エクレシア

へっぽこクリスチャン・翔の暴走爆裂ブログ

朝祷会「荒廃を嘆く祈り」

2007-01-08 20:49:55 | 神さま
今日は朝祷会の日。
ホントは第一・第三月曜なので先週のはずなんですが、さすがに元旦はありませんでした(笑

今日は成人の日で会社が休みなので、ゆっくりしてきました。

今日の聖書箇所はネヘミヤ記1章1~11節。
ネヘミヤが罪深いイスラエル民族の赦しを求めて祈るところ。
特に4節。
「私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って」
いわゆる愛国心ってやつですな。

なんというか、この箇所を読むと自分がいかに日本を愛していないかを思い知らされるようで・・・
この国のために祈ることもあるけど、正直言って「すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って」というほどではない。
頻発する凶悪犯罪、相次ぐ不祥事、そして政府。
日本を愛するより見放す方がずっと簡単だが、当然そうもいかない。。。
モノスゴイ言い方ですが、私の場合、日本のために祈るのも愛するがゆえのことではなく、祈るべきだから仕方なく祈ってるような気がしてきました。。。まだまだ砕かれなければなりませんな。

今日のメッセージで、ひとつの証を聞きました。
ある日、とある教会に電話がかかってきたそうです。
「私の両親があなたの教会の墓地に埋葬されているはずです。私が死んだ時、私もそこに埋葬されたい」
というものでした。
さっそく調べてみると、この電話主の両親は25年前、確かに教会の墓地に埋葬されていたようです。そこで教会の牧師は、電話を受けた当時は冬で電話主は遠方の方だったので、春になってから一度お会いすることにしました。
数ヶ月が過ぎて春になり、牧師はあの時の電話主にお会いすることが出来ましたが、彼は病気で入院していました。
牧師は彼の両親が生前「息子(電話主)が救われるように」と祈っていたことを思い起こし、イエスさまの十字架の福音を語ると、彼は涙を流しながら悔い改め、救われたのです。
それ以来、彼は病床にありながらも日に日に元気を取り戻し、医師も彼は近く退院できるのではと思っていたそうです。
ところが、彼はそれから一月半で召されたそうです。

電話は、両親が召されて25年後にありました。両親の祈りが25年経ってから聞かれたということです。
まさに、永遠の滅びが確定する一月半前の出来事でした。
彼は、永遠の死から永遠のいのちへと運命を変えられました。

8~9節
「しかしどうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを、思い起こしてください。『あなたがたが不信の罪を犯すなら、わたしはあなたがたを諸国民の間に散らす。
あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行なうなら、たとい、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしはそこから彼らを集め、わたしの名を住ませるためにわたしが選んだ場所に、彼らを連れて来る。』と」

この日本は、本当に暗い道を歩んでいます。
しかし主は、この国の運命さえも変えることがお出来になる方です!!


(ちなみに、最近私は日本のリバイバルが来るよりも前に、私たちがもっと変えられるのを待っておられるように感じています。それは日本を「本当に」愛することかも知れません・・・)

