March,1980
Alvin Toffler; The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山次郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳
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ぶつかり合う波
第一章 明日への大闘争
いま、われわれの生活のなかに、これまでになかった文明が出現しようとしている。そして、そのことに気がつかない人びとが、あちこちでそれを阻止しようとしている。この新しい文明とともに、新しい家庭像が生まれ、仕事、恋愛、生活の実態が変化し、経済も新しくなり政治もまた新しいものとなる。なにより大きいのは、意識の変革が平行して起こることである。部分的には、現在すでにこの新しい文明は、その姿をあらわしている。早くも無数の人びとが、自分たちの生活を明日の生活のリズムに合わしている。その一方で、未来を怖れるがゆえに一生懸命過去へ逃避し、前向きの姿勢も示さず、ただいたずらに自分たちが生を享けた時代の、すでに死にかけている世界を懸命に守ろうとしている人びともいる。
この新しい文明の出現こそ、われわれの一生のうちでも、ほかに比肩するもののない、もっとも衝撃的な事実である。
それは、歴史の動向を支配する中心的な出来事であり、このさき何年かの動きを理解する鍵でもある。
この新しい文明の出現は、一万年前の農業のはじまりによって引き起こされた第一の波、および産業革命によって口火が切られ、またたく間に地球上を席巻した第二の波と同様に、社会を根底から変革する大きな出来事である。われわれは、これら二つの変革に次ぐ、第三の波に洗われる時代に生きているのだ。
われわれはこの途方もない変革の圧倒的な力と、その広範な影響を表現するのにふさわしい言葉を模索している。「宇宙時代」の到来を口にする者があるかと思えば、「情報化時代」、「電子工学時代」などと言う人もいる。カナダの文化史学者マーシャル・マクルーハンは、通信の発達によって地球上のすべての人間が、一つの村の一員としての意識を持つようになると考え、「地球村」という造語を提唱した。カーター大統領の国家安全保障問題特別補佐官ピグニュー・プレジンスキーは、われわれ人類は「技術・電子工学時代」に突入しつつある、と言ったことがある。テクノロジーとエレクトロニクスの衝撃によって、経済的にも文化的にも変質しつつある現在社会の特質を表現しようとしたものであろう。また、アメリカの社会学者ダニエル・ベルは来るべき社会を、「脱産業化社会」と規定している。そのほか、ソ連の未来学者は「科学・技術革命(S・T・R)」ということを言っているし、私自身、「超産業社会」という表現によって、新しい時代の到来について包括的な記述をしたことがある。しかし、私自身の言い方を含めて、これらの言葉はどれひとつとして、十分適切な表現であるとは言いがたい。
これらの表現のなかには、変化のひとつの要素だけに焦点を合わせているために、問題を敷衍して捕えることができず、われわれの理解を挟めてしまうものもある。また、あるものは静的な表現に過ぎ、新しい社会が既存の価値体系との対立も緊張関係もないまま、スムーズにわれわれの生活のなかで実現するかのような印象を与える。われわれ現代人に押し寄せている変化、またはその変化がきっかけで起こる社会的圧力や軋轢がいかに情容赦のない激しいものであり、どれほど広大な範囲に強力な影響をおよぼすかということになると、これらの表現では、とうていその全体像を言いあらわしうるとは思えない。
人類は未来に向かって、一大飛躍の時期にさしかかっている。社会を根底からゆるがす大変動、かつてない新しい文明をつくり出す変革に直面しているのだ。明確には意識しないままに、われわれはいま、まったく新しい、注目に価する文明を、その基盤から築き上げようとしているのである。これこそ、第三の波の意味するところである。
人類はこれまで、大変革の波を二度経験している。それぞれの波は、変革以前の文化、あるいは文明を大幅に時代おくれにしてしまい、前の時代に生きていた人間には想像すらできなかった生活様式を一般化した。第一の波による農業革命は数千年にわたってゆるやかに展開された。産業文明の出現による第二の波の変革は、わずか300年しかかからなかった。今日では、歴史の進行はさらに加速されており、第三の波はせいぜい2、30年で歴史の流れを変え、その変革を完結するのではないだろうか。したがってわれわれは、たまたまこの衝撃的な時代に地球上で運命を共にするわけだが、自分たちが生きている間に、第三の波の衝撃をまともに受けることになるであろう。
第三の波はわれわれの家族関係を崩壊させ、経済の基盤をゆるがし、政治体制を麻痺させ、価値体系を粉砕してすべての人間に影響をおよぼす。それはすべての古い権力関係に挑戦する。またその地位をおびやかされはじめた現在社会のエリートたちの特権や特典に対しても、挑戦を開始している。そして、この波が未来に向けて展開される主要な権力闘争の背景をなすことになる。
第三の波は、まったく新しい生活様式をもたらす。その基盤となるのは、多種多様な、再生可能なエネルギー資源であり、大半の流れ作業による工場生産を時代おくれにしてしまう新しい生産方式である。また、核家族とは異なった新しい家族形態、「エレクトロニック住宅」とでも言うべき新しい職住一致の生活、様相を一変する未来の学校や企業などもその基盤となる。来るべき文明は、われわれの新しい行動規範を打ち立て、第二の波の社会の特徴である規格化、同時化、中央集権化といった産業社会の制約を乗り越え、エネルギー、富、権力の集中化を越える道を拓いてくれる。
この新しい文明は、一方で旧体制を打破しながら、今日の官僚制度を崩壊に導き、国民国家の役割を弱め、帝国主義の桎梏を脱した世界に半自立経済を発生させる。新しい文明は今日より簡素で、より効率的な政府、しかもこれまで地球上に存在したいかなる政府より、いっそう民主的な政府を必要とする。それは独自の世界観を持った文明であり、時間、空間、論理、因果関係についても、独得の考え方を伴っている。
