every word is just a cliche

聴いた音とか観た映画についての雑文です。
全部決まりきった常套句。

ケンタとジュンとカヨちゃんの国

2010-07-15 | 映画


自分の居場所を見つけられず"ここではない何処か"に行こうともがく若者を描いたというテーマは『SR サイタマノラッパー2』と共通する(もっとも『サイタマノラッパー2』ではとうが立った"もう若くは無い"年頃の話だけれど…)。


両作品に共通する要素はもうひとつあって、それは安藤サクラが出演し、その演技が映画の味わいをより深いものにしていると言う点だ。


『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』では安藤サクラの当たり役といえる『愛のむきだし』の小池を髣髴とさせる"発情するブス"カヨ (*役柄としてブスなので…、念のため)を身体をはって演じている。

残念なのは演技は素晴らしいが、映画としてカヨの扱いがいただけないこと。


「ブスでバカで腋臭」なカヨはまともな教育も家族からの愛情も受けていない「自分の人生を自分で決められない」ケンタとジュンと対になる存在のように描かれる。

物語のなかでケンタもジュンもカヨも救われないのだが、カヨに関してはジュンに恋することによって救われたかのように描かれる。

「愛されたい」という欲求を抱いていたカヨはジュンにそれを求め続けた。
一貫して"都合のいい女"扱いされていたカヨに対して、最後見せた一瞬の優しさ(少なくともカヨはそう受け止めた。だから一瞬の間をおいて号泣したのだ)。
それに救われたかのように見える演出は、何だか女は家庭にいろ的な男尊女卑を感じてしまう(言いがかりに近いけど)。
正直、カヨがいなくてもストーリーは進展するし。





『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』は映画としてはどうかと思う箇所が他にもある。
ネタバレになってしまうけれど、クライマックス・シーンへの繋ぎ、アレはなかった。

せめて『バイク壊れちゃったんだし、1台残して帰れよ』みたいな台詞があれば、時間の経過がもっと自然に伝わったはず(キャンプ場のシーンはカットバックで過去の話かと思った。クライマックスになるまで、自然な時間の経過だって判らなかった)。

もうひとつ、そのクライマックスのシーンで裕也が黒のスーツで現れたのも演出ミスだと思う。

彼はケンタとジュンにとっては搾取する側に見えるけれども、彼も搾取される側であり"行き場のない"底辺なのだ。
更に上にいる人間(おそらくヤクザ)に「ケジメつけろ」と言われたというのは判る。土下座のシーンあったし。
だから警察沙汰にならなかった分けだけれど、網走まで追ってくるのに裕也は黒のスーツを着るかなぁ?

スーツを着るのであれば、もっとバックの人間を描かないと納得できない。
あそこでスーツを着ることによって、前述の裕也もまた"行き場のないのだ"という仄めかしが薄くなってしまう。




『サイタマノラッパー2』では主人公たちは行き場の無さを感じながら、現実に踏みとどまる。
それは、もしかしたら、27歳の女性がもつ大人な態度・現実主義なのかもしれない。
対して、行き場の無さから破れかぶれになってしまうケンタとジュンは若く幼い。
これが年齢の差や教育の結果だけではなく、男と女の差なのではないかなと思った(カヨが「けっこう(お金を)持ってる」程度に稼いでいるというのも、そういうことだろう。

しかし、ここに描かれた物語は100%フィクションとは言い切れず、当事者にしてみれば腹ただしいモノだろう。
そういった人たちはおそらく映画なんて見ていられないのだろうけれど。


いま日本の閉塞感というのは、誰もこれを他人事と思えないところにもあるのではないだろうか。

そういった閉塞感に対してのブレイク・スルーとして時に音楽や映画、小説、マンガなどが機能する。

特に"居場所がない"人間が"ここではない何処か"へ繋がろうとする時に、音楽は効果的だ。
『サイタマノラッパー2』でのアユムはヒップホップに突破口を見出した。
果たして見つかったのか、見つかったとしてそれに手が届いたのかは判らないけれど。

ジュンやケンタにはまともな教育もなかったが、夢中になれるモノも誇れるモノもなかった。
自分たちの言葉も文化も手に入れられなかった。
だからケンタは壊すことで変わろうとした(それはまがりなりにも解体屋として糊口をしのいできたという自負もあるのだと思う)。




この映画のもうひとつの話題と言えば音楽だ。
阿部芙蓉美の歌うエンディング・テーマ=岡林信康「私たちの望むものは」は物語のテーマを端的に表わしているし、岡林の歌った背景と現在が繋がっていることも示している。
大友良英の音楽も話題だが、楽曲自体も良いがその使われ方(演出)が効果的に思えた。
物語でも重要な意味を担っているアコースティック・ギターの調べが何ともいえない寂寥感を醸し出しているし、岡林のフォーク的な世界への橋渡し的役割も果たしているのだ。

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