主よ・・・

2007-01-03 22:59:52 | 神さま
主よ、あなたがいつも私を愛していてくださっていることを感謝します。

私が何かしたからというのでもなく、ただ私がいることをあなたは喜んでいてくださいます。

あなたがそうであるように、私も、ただあなたがいてくださることを喜びとできますように。

2006年に感謝

2006-12-31 22:16:59 | 神さま
さっきまで父親の実家でK-1 Dynamite見てました。
曙はやはり負けましたか・・・

2006年ももう数時間でお終い。
この一年を振り返りつつ、感謝のお祈りを捧げよう。。。

・mixiを通じて多くの方々と知り合えたことを感謝します
・職場でこれまで以上に福音の種まきが出来たことを感謝します
・職場の一人が教会へ来てくださったことを感謝します
・イースターのパーティに感謝します
・祈りの祭典での恵みに感謝します
・会社で給与が上がったことを感謝します
・仕事上参加を諦めていたいくつかの集会に参加できたことを感謝します
・聖日礼拝に全て出席できたことを感謝します
・示してくださった御言葉、幻に感謝します
・水曜学び会が始まったことを感謝します
・金曜祈り会での深い御臨在に感謝します
・セルグループ(区域礼拝、ユース、エリヤ会)に感謝します
・ジェリー先生をはじめ、賛美チームや様々な奉仕に携わる一人一人に感謝します
・左耳の聴力が癒されたことを感謝します
・ICF初のユースライブの成功に感謝します
・ICFクリスマスコンサートを感謝します
・ICFファミリークリスマスに感謝します
・愛隣チャペル、クリスチャンセンターでの松本優香さんのコンサートを感謝します
・メビックの第20回ミュージカルに感謝します
・今、仕事があることを感謝します
・与えられている奉仕に感謝します
・大きな病気がなく、概ね健康であったことを感謝します
・今年の罪が赦されていることを感謝します
・今年、いのちがあったことを感謝します

2007年は「与える」者でありたいと思う。
「受けるよりも与えるほうが幸いである。」(使徒20章35節)


皆様、2007年もどうぞよろしくお願いしますm(_ _)m

市民クリスマス

2006-12-09 23:59:59 | 神さま
今日は絶対参加できないと思ったっ!!
というのも、連日遅くまで残業していたし、今日は会議があるとのことだったので。。。

しかし主は素晴らしい!
皆いつも遅くまで勤務しているせいで能率が悪化しているため今日は定時退社ということになり、会議も突然無くなりました!

今年の札幌市民クリスマス、ハンドベルによる演奏やゴスペルクワイア、チョン・ミョンオク氏による賛美、そして日本ハムファイターズ監督であるトレイ・ヒルマン氏のビデオ出演と内容が充実してましたねー。

メッセージも良かった。特に最後にお話してくれた、ある知恵遅れの少年の話。覚えている限りで分かち合いたいと思います。
ある村で毎年行われるキリスト降誕劇に、この知恵遅れの少年が自分も参加したいと訴え、監督は悩んだ末にこの少年を宿屋の主人として参加させることにした。
台詞はたった一言。「ダメだ!満員だ!帰れ!」
イエスを産むために宿を探すマリヤとヨセフに対して言う台詞、という設定。
そして劇の当日。少年はうまくやってくれるだろうか・・・
劇は進み、いよいよ少年が登場するシーン。
宿のドアをノックするマリヤとヨセフ。少年は出てきて
「ダメだ!満員だ!帰れ!」
バッチリ言えた!

しかし・・・
少年は自分の宿屋に戻らず、宿屋をあとにするマリヤとヨセフをじっと見つめたまま。監督が宿に戻るよう合図するも少年の目に入らず、少年は突然叫びました。
「マリヤさん、ちょっと待って! 僕の家においでよ!!」
劇はそこで終了。この一言で台無しになりました・・・

ところが、この劇を見た人々は皆こう言っていたそうです。
「今年の降誕劇は今までで一番良かった」

「僕の家においでよ!!」
少年のこの台詞が、劇を見た人々にイエスさまを心にお迎えするということを思い起こさせたのです。


この話を聞いて思い出したことがある。
もうだいぶ前になるけど、テレビで精神障害を持つ子どもが劇の主人公を演じているシーンを見た。
その子の台詞は忘れてしまったが、その力強さは今も覚えています。
劇なんだけど芝居らしくない、心の奥底にある想いを隠さずそのまま言葉にしたようなカンジでした(上手く説明できない・・・)。

障害を持つ人って低く見られがちだけど、そんな彼らしか持っていない能力もあるんだなーと思う。

聖書は・・・

2006-11-26 22:17:35 | 神さま
ぼけーっとインターネットしていたら見つけたサイトにあった言葉。

「聖書は文字に書かれたイエス・キリストです。」

これ、とーってもアーメンな言葉だなーと思った。

11月20日 朝祷会

2006-11-20 23:59:59 | 神さま
会社の帰り、コンビニでおにぎりを買った。
「温めずにお召し上がり下さい」と書いてあるのに、店員が「温めますか?」と尋ねるとはこれいかに。