とりわけ重要なことは、後述するように、産業革命によって分離を余儀なくされた生産者と消費者をふたたび融合させ、「生産=消費者(プロダクトコンシュマー)」とでも言うべき存在に支えられた、明日の経済をつくりだすことである。こうした理由からだけでも、新しい文明は、われわれが多少知的な努力さえすれば、歴史上はじめて人間性に溢れた文明になりうるはずである。
革命的前提
今日、二つの明らかな対照的な未来像が、一般の人びとの想像力を拘束している。多くの人びとは、われわれの知っている世界が際限なく続いていくと考えている。現状に安心しきっていて、少しでも未来のことなど考えるのはめんどうだ、と思っている。自分たちがまったくいまとちがった暮らし方をするなどということは、想像することもできない。ましてや文明が全面的に新しい様相を呈することになるなど、思ってもいない。もちろんかれらも、物事が変化しているのは認める。しかし、現在進行中の変化は、ともかく自分たちの傍を通りすぎていくだけで、慣れ親しんできた経済機構や政治体制は、微動だにもしないと決め込んでいるのだ。未来は現在の延長線上にある、と信じて疑わないのである。
この直線的な思考は、さまざまな形態をとってあらわれる。けっして検証されることのない思い込みは、単純な段階では、ビジネスマンや教師、親、政治家などが決定をくだす際の前提になっている。もう少し高度の段階では、こうした考え方が統計とかコンピューターのはじき出すデータ、未来学者の専門用語などですっかり粉飾されて、世の中をまかり通る。いずれにせよ帰するところは、未来の社会も本質的には現在と大差はない、ということに尽きる。つまり、第二の波による産業主義がいよいよ巨大化し、地球はさらに産業主義一色に塗りつぶされていく、というのである。
最近のさまざまな出来事は、こうした確信に満ちた未来像を、激しきゆさぶっている。イランに吹き荒れた政変の嵐、毛沢東の非神格化、石油価格の急騰とインフレの狂乱、テロの蔓延、それを阻止できない観のある政府など、危機につぐ危機が新聞の見出しをにぎわし、未来に対する暗い見通しが、ますます一般化しつつある。間断なく提供される暗いニュース、地球の終末を描く映画、聖書の黙示録の物語、一流のシンクタンクが発表する悪夢のような未来予測などをすっかり信じこんだ結果、多くの人びとが、今日の社会が未来も存続することはありえない、と推断してしまった。もともと未来そのものがないのだ、と
言うのである。かれらにとって、黙示録の説く世界壊滅戦は目前にせまっているのであり、地球はおそるべき終末に向って疾走を続けている。
表面的には、これら二つの未来像は非常に異なっているように見える。しかし、心理的にも政治的にも、この二つは似たような効果を生む。というのは、両方とも想像力と意志とを麻痺させてしまうからである。
実のところ、もし明日の社会が現在の拡大版、シネラマ化にすぎないとしたら、われわれは未来に対して、さして準備すべきことはない。反面、もし社会がわれわれの生きている間に自滅する運命を避けられないとすれば、これまた、われわれとしてはそれに対して、なす術もないわけである。要するに、未来に対するこうした見方は、どちらも自分のことを考えるのに汲々とした、受動的な生き方を招来するだけなのだ。どちらも、われわれの行動を凍結させてしまう。
しかし、われわれの身のまわりに起こりつつある事態を理解しようとすれば、こうした終末論か、それともいまと変らぬ未来かといった、単純な選択しかないわけではない。明日についてはさまざまな、もっとはっきりした、建設的な考え方ができる。明日にどう備えたらよいのか、さらにいっそう大切なことだが、現在をどう変えていったらよいのか、こうした指針をわれわれに与えてくれるような考え方があるのだ。
この本は、私が「革命的前提」と名づける考え方にもとづいている。今後2、30年間は動乱と激動に満ちた、おそらくいま以上に暴力的風潮が蔓延する時代になるだろうが、われわれは全面的に自滅することはありえない、という考え方である。われわれがいま経験している衝撃的な変化は、けっして混乱でも行き当りばったりのものでもない。実際には、はっきり見分けることのできるパターンがあるはずだ、という前提に立っている。さらに、こうした変化は累積的なもので、変化が積もり積もってわれわれの生活、仕事、遊び、思考の様式をすっかり変えてしまい、健全な、望ましい未来がやってくるというのが、革命的前提である。要するに、以下に展開する本書の内容は、現在起こりつつある事態が全地球的な革命、歴史上の突然変異的な飛躍にほかならない、という前提から出発しているのである。
別の言い方をすれば、この本の出発点になっている前提は、われわれが古い文明の最後の世代であり、新しい文明の最初の世代だということである。われわれの個人的な混乱、苦悩、方向感覚の喪失は、われわれ自身の精神、あるいはわれわれを取りまく政治体制のなかでくりひろげられている闘争の反映であって、それはもはや死期の迫った第二の波の文明と、それに代わろうとしている第三の波の新しい文明との間の相克を、直接反映するものとして跡づけることができる。
結局、このことさえ理解してしまえば、一見無意味な出来事のすべてが、急にはっきりわかってくる。変化の広範なパターンが、くっきりと見えてくる。生き残るための行動を起こすことがふたたび可能になり、またそうすべきだということになる。要するに、革命的前提は、われわれの知性と意志を解放してくれるのである。
波の方向
しかし、われわれの直面している変化が革命的だというだけでは、十分でない。それらの変化を方向づけ、コントロールするためには、歴史の変化の本流を見きわめ、それを分析する新しい手法が必要である。この方法を持たなければ、われわれは自失の状態に置かれることになるだろう。
