every word is just a cliche

聴いた音とか観た映画についての雑文です。
全部決まりきった常套句。

「80年代は良かった。でもニルバーナが出てきた90年代は最悪だ」とランディは言った。

2009-11-12 | 映画
継続は力なりという。

続けることこそが実力に結びつくということだろうか。
それよりも、力があるからこそ続けることが出来るということだろうか。




今、上映中の映画『アンヴィル』副題にずばり『夢を諦めきれない男たち』とあるように決して屈せざる男たちの映画だ。

アンヴィルは駆け出し時代の80年代前半に世界ツアーを廻るほどの成功を味わっている。実力も折り紙つきで、映画の冒頭ではガンズのスラッシュやメタリカのラーズ・ウルリッヒが多大な影響を受けたことを告白している。

想像するに一度頂点を味わっているからこそ、その後の不遇時代は辛く苦しい。
自分たちの実力への確信はあるが、時代との擦れ違いということへの疑念は晴れないからだ。

それでもアンヴィルは楽器を手放すことはなかった。
たとえ5人しか居ないライヴハウスだろうと演奏しつづけた。
チラッと写るリップス(Vo./Gtr.)の部屋には見たところHR/HMのCDしかない。
プレイヤーとしても、リスナーとしても愚直なまでに真っ直ぐなその姿は『レスラー』のミッキー・ローク演じるランディに通じる。
長髪で筋肉質のおっさんと言う共通項もあるが(W 。




ヘビメタとプロレス。
不屈の物語を描くのにこの親和性の高い(御茶ノ水的な)テーマが選ばれたのは興味深い。

思うに今は女性の時代なのだ。
その要因は色々あげられるだろうが、男が弱くなったことがその決定的要因ではないだろうか。

家庭を顧みず仕事(=資本主義的価値観)に没頭してきた男たちにとって、リーマンショックに代表される資本主義の歪みから生まれた大不況は自らの存在意義を揺るがすほどの出来事だった。

グローバリズム経済が世界を席巻し、人々は"効率"を追い求める。
報われなかろうと、自分の信じた道を突き進む。
明らかに"効率"の悪い"ボンクラ"な生き方は、今の世の中の風潮では最も忌み嫌われる(つまりはモテナイ)生き方だ。

『レスラー』と『アンヴィル』は男くささの復権を目指して全てのボンクラに捧げられたファンタジーだ。

いや、これは夢物語ではないのかもしれない。
フィクションである『レスラー』のランディがその生き方の代償として家族との関係が修復不可能になっているのに対し、ドキュメントである『アンヴィル』のリップスは家族からのサポートと理解を得られているからだ。

先日のマイケル・ジャクソン『This is it』にも通じるのだけれど、何だかんだと言って誠実さ、ひたむきさというのは強い。

日本では80年代に否定された汗臭さを80年代に隆盛を迎えたプロレスとヘビメタで描かれたと言う意味はよくよく考えるべきかもしれない。
「80年代は良かった。でもニルバーナが出てきた90年代は最悪だ」とランディは言った。
ニルバーナというのは80年代の終了と90年代を象徴する言葉であってそれ以上の意味は無いのだろうけれど、ランディという男を表す台詞としては最適だ。

『アンヴィル』と『レスラー』。00年代最後にして漸く90年代的な価値 ≒ グローバリズムへの反動がこれらの物語を語らせたのではないだろうか。





蛇足ながら付け加えたいのはこの映画のオチにあたる部分だ。
ネタバレ自重するような内容ではないけれど、あれを見ると「日本の音楽シーンっていいな」と思う。

よく海外アーティストが「日本のオーディエンスは熱心に聴いてくれるし、何よりも敬意を払ってくれる」と言うが、あれはリップ・サービスではなかったのだな。

しかも、それはアート・ブレイキーの時代から言われ続けてきたこと。曰く「我々を人間として迎えてくれたのは、アフリカと日本だけだ」 。

日本の音楽シーン(業界のみならず聴き手も含めて)はそれをもっと誇っていい。


追記 シネマハスラーの評を聴くと、映画的な構成力で効果的に物語られている部分はあった。 やらせということでは全く無いし、アンヴィルの気持ちがあの場で報われたことは事実だろう。 レスラーとの対比という意味では、信じた道が破滅に向かうか否かという点で両者には大きな違いがある。 何よりも「ライムスターに重ねてみてしまった」という宇多丸の独白を忘れられない。 つまりは、ライムスターを主人公にしてもこの物語は成り立つだろう。

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