さて、今日は月に2度の朝祷会の日。
引用聖句はマタイの福音書10章47~52節。
「彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
ところが、ナザレのイエスだと聞くと、『ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。』と叫び始めた。
そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、『ダビデの子よ。私をあわれんでください。』と叫び立てた。
すると、イエスは立ち止まって、『あの人を呼んで来なさい。』と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、『心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。』と言った。
すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。
そこでイエスは、さらにこう言われた。『わたしに何をしてほしいのか。』すると、盲人は言った。『先生。目が見えるようになることです。』
するとイエスは、彼に言われた。『さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。』すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。」

聖書の中では名前すら出てこない人物も多いです。金持ちとラザロの話においても、この金持ちは名前が書かれていません。
上の箇所では盲人のこじき、バルテマイの名前が書かれていますね。
さて、イエスさまに向かって叫ぶバルテマイを大勢の人が黙らせようとしました。するとさらに大きな声で叫び始めたのです。
イエスさまは全能の神ですが、この箇所で出てくる人物の中で一番イエスさまを理解していたのはバルテマイでしょう。
今日のお題は「あなたも見えますか」でした。
果たして自分は、イエスさまを本当の意味で見ることが出来ているのだろうか・・・。
バルテマイのように、霊の目が開かれた者でありたいものです。


最後に、ちょっとしたトリビアをご紹介。
バルテマイとは「テマイの子」という意味。バル=子、という意味です。
イエスさまの代わりに釈放された殺人犯バラバは「父の子」という意味。バラバは、正しくは「バルアバ」なのです。アバ=父、というのは有名ですよね。
当時の名前には苗字が無かったので、地名などを頭につけて個人を識別していました。
イエスという名前も、イスラエルにおいてはよく長男に付けられる名前であったため「ナザレのイエス」という書き方がされている箇所も多いのかも。
ちなみに、現代においても外国ではこのような命名がよく行われています。
ジョンの息子(Jhon's son)という意味でジョンソン、ジャックの息子がジャクソン、とかね。

御言葉に向き合って

2006-11-19 23:59:59 | 神さま
外国のとある村での話。
その村の牧師が、自分の教会に来る人々が不正をしていることを知りました。
そこで次の礼拝のメッセージとして、その不正を止めるよう促すものを考え、語りました。
「いや~先生、素晴らしいメッセージをありがとうございます!」
不正をしている村人の反応は良いものでした。
ところが、村人達の行動は何も変わらなかったのです。
そして牧師は、次の礼拝メッセージでもっと詳しく話したのです。
村人達は、この牧師が自分達の不正のことを指して語っていることに気づきました。
すると村人達は、なんとこの牧師を村から追放してしまったのです。

聖書の御言葉はすべて神からの言葉です。
中には、なかなか聞き従いづらいものもあることでしょう。
高慢な性格である人に対して「謙遜でありなさい」という御言葉は、カンタンに聞き従えるものではありません。

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第二コリント3章18節)
注目すべき点は「変えられて」行くということです。
自分自身が苦行などして変わろうとするのではなく、神さまに変えていただくのです。
(かといって何もしなくて良いのではなく「もっと変えて下さい」と日々求め続けるべきであると私は思っていますが)

実践が難しい御言葉があるのならば、それが出来るように求めましょう。
何年も前ですが、J師のメッセージで今もハッキリ覚えているものを紹介します。
「○○という御言葉に従うことが出来ないのなら『従うことが出来るようにして下さい』と祈りなさい」
いたってシンプルなことです。
先頭に書いた例のように、聞き従えないからといって御言葉を追放してはなりません。どんな御言葉に対しても、まっすぐに向かい合うべきです。
その上で、自分が御言葉通りにないと気づいたなら、変えて下さいと願い求めるのです。

主に似た姿まで変えられるまで、時間がかかることもあることでしょう。
しかし私たちは、遂には
「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださる」(ピリピ人への手紙1章6節)
のです。

御座にいます方と子羊とに

2006-10-19 23:59:59 | 神さま
明日からの祈りの祭典に備えて、ミンティア(フリスクみたいなやつ)のカフェイン入りのヤツを3つとノートを購入。
ノートは祈りの課題やメッセージから示されたこと、幻などを書き記すため。

やーいよいよ明日ですねー。
「36時間フル参加しまーす!」という宣言を何人かの兄弟姉妹の前でしてきましたが、念のため言っておきますが、私が注目されたい・賞賛されたいという思いからではありません。
こう宣言してくれば、そうせざるを得なくなるでしょ?(笑
背水の陣を敷いたわけですよ。

今日は静思の時を持ってから、早めに寝ます。

今日ふと思わせられたこと。
イエスさまは、ご自分の命を捨てて私たちを滅びから救い出されました。
ご自分を侮辱する者のために、死なれる前に十字架の上で祈りました。
「父(神)よ、彼らをお赦し下さい」

それほどまでに愛の御方なのに、現代になってもなお侮辱され続けているなんて寂しすぎるよ・・・


御座にいます方と子羊とに、賛美・誉れ・栄光・力、永遠にあるように

忍耐をもって

2006-10-18 23:59:59 | 神さま
最近示された聖書箇所は第二列王記。

「彼はイスラエルの王に、「弓に手をかけなさい。」と言ったので、彼は手をかけた。すると、エリシャは自分の手を王の手の上にのせて、「東側の窓をあけなさい。」と言ったので、彼がそれをあけると、エリシャはさらに言った。「矢を射なさい。」彼が矢を射ると、エリシャは言った。「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす。」
ついでエリシャは、「矢を取りなさい。」と言った。彼が取ると、エリシャはイスラエルの王に、「それで地面を打ちなさい。」と言った。すると彼は三回打ったが、それでやめた。
神の人は彼に向かい怒って言った。「あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。」(第二列王記13章16~19節)


長い期間祈ってもきかれない時、もしかしたらこの祈りは主の御旨では無いのではないだろうか等と考えてしまい、つい止めてしまいがち。
でもハッキリと答えが得られるまで忍耐強く祈り続けよう。
もし途中で止めてしまったとしたら、この聖書箇所のように中途半端な形できかれることになるかも知れないね。
主が備えられているご計画を、完全な形で受け取りたいものです。

ダビデの信仰

2006-09-21 00:16:21 | 神さま
前回の続きみたいなカンジになります。

前回、ダビデの祈りについて書きましたが、もう一度書きます。
「神よ。御名によって、私をお救いください。あなたの権威によって、私を弁護してください。
神よ。私の祈りを聞いてください。私の口のことばに、耳を傾けてください。
見知らぬ者たちが、私に立ち向かい、横暴な者たちが私のいのちを求めます。彼らは自分の前に神を置いていないからです。セラ
まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。
神は、私を待ち伏せている者どもにわざわいを報いられます。あなたの真実をもって、彼らを滅ぼしてください。
私は、進んでささげるささげ物をもって、あなたにいけにえをささげます。主よ。いつくしみ深いあなたの御名に、感謝します。
神は、すべての苦難から私を救い出し、私の目が私の敵をながめるようになったからです。」(詩篇54篇)

ここでダビデは、敵に追われて絶体絶命の状況にありました。
しかしこの祈りの中で、後半は感謝の祈りになっています。そしてついには「私の目が私の敵をながめるようになった」とさえ言いました。
ですが、状況はまだ何一つ変わっていないのです。

確かにダビデは、神さまに熱い人物でした。では、彼の信仰をここまで高めたものは一体なんだったのでしょうか。
答えは詩篇103篇2節にあります。
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103篇2節)
ダビデが確信に満ちた力強い祈りが出来た理由は、ここにあるのではないでしょうか。
ダビデの生涯は苦難に満ちた生涯でした。その中で神さまはダビデを勝利へと導き、ダビデもまた神さまが自分になさったことを忘れることがありませんでした。苦難の中で主をほめたたえたのです。
そのため、絶体絶命の中にありながらも、今回も主が助けてくださるという確信が持てたのでしょう。

私自身にも、思い返してみると神さまの助けに違いないとハッキリ確信が持てることがいくつかあります。
これらのことを覚えて、ダビデのような信仰の域に到達したいものです。