ひとつの強力な、新しいアプローチは、社会の変化の波がしらの分析、とでも言えようか。次つぎとうねりを見せる変化の波の連続が歴史であると考え、おのおのの波の力がわれわれをどこへ運ぼうとしているのか、それを見定めることである。歴史の連続性もむろん大切だが、この手法は、むしろその非連続性、断続と革新に注目する。変化の鍵となるパターンを見きわめれば、そうしたパターンに対する影響力をどのようにでも行使できるだろう。
農業の出現を人間社会の発展の最初の転換点とし、産業革命を第二の大きな前進とする単純明快な考え方から出発したが、この考え方はこれらの二つの変革を、それぞれ個別の、一過性の出来事と見ているわけではない。一定の速度を持った、変化の波と考えているのである。
第一の波による変化が起こる以前、人類の大半は小グループに分かれ、各地を放浪しながら生活しており、採集、漁労、狩猟、牧畜で食糧を獲得していた。それがある時点、ごく大雑把に言って一万年ほど前に、農業革命がはじまり、地球上に徐々にひろまっていくとともに、村や集落や耕作地ができ、新しい生活様式がひろまっていった。
この第一の波による変化は、ヨーロッパに産業革命が勃興し、第二の大きな世界的変革の波が押し寄せてきた17世紀の末には、まだ命脈を保っていた。この新しい変化、産業化は、第一の波による変化よりはるかに急速に、国から国へ、大陸から大陸へとひろがっていった。こうして二つの別々な、明確にその性格を異にする変化の波が、異なったスピードで、地球上を同時に進行していったのである。
今日では、第一の波は事実上すっかり沈静してしまった。いまだに農業を知らないというのは、たとえば南米とかパプアニューギニアなどに見られる、ごくわずかな小部族を残すのみである。さしもの第一の波の力も、基本的にはすでに消滅してしまったのである。
一方、ヨーロッパ、北アメリカ、そのほか地球上の何か所かで人類の生活をわずか2、3世紀の間に革命的に変えてしまった第二の波は、いまなお基本的には農業社会のままである多くの国ぐににひろがりつつある。つぎつぎに製鉄工場や自動車工場、繊維工場、鉄道、食品加工工場が建設されている。産業化の勢いはいまでもはっきりしていて、第二の波はその勢力をまったく消耗し尽くしたわけではない。
しかし、第二の波がいまだに進行中でありながら、それと平行して、いっそう重要な変化がはじまった。
第二次世界大戦後の20年ほどの間に産業化の波がピークに達すると、まだその正体のはっきりしない第三の波が、地球上のあちこちに押し寄せはじめ、その波に触れるものすべてを変質させていったのである。
したがって、多くの国ぐにが同時に二つ、あるいは三つの、まったく性質を異にする変革の波によって衝撃を受けている。それぞれ変化の速度もちがい、波の背後にある力の強さも異なっている。
本書の目的から言えば、第一の波の時代はほぼ紀元前8000年にはじまり、1650年から1750年頃までほかの勢力の挑戦を受けることなく、地球上を支配していたと考えてよい。そしてこの頃から、第一の波の勢力が衰えはじめ、それと期を同じくして、第二の波が活力を発揮しはじめた。第二の波の産物である産業文明が、今度は地球を席巻し、ついにその頂点までのぼりつめた。この歴史上もっとも新しい転換点は、アメリカを例にとると、ほぼ1955年から65年にかけて起こっている。ちょうどこの10年の間に、ホワイトカラーとサービス産業で働いている人びとの数が、史上はじめてブルーカラーの数をしのいだのである。大幅なコンピューターの導入、ジェット機による観光旅行ブーム、避妊ピルの普及、そのほか多くの衝撃的な変革が相次いだのも、この10年間であった。この10年間こそ、アメリカにおいて、第三の波がその勢力をたくわえた時期だったのである。それ以後、ほとんど時を同じくしてイギリス、フランス、スウェーデン、西ドイツ、ソビエト、日本など、大部分の産業国においても同じ現象が起こっている。今日、高度の工業技術を持つ国は、第二の波の時代おくれの装飾をほどこされた経済をはじめ諸制度と、第三の波との間に生じる衝突を目のあたりにして、例外なく動揺を続けている。
この点を理解してはじめて、われわれの周囲で起こっているさまざまな政治的、社会的軋轢の意味をきちんと理解することができるのである。
未来の波
どんな社会であっても、きわだった変化の波がただひとつであれば、未来へ向ってその社会がどのようなパターンで発展していくかは、比較的見分けやすい。作家、画家、ジャーナリスト、そのほかさまざまな人が未来の波を発見する。したがって、19世紀のヨーロッパでは、多数の思想家、実業界の指導者、政治家、それに一般の人びとですら、未来について明確な、基本的には正確といってよいイメージを持っていた。機械化されていない農業に対する工業の究極的勝利に向って歴史が動いていくことを感知できたし、その勝利とともに、第二の波がもたらすさまざまな変化を、かなり正確に見通していた。つまり、より強力なテクノロジー、より大規模な都市、より高速化する輸送機関、大衆教育、等々である。
このように未来像がはっきりしていたということは、政治に直接影響があった。政党や政治運動はまるで三角法で測定するように、未来を測定することが可能だったのである。旧勢力である農業関係者は団結して、徐々に侵蝕してくる産業主義を相手に、大企業や「組合のボス」、「悪の巣窟である都市」などに対し、最後の一線を防衛していればよかった。労働者と資本家は、幕が上がりつつある産業社会のいちばん大切な操縦棹を、どちらが握るかを争っていればよかった。少数民族は、自分たちの権利を産業社会における待遇改善にしぼり、採用に関しての門戸解放、昇進の機会均等、都市における住宅の確保、賃金の引き上げ、公立学校による義務教育などを要求した。
この産業中心的な未来のビジョンは、心理的にも重要な影響力があった。人びとは常に対立し、激しい、時には血みどろの闘争をくりひろげたこともあったと言ってよい。不況とにわか景気が生活を混乱させたこともあったであろう。にもかかわらず、概して言えば、世間に流布したこの産業中心の未来像は、人びとの選択の幅を限定し、ひとりひとりの人間は、単に自分が現在どういう状態に置かれているかがわかっていただけでなく、自分の将来についても、およそその見通しを持っていた。つまり、きびしい社会的変化のさなかにあっても、ある程度の安定感と、自己についてのはっきりした概念を持ちえたのである。
これに対して、社会が二つないしそれ以上の変化の大波に襲われ、しかも、そのいずれが優位に立つのかがまだはっきりしない段階では、未来像は分裂せざるをえない。変化と、それについてひき起こされる軋轢の意味をきちんと位置づけることが、ひどくむずかしくなる。波がしらと波がしらがぶつかり合って海は大荒れになり、本流とは関係ない渦が、一面にさかまく状態になってしまう。そのために、その奥低は流れる、より重要な歴史の潮流を見失ってしまうのである。
今日、アメリカでは-ほかの多くの国の場合でも同じことが-第二の波と第三の波のぶつかり合いが社会的緊張を生み、危機的闘争が展開されている。階級、人種、性、あるいは党派といった常識的区分を超越した、奇妙に新しい政治的波がしらが生じている。この軋轢が伝統的な政治用語をまったく無効にしてしまい、進歩主義者と反動主義者、盟友と仇敵の区分さえ、ひどく困難にしている。旧時代の分裂や連携が、すべてご破算になってしまう。労働組合と経営者が立場の差にかかわらず、一致して環境保護論者と対立するかと思えば、かつて人種差別に対する闘争で手をとりあっていた黒人とユダヤ人が、敵味方に分かれて反目したりする。
多数の国において、所得の再配分といった「進歩的」政策にこれまで好意的であった労働者階級が、今ではしばしば女性の権利拡大、家庭のあり方、移民の受け入れ、関税引き下げ、市民運動などに対し、「反動的」立場をとっている。伝統的な「左翼」が、しばしば中央集権や極端なナショナリズムに走り、環境保護論者と対立したりする。
また、政治家を見ると、ジスカールデスタン仏大統領、ジミーカーター米大統領、ジェリー・ブラウン・カリフォルニア州知事にいたるまで、経済政策については「保守的」態度をとる一方で、芸術、性道徳、女性の権利、あるいは環境規制などについては、「リベラル」な態度をとっている。これでは、一般大衆がとまどいを感じ、自分たちが住んでいる世界を理解する努力を放棄してしまうのも無理はない。
また、マスコミはマスコミで、進歩と後退をくりかえし、たえず予想外な出来事を報道している。暗殺、誘拐、人工衛星の打ち上げ、政府の崩壊、コマンド部隊の奇襲作戦、汚職-どれもこれも外面的には相互に無関係のように見える。
明らかに支離滅裂な観を呈する政治情勢が個人生活に投影されて、人びとの不適応症をひどくしている。精神分析医や神がかりの治療師が大繁盛で、多数の人びとがさまざまな精神療法めぐりをはじめ、信者の獲得競争にまき込まれてあてどもなくさまよっている。宗教儀礼や魔女の集会といってもよいものにもぐり込んでしまうか、さもなければ病的な悲観主義におちいる。この世は不条理で狂っており、意味がないのだと思い込んでしまう。たしかに人生は大きな宇宙的見地から見れば、取るに足らないであろう。事実、かくされてはいるが、明確な秩序が厳然と存在するのであって、それは、第三の波による変化と、いまや力がおとろえつつある第二の波による変化とを峻別する術さえ心得れば、すぐに看破できる。
この二つの波がしらのぶつかりあいによって起こる矛盾を理解することによって、われわれは未来についていまよりはっきりしたイメージを持つことができるだけでなく、われわれが歴史に対して個人としてどんな役割を果たしうるかについても、洞察力を与えられることになるのだ、というのは、いかに一見微力なようでも、われわれひとりひとりがいわば生きている部品となって、歴史を形成していくほかはないからである。
変化の波と波がぶつかり合って生じる激流は、職業、家庭生活、性的行動、個人的倫理観などに反映する。それはライフスタイルや選挙の際の投票行動などにも、はっきりあらわれてくる。なぜなら、個人生活においても政治的行動に際しても、物質的に恵まれた国に住むわれわれは、自覚しようとしまいと、本質的には以下の三つの生き方のどれかしかできないからである。消滅の運命にある秩序を維持しようとする第二の波の人間であるか、現在とは根本的にちがう明日を築こうとしている第三の波の人間であるか、それとも、それら二者の中間、つまり混乱しながら、少しずつ自己消滅していくか、そのいずれかでしかありえないのである。
金ブームに踊る投機狂から暗殺まで
第二の波のグループと第三の波のグループとの対立が、実は、われわれの社会に蔓延している政治的緊張関係の主要な原因になっている。今日、政党や候補者がどんな政見を発表しようと、かれらの間の内部抗争は、下降線をたどりつつある産業中心主義体制から、だれがいちばん大きな利益を絞り出すかの争いにほかならないと考えてよい。別の言い方をすれば、よく使われるたとえだが、政治家たちは沈没しかけているタイタニック号で、デッキチェアの奪い合いをやっているようなものだ。
より基本的な政治問題は、これから明らかにするように、だれが産業社会の末期を支配するかではなく、急速に産業社会にとって代わりつつある新しい文明を、だれが具体化していくかということである。われわれがその場その場の政治的小競り合いに目を奪われ、それに精力や注意力を使い果たしている間に、表面には見えないが、はるかに本質的な闘いがすでにはじまっているのだ。一方にまだ過去の産業中心主義の熱烈な支持者がいることはいるが、他方、食糧、エネルギー、軍縮、人口、貧困、資源、環境、気候、高齢化社会、都市における共同体の崩壊、生産性が高く、高い賃金を得られる仕事の必要性など、世界のもっとも緊急な課題が、もはや産業主義体制の枠のなかでは解決できないことを認識しはじめた人たちが、何百万という単位で、ふえつつある。
この両者の対立こそ、ここで言う「明日への大闘争」にほかならない。
第二の波の既得権を手放すまいとする人びとと、第三の波の世界を生きようとする人びととの間の対決は、すでに各国の政治をとおして、電流のように急速に伝播している。非工業国においてさえ、押し寄せる第三の波によって、これまでの戦線はいや応なしに書き変えられてしまった。農業社会の、多くの場合封建制度的特権階級と、産業社会のエリートとの間のこれまでの闘いは、資本主義体制下であれ社会主義体制下であれ、現実化しつつある産業主義の退潮によって、新しい様相を呈することになった。第三の波による文明が出現しつつある現在、急速な産業化は新植民地主義と貧困からの解放を意味するのだろうか、それとも実際には、属国状態の永続を保証するものでしかないのか。
こうした広範な背景を頭に入れてはじめて、われわれは新聞の見出しの意味がわかるようになる。なにがわれわれにとってより重要なのか、どうやって自分たちの生活の変化をコントロールする賢明な戦略を立てたらよいか、それが理解できるようになる。
この本を書いている現在、新聞の一面には、イランの政治的混乱と人質問題、韓国の朴大統領暗殺、急騰する金への投機、アメリカにおける黒人とユダヤ人との反目、西ドイツの軍事予算の大幅増、ロングアイランドにおける火刑の執行、メキシコ湾における大量の石油流出、史上最大の核反対集会、放送用周波数の割り当てをめぐる経済大国と小国との対立などが報じられている。宗教的な覚醒運動も、リビア、シリア、アメリカなどでつぎつぎに隆盛化の気運を見せており、狂信的なネオ・ファシストたちは、パリにおける政治的暗殺の正当性を主張している。またゼネラル・モーターズは、電気自動車開発のための技術的障害を克服したと発表している。こうしたばらばらな新聞記事に、一貫した統合性を与えることが急務である。
産業中心主義を維持しようとしている人びとと、それに代わる時代を切り拓こうとしている人びととの間で、現在、熾烈な戦いがくりひろげられている。このことさえはっきり認識すれば、われわれは世界情勢を理解するための、強力な鍵を手にしたことになる。それ以上に大切なことは、国家の政治にたずさわっていようと、企業の戦略を練っていようと、あるいは自分個人の生活上の目標を追求していようと、われわれは世界を変えるための、新しい道具を手にすることである。
しかし、この道具を使いこなすためには、古い産業中心の文明を延命させる変化と、新しい文明の到来を容易にする変化とを峻別しなければならない。要するに、新旧両方の社会、われわれ大部分の者が生きていた、第二の波の産業中心の社会体制と、これからわれわれ自身およびわれわれのこどもたちが生きていくことになる第三の波の文明を、両方とも理解しなければならないのである。
以下の各章では、第三の波の世界を探究する準備として、第一、第二の波による変化を、もうすこし詳細に見てみることにしよう。われわれは、第二の波の文明がけっして行き当たりばったりの要素の寄せ集めではなく、多かれ少なかれ予測可能な、相互に関連性を持った部分から成るひとつの体系だということを理解できるはずである。また、産業中心の社会での生活の基本的なパターンは、文化の伝統や政治制度の相違にかかわりなく、どの国においても同じだということも理解できるであろう。これが実は、今日の反動主義者たちが-「左翼」であれ「右翼」であれ-なんとかして維持しようとしている文明なのである。そして、それこそ、文明の歴史のなかで、変革をせまる第三の波によっておびやかされている世界なのである。
Alvin Toffler; The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山次郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳
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ぶつかり合う波
第一章 明日への大闘争
いま、われわれの生活のなかに、これまでになかった文明が出現しようとしている。そして、そのことに気がつかない人びとが、あちこちでそれを阻止しようとしている。この新しい文明とともに、新しい家庭像が生まれ、仕事、恋愛、生活の実態が変化し、経済も新しくなり政治もまた新しいものとなる。なにより大きいのは、意識の変革が平行して起こることである。部分的には、現在すでにこの新しい文明は、その姿をあらわしている。早くも無数の人びとが、自分たちの生活を明日の生活のリズムに合わしている。その一方で、未来を怖れるがゆえに一生懸命過去へ逃避し、前向きの姿勢も示さず、ただいたずらに自分たちが生を享けた時代の、すでに死にかけている世界を懸命に守ろうとしている人びともいる。
この新しい文明の出現こそ、われわれの一生のうちでも、ほかに比肩するもののない、もっとも衝撃的な事実である。
それは、歴史の動向を支配する中心的な出来事であり、このさき何年かの動きを理解する鍵でもある。
この新しい文明の出現は、一万年前の農業のはじまりによって引き起こされた第一の波、および産業革命によって口火が切られ、またたく間に地球上を席巻した第二の波と同様に、社会を根底から変革する大きな出来事である。われわれは、これら二つの変革に次ぐ、第三の波に洗われる時代に生きているのだ。
われわれはこの途方もない変革の圧倒的な力と、その広範な影響を表現するのにふさわしい言葉を模索している。「宇宙時代」の到来を口にする者があるかと思えば、「情報化時代」、「電子工学時代」などと言う人もいる。カナダの文化史学者マーシャル・マクルーハンは、通信の発達によって地球上のすべての人間が、一つの村の一員としての意識を持つようになると考え、「地球村」という造語を提唱した。カーター大統領の国家安全保障問題特別補佐官ピグニュー・プレジンスキーは、われわれ人類は「技術・電子工学時代」に突入しつつある、と言ったことがある。テクノロジーとエレクトロニクスの衝撃によって、経済的にも文化的にも変質しつつある現在社会の特質を表現しようとしたものであろう。また、アメリカの社会学者ダニエル・ベルは来るべき社会を、「脱産業化社会」と規定している。そのほか、ソ連の未来学者は「科学・技術革命(S・T・R)」ということを言っているし、私自身、「超産業社会」という表現によって、新しい時代の到来について包括的な記述をしたことがある。しかし、私自身の言い方を含めて、これらの言葉はどれひとつとして、十分適切な表現であるとは言いがたい。
これらの表現のなかには、変化のひとつの要素だけに焦点を合わせているために、問題を敷衍して捕えることができず、われわれの理解を挟めてしまうものもある。また、あるものは静的な表現に過ぎ、新しい社会が既存の価値体系との対立も緊張関係もないまま、スムーズにわれわれの生活のなかで実現するかのような印象を与える。われわれ現代人に押し寄せている変化、またはその変化がきっかけで起こる社会的圧力や軋轢がいかに情容赦のない激しいものであり、どれほど広大な範囲に強力な影響をおよぼすかということになると、これらの表現では、とうていその全体像を言いあらわしうるとは思えない。
人類は未来に向かって、一大飛躍の時期にさしかかっている。社会を根底からゆるがす大変動、かつてない新しい文明をつくり出す変革に直面しているのだ。明確には意識しないままに、われわれはいま、まったく新しい、注目に価する文明を、その基盤から築き上げようとしているのである。これこそ、第三の波の意味するところである。
人類はこれまで、大変革の波を二度経験している。それぞれの波は、変革以前の文化、あるいは文明を大幅に時代おくれにしてしまい、前の時代に生きていた人間には想像すらできなかった生活様式を一般化した。第一の波による農業革命は数千年にわたってゆるやかに展開された。産業文明の出現による第二の波の変革は、わずか300年しかかからなかった。今日では、歴史の進行はさらに加速されており、第三の波はせいぜい2、30年で歴史の流れを変え、その変革を完結するのではないだろうか。したがってわれわれは、たまたまこの衝撃的な時代に地球上で運命を共にするわけだが、自分たちが生きている間に、第三の波の衝撃をまともに受けることになるであろう。
第三の波はわれわれの家族関係を崩壊させ、経済の基盤をゆるがし、政治体制を麻痺させ、価値体系を粉砕してすべての人間に影響をおよぼす。それはすべての古い権力関係に挑戦する。またその地位をおびやかされはじめた現在社会のエリートたちの特権や特典に対しても、挑戦を開始している。そして、この波が未来に向けて展開される主要な権力闘争の背景をなすことになる。
第三の波は、まったく新しい生活様式をもたらす。その基盤となるのは、多種多様な、再生可能なエネルギー資源であり、大半の流れ作業による工場生産を時代おくれにしてしまう新しい生産方式である。また、核家族とは異なった新しい家族形態、「エレクトロニック住宅」とでも言うべき新しい職住一致の生活、様相を一変する未来の学校や企業などもその基盤となる。来るべき文明は、われわれの新しい行動規範を打ち立て、第二の波の社会の特徴である規格化、同時化、中央集権化といった産業社会の制約を乗り越え、エネルギー、富、権力の集中化を越える道を拓いてくれる。
この新しい文明は、一方で旧体制を打破しながら、今日の官僚制度を崩壊に導き、国民国家の役割を弱め、帝国主義の桎梏を脱した世界に半自立経済を発生させる。新しい文明は今日より簡素で、より効率的な政府、しかもこれまで地球上に存在したいかなる政府より、いっそう民主的な政府を必要とする。それは独自の世界観を持った文明であり、時間、空間、論理、因果関係についても、独得の考え方を伴っている。
とりわけ重要なことは、後述するように、産業革命によって分離を余儀なくされた生産者と消費者をふたたび融合させ、「生産=消費者(プロダクトコンシュマー)」とでも言うべき存在に支えられた、明日の経済をつくりだすことである。こうした理由からだけでも、新しい文明は、われわれが多少知的な努力さえすれば、歴史上はじめて人間性に溢れた文明になりうるはずである。
革命的前提
今日、二つの明らかな対照的な未来像が、一般の人びとの想像力を拘束している。多くの人びとは、われわれの知っている世界が際限なく続いていくと考えている。現状に安心しきっていて、少しでも未来のことなど考えるのはめんどうだ、と思っている。自分たちがまったくいまとちがった暮らし方をするなどということは、想像することもできない。ましてや文明が全面的に新しい様相を呈することになるなど、思ってもいない。もちろんかれらも、物事が変化しているのは認める。しかし、現在進行中の変化は、ともかく自分たちの傍を通りすぎていくだけで、慣れ親しんできた経済機構や政治体制は、微動だにもしないと決め込んでいるのだ。未来は現在の延長線上にある、と信じて疑わないのである。
この直線的な思考は、さまざまな形態をとってあらわれる。けっして検証されることのない思い込みは、単純な段階では、ビジネスマンや教師、親、政治家などが決定をくだす際の前提になっている。もう少し高度の段階では、こうした考え方が統計とかコンピューターのはじき出すデータ、未来学者の専門用語などですっかり粉飾されて、世の中をまかり通る。いずれにせよ帰するところは、未来の社会も本質的には現在と大差はない、ということに尽きる。つまり、第二の波による産業主義がいよいよ巨大化し、地球はさらに産業主義一色に塗りつぶされていく、というのである。
最近のさまざまな出来事は、こうした確信に満ちた未来像を、激しきゆさぶっている。イランに吹き荒れた政変の嵐、毛沢東の非神格化、石油価格の急騰とインフレの狂乱、テロの蔓延、それを阻止できない観のある政府など、危機につぐ危機が新聞の見出しをにぎわし、未来に対する暗い見通しが、ますます一般化しつつある。間断なく提供される暗いニュース、地球の終末を描く映画、聖書の黙示録の物語、一流のシンクタンクが発表する悪夢のような未来予測などをすっかり信じこんだ結果、多くの人びとが、今日の社会が未来も存続することはありえない、と推断してしまった。もともと未来そのものがないのだ、と
言うのである。かれらにとって、黙示録の説く世界壊滅戦は目前にせまっているのであり、地球はおそるべき終末に向って疾走を続けている。
表面的には、これら二つの未来像は非常に異なっているように見える。しかし、心理的にも政治的にも、この二つは似たような効果を生む。というのは、両方とも想像力と意志とを麻痺させてしまうからである。
実のところ、もし明日の社会が現在の拡大版、シネラマ化にすぎないとしたら、われわれは未来に対して、さして準備すべきことはない。反面、もし社会がわれわれの生きている間に自滅する運命を避けられないとすれば、これまた、われわれとしてはそれに対して、なす術もないわけである。要するに、未来に対するこうした見方は、どちらも自分のことを考えるのに汲々とした、受動的な生き方を招来するだけなのだ。どちらも、われわれの行動を凍結させてしまう。
しかし、われわれの身のまわりに起こりつつある事態を理解しようとすれば、こうした終末論か、それともいまと変らぬ未来かといった、単純な選択しかないわけではない。明日についてはさまざまな、もっとはっきりした、建設的な考え方ができる。明日にどう備えたらよいのか、さらにいっそう大切なことだが、現在をどう変えていったらよいのか、こうした指針をわれわれに与えてくれるような考え方があるのだ。
この本は、私が「革命的前提」と名づける考え方にもとづいている。今後2、30年間は動乱と激動に満ちた、おそらくいま以上に暴力的風潮が蔓延する時代になるだろうが、われわれは全面的に自滅することはありえない、という考え方である。われわれがいま経験している衝撃的な変化は、けっして混乱でも行き当りばったりのものでもない。実際には、はっきり見分けることのできるパターンがあるはずだ、という前提に立っている。さらに、こうした変化は累積的なもので、変化が積もり積もってわれわれの生活、仕事、遊び、思考の様式をすっかり変えてしまい、健全な、望ましい未来がやってくるというのが、革命的前提である。要するに、以下に展開する本書の内容は、現在起こりつつある事態が全地球的な革命、歴史上の突然変異的な飛躍にほかならない、という前提から出発しているのである。
別の言い方をすれば、この本の出発点になっている前提は、われわれが古い文明の最後の世代であり、新しい文明の最初の世代だということである。われわれの個人的な混乱、苦悩、方向感覚の喪失は、われわれ自身の精神、あるいはわれわれを取りまく政治体制のなかでくりひろげられている闘争の反映であって、それはもはや死期の迫った第二の波の文明と、それに代わろうとしている第三の波の新しい文明との間の相克を、直接反映するものとして跡づけることができる。
結局、このことさえ理解してしまえば、一見無意味な出来事のすべてが、急にはっきりわかってくる。変化の広範なパターンが、くっきりと見えてくる。生き残るための行動を起こすことがふたたび可能になり、またそうすべきだということになる。要するに、革命的前提は、われわれの知性と意志を解放してくれるのである。
波の方向
しかし、われわれの直面している変化が革命的だというだけでは、十分でない。それらの変化を方向づけ、コントロールするためには、歴史の変化の本流を見きわめ、それを分析する新しい手法が必要である。この方法を持たなければ、われわれは自失の状態に置かれることになるだろう。
ひとつの強力な、新しいアプローチは、社会の変化の波がしらの分析、とでも言えようか。次つぎとうねりを見せる変化の波の連続が歴史であると考え、おのおのの波の力がわれわれをどこへ運ぼうとしているのか、それを見定めることである。歴史の連続性もむろん大切だが、この手法は、むしろその非連続性、断続と革新に注目する。変化の鍵となるパターンを見きわめれば、そうしたパターンに対する影響力をどのようにでも行使できるだろう。
農業の出現を人間社会の発展の最初の転換点とし、産業革命を第二の大きな前進とする単純明快な考え方から出発したが、この考え方はこれらの二つの変革を、それぞれ個別の、一過性の出来事と見ているわけではない。一定の速度を持った、変化の波と考えているのである。
第一の波による変化が起こる以前、人類の大半は小グループに分かれ、各地を放浪しながら生活しており、採集、漁労、狩猟、牧畜で食糧を獲得していた。それがある時点、ごく大雑把に言って一万年ほど前に、農業革命がはじまり、地球上に徐々にひろまっていくとともに、村や集落や耕作地ができ、新しい生活様式がひろまっていった。
この第一の波による変化は、ヨーロッパに産業革命が勃興し、第二の大きな世界的変革の波が押し寄せてきた17世紀の末には、まだ命脈を保っていた。この新しい変化、産業化は、第一の波による変化よりはるかに急速に、国から国へ、大陸から大陸へとひろがっていった。こうして二つの別々な、明確にその性格を異にする変化の波が、異なったスピードで、地球上を同時に進行していったのである。
今日では、第一の波は事実上すっかり沈静してしまった。いまだに農業を知らないというのは、たとえば南米とかパプアニューギニアなどに見られる、ごくわずかな小部族を残すのみである。さしもの第一の波の力も、基本的にはすでに消滅してしまったのである。
一方、ヨーロッパ、北アメリカ、そのほか地球上の何か所かで人類の生活をわずか2、3世紀の間に革命的に変えてしまった第二の波は、いまなお基本的には農業社会のままである多くの国ぐににひろがりつつある。つぎつぎに製鉄工場や自動車工場、繊維工場、鉄道、食品加工工場が建設されている。産業化の勢いはいまでもはっきりしていて、第二の波はその勢力をまったく消耗し尽くしたわけではない。
しかし、第二の波がいまだに進行中でありながら、それと平行して、いっそう重要な変化がはじまった。
第二次世界大戦後の20年ほどの間に産業化の波がピークに達すると、まだその正体のはっきりしない第三の波が、地球上のあちこちに押し寄せはじめ、その波に触れるものすべてを変質させていったのである。
したがって、多くの国ぐにが同時に二つ、あるいは三つの、まったく性質を異にする変革の波によって衝撃を受けている。それぞれ変化の速度もちがい、波の背後にある力の強さも異なっている。
本書の目的から言えば、第一の波の時代はほぼ紀元前8000年にはじまり、1650年から1750年頃までほかの勢力の挑戦を受けることなく、地球上を支配していたと考えてよい。そしてこの頃から、第一の波の勢力が衰えはじめ、それと期を同じくして、第二の波が活力を発揮しはじめた。第二の波の産物である産業文明が、今度は地球を席巻し、ついにその頂点までのぼりつめた。この歴史上もっとも新しい転換点は、アメリカを例にとると、ほぼ1955年から65年にかけて起こっている。ちょうどこの10年の間に、ホワイトカラーとサービス産業で働いている人びとの数が、史上はじめてブルーカラーの数をしのいだのである。大幅なコンピューターの導入、ジェット機による観光旅行ブーム、避妊ピルの普及、そのほか多くの衝撃的な変革が相次いだのも、この10年間であった。この10年間こそ、アメリカにおいて、第三の波がその勢力をたくわえた時期だったのである。それ以後、ほとんど時を同じくしてイギリス、フランス、スウェーデン、西ドイツ、ソビエト、日本など、大部分の産業国においても同じ現象が起こっている。今日、高度の工業技術を持つ国は、第二の波の時代おくれの装飾をほどこされた経済をはじめ諸制度と、第三の波との間に生じる衝突を目のあたりにして、例外なく動揺を続けている。
この点を理解してはじめて、われわれの周囲で起こっているさまざまな政治的、社会的軋轢の意味をきちんと理解することができるのである。
未来の波
どんな社会であっても、きわだった変化の波がただひとつであれば、未来へ向ってその社会がどのようなパターンで発展していくかは、比較的見分けやすい。作家、画家、ジャーナリスト、そのほかさまざまな人が未来の波を発見する。したがって、19世紀のヨーロッパでは、多数の思想家、実業界の指導者、政治家、それに一般の人びとですら、未来について明確な、基本的には正確といってよいイメージを持っていた。機械化されていない農業に対する工業の究極的勝利に向って歴史が動いていくことを感知できたし、その勝利とともに、第二の波がもたらすさまざまな変化を、かなり正確に見通していた。つまり、より強力なテクノロジー、より大規模な都市、より高速化する輸送機関、大衆教育、等々である。
このように未来像がはっきりしていたということは、政治に直接影響があった。政党や政治運動はまるで三角法で測定するように、未来を測定することが可能だったのである。旧勢力である農業関係者は団結して、徐々に侵蝕してくる産業主義を相手に、大企業や「組合のボス」、「悪の巣窟である都市」などに対し、最後の一線を防衛していればよかった。労働者と資本家は、幕が上がりつつある産業社会のいちばん大切な操縦棹を、どちらが握るかを争っていればよかった。少数民族は、自分たちの権利を産業社会における待遇改善にしぼり、採用に関しての門戸解放、昇進の機会均等、都市における住宅の確保、賃金の引き上げ、公立学校による義務教育などを要求した。
この産業中心的な未来のビジョンは、心理的にも重要な影響力があった。人びとは常に対立し、激しい、時には血みどろの闘争をくりひろげたこともあったと言ってよい。不況とにわか景気が生活を混乱させたこともあったであろう。にもかかわらず、概して言えば、世間に流布したこの産業中心の未来像は、人びとの選択の幅を限定し、ひとりひとりの人間は、単に自分が現在どういう状態に置かれているかがわかっていただけでなく、自分の将来についても、およそその見通しを持っていた。つまり、きびしい社会的変化のさなかにあっても、ある程度の安定感と、自己についてのはっきりした概念を持ちえたのである。
これに対して、社会が二つないしそれ以上の変化の大波に襲われ、しかも、そのいずれが優位に立つのかがまだはっきりしない段階では、未来像は分裂せざるをえない。変化と、それについてひき起こされる軋轢の意味をきちんと位置づけることが、ひどくむずかしくなる。波がしらと波がしらがぶつかり合って海は大荒れになり、本流とは関係ない渦が、一面にさかまく状態になってしまう。そのために、その奥低は流れる、より重要な歴史の潮流を見失ってしまうのである。
今日、アメリカでは-ほかの多くの国の場合でも同じことが-第二の波と第三の波のぶつかり合いが社会的緊張を生み、危機的闘争が展開されている。階級、人種、性、あるいは党派といった常識的区分を超越した、奇妙に新しい政治的波がしらが生じている。この軋轢が伝統的な政治用語をまったく無効にしてしまい、進歩主義者と反動主義者、盟友と仇敵の区分さえ、ひどく困難にしている。旧時代の分裂や連携が、すべてご破算になってしまう。労働組合と経営者が立場の差にかかわらず、一致して環境保護論者と対立するかと思えば、かつて人種差別に対する闘争で手をとりあっていた黒人とユダヤ人が、敵味方に分かれて反目したりする。
多数の国において、所得の再配分といった「進歩的」政策にこれまで好意的であった労働者階級が、今ではしばしば女性の権利拡大、家庭のあり方、移民の受け入れ、関税引き下げ、市民運動などに対し、「反動的」立場をとっている。伝統的な「左翼」が、しばしば中央集権や極端なナショナリズムに走り、環境保護論者と対立したりする。
また、政治家を見ると、ジスカールデスタン仏大統領、ジミーカーター米大統領、ジェリー・ブラウン・カリフォルニア州知事にいたるまで、経済政策については「保守的」態度をとる一方で、芸術、性道徳、女性の権利、あるいは環境規制などについては、「リベラル」な態度をとっている。これでは、一般大衆がとまどいを感じ、自分たちが住んでいる世界を理解する努力を放棄してしまうのも無理はない。
また、マスコミはマスコミで、進歩と後退をくりかえし、たえず予想外な出来事を報道している。暗殺、誘拐、人工衛星の打ち上げ、政府の崩壊、コマンド部隊の奇襲作戦、汚職-どれもこれも外面的には相互に無関係のように見える。
明らかに支離滅裂な観を呈する政治情勢が個人生活に投影されて、人びとの不適応症をひどくしている。精神分析医や神がかりの治療師が大繁盛で、多数の人びとがさまざまな精神療法めぐりをはじめ、信者の獲得競争にまき込まれてあてどもなくさまよっている。宗教儀礼や魔女の集会といってもよいものにもