし。
STEP7:公演準備
公開演奏の準備を始める。あらかじめ告知して観客を集めるのも良いが、公共の場所に突然あらわれて演奏するのも面白い(たとえば駅とか)。静かな場所を選んで「録音」も行なおう。後で映像にまとめるために十分な撮影を。
STEP8:外に出てみんなで不平を歌う
きつい準備は終わった。あとは不平を楽しもう。1日にたくさん演奏するなら食べものも忘れずに。空腹だとうまく歌えないからね。
STEP9:映像
あちこちで行った演奏の映像を編集する。音を同期させるには忍耐が必要かもしれないが…。そして、このウェブサイトに投稿して下さい!
このマニュアルの、妙に「食べもの」にこだわっている点に僕はとても共感した。いや単に食いしん坊ってことじゃなくて、教条的かつコンセプチュアルに何か「指導」するのではなく、集まってきたみんなと共感したり楽しんだりしながら作品を作っていこうという姿勢が、なんか表れているじゃないですか。一時が万事。楽屋にちゃんとした飲食物を用意しないオーガナイザーを、僕は信用しない(←やっぱり単なる食いしん坊か・笑)
ウェブサイトでは各国の「合唱団」を見ることができるので、まずは見比べてほしい。(YOU TUBEでも"Complaints Choir "で検索すれば大量の映像が見つかります)お国柄によって「そんな不満があるんだ?」とびっくりするようなものもあるが、現代の都市に暮らす市民の不平は、通勤の辛さとか鈍感な他人のふるまいとか男女の考え方の違いとか、ま、おおむね似通ったものであることがわかって、楽しい。
また、日常の「不平」「不満」というネガティヴなものを、歌にして吐き出すことで逆にポジティヴでハッピーなエネルギーに転化するという、ちょっと集団セラピー的な要素も感じられる。どの合唱団も、実に楽しげだ。
「不平の合唱団」公式ウェブ
ここでの「ある種の規則=アルゴリズムに従えば誰もが自分の街の合唱団を組織できる」というアイディアは、たとえばジョン・ゾーンの『コブラ』のようなゲームピース音楽を、ただちに思い出させる。
もっとも、音楽/音響的には「アルゴリズム」の縛りがほとんどなく、あくまで「不平」という言葉の次元が作品の最重要要素となっているため、これを「音楽作品」と呼ぶのにはためらいがある。むしろ「合唱音楽」という形態を借りて演じられる言葉のパフォーマンス。演劇や文学の実験プロジェクトと考えた方が良いかもしれない。
非専門家が集まリ、まさに非専門家ならではの「ばらつき」によってある種の音響状態を提示する、といった実験は、これまでもケージ、シェイファー、「ポーツマス・シンフォニア」、ホセ・マセダ、大友良英…等々、多くの音楽家がこれまで散々試みてきている。
それらの多くは、プロフェッショナルによる一義的な音楽のスタイルに疑問を提示する作品だ。大衆がそれぞれ勝手な、あるいは個人的な演奏を行うことで、その集合としての音楽/音響自体はいわば複雑系的なカオス状態を生み出す。そこが面白い。
だが本作の場合、音響そのものはむしろ古典的というか、保守的。どの国の曲もおおむね既成のポップミュージックの様式にのっとって作られている。シンガポールのロックンロールふう合唱曲や日本のブラジルふう合唱曲を聴いてわかる通り、民族性や国民性ともほとんど無関係に作られていることが多い。
本来、たとえばそれぞれの「個人的な不平」には、それぞれ最適な「個人的なメロディ」や「個人的な音響」「個人的な音楽様式」が存在するはずだ。そうした個人的次元を崩さないまま多面体的に(あるいは暴力的に)全てを並列に響かせたりクラッシュさせたりする音楽だって、もちろん作れるだろう。いわば「合唱しない"合唱団"」。
いま僕が想像しているのは、ヴィムヴェンダース監督の映画『ベルリン天使の詩』冒頭、無数の市民の声が同時多発的に渦巻くのを都市上空で天使たちが聴いているシーンのような、混沌とした音響だ。
そして、そのような何か新しい音楽を期待してこの「合唱」を聴こうとするなら、残念ながらいささか「世俗的」というか「エンタテイメント的」に(もっと言えば『お笑い』的に?)響きすぎる、とは感じる。
だが、あわてて付け加えるが、本作がもしもそんなふうにカオティックで実験的な「音響作品」や、いわゆる「現代音楽作品」的な楽曲であったら、一人のア-ティストのプロジェクトとしては評価されたかもしれないが、各国で上演される拡がりをここまで持ち得たかどうか。
爆発的な視聴回数を得、真似する者やパロディを作る者が続出し、個人ブログやサイトでどんどんリンクされ紹介されまくる…いわゆる「バイラル映像」的なコンテンツを目指すための、それは確信犯的な「ポップさ」と思われる。
いずれにせよ「ネット社会」以前とは違った形で人間関係の再編成をめざす、興味深い、そしてクレバーなプロジェクトであることは間違いない。
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