every word is just a cliche

聴いた音とか観た映画についての雑文です。
全部決まりきった常套句。

これは恋ではない (500)日のサマー  *追記あり

2010-03-15 | 映画
「ボーイ・ミーツ・ガールの話だが、ラブ・ストーリーではない」
冒頭のこの台詞が何より『(500)日のサマー 』の内容を言い表している。

映画の感想を検索すると「これは俺の映画だ」と語っている人が多いが、所謂リア充でなければ男の子は程度の差はあれ、そう思うんじゃなかろうか。
少なくとも、トムのTシャツがジョイ・ディヴィジョンとクラッシュだって気がつくような種類の男だったら(それってナードだってことか!?)。


落語的なオチと共に自らの足で未来を切り開こうとしている主人公=トムの姿は運命の恋なんてないというメッセージを発しているという風にも受け止められる(鑑賞直後はオイラもそう受け取りました)。
が、サマーの突然の決断を(本人がそういう言葉で認識するかどうかは?だけど)"運命の恋"とも呼べるわけだし、そう考えると運命を肯定するも否定するも本人の態度次第ということになり、それって結局何にもいってねーってことだから、どうやらこれは主題ではないぽい。


むしろ多くのマッチョじゃない男の恋愛観を描くというのがこの映画の主題ともいうべき部分で、そこをもっとも端的に表しているのが出鱈目に時間軸をいったりきたりする構成じゃないだろうか。
モテナイが故にひとつの思いでにこだわる男はフリッパーズがかつて歌ったように「出鱈目の新素材をいくつでも並べて」楽しかったあの季節の楽しい思い出だけを反芻しているのである。




ここで描かれる物語は男目線なので、サマーは自由気ままな悪女的女として描かれている。
サマー側にしてみればこれはお門違いだろう。

「運命の恋」なんて信じられなかった彼女は、どうやらそう呼ぶのにやぶさかでない出会いを経験し、結婚した。
その直前に付き合っていた(彼女に言わせれば単に深いリレーションシップにあっただけなのかもしれないが)男は何か違っていただけなのだ。

だいたい「スミス好きなの?」って知り合ったのに、ジョイ・ディヴィジョンとクラッシのTシャツなのだから「何か違う」って思うのは必然だよね。

バンドTシャツの細かいところを何度もあげて恐縮だが、MTV出身のマーク・ウェブが監督したこの映画の最大の売りはそういった細かいくすぐりだ。

そして建築家志望なのにグリーティング・カード会社でコピーライターを務めるトムがこだわっているのも、そういった細かい部分だ。

だからこそ彼は声高に問う「俺たち(の関係)は何なんだ! 恋人同士じゃないのか?」。

サマーにとってそんなことはどうでもいい。

スミスはスミスであって「同じUKロックだったら、ジョイ・ディヴィジジョンはどう? 政治性という意味ではクラッシュかなぁ? 」的なことはどうでもいい。
ただ自分がどう思うかということだけ、インスピレーションだけなのだ。

同じスミスを聴きながらも、その捕らえ方はまるで重ならない。
それこそが恋愛の不毛なのだ(と思う)。

追記:
サマーとトムが話すようになったキッカケはエレベータでの音漏れに端を発した何気ない会話だ。
「あなたもスミス聴くの? 私も大好きよ。」

この映画の舞台は現代のロス・アンジェルス。
そこでスミスを聴くというのはどういう意味か。
ナードだという性質の記号ではないだろうか。
だとすると、身近にいる女の子がスミス好きというのは正に運命だと思えるような稀な現象なのだろう。

『(500)日のサマー』はトムとサマーが出会ってから分かれるまでの500日を「あの頃は楽しかったなぁ」と思い起こす物語だが、そこでサマーが主体的にスミスを聴くというシーンは描かれない。
サマーが「ビートルズではリンゴが好き」は単に人とはちょっと違う男に惹かれるということなのかも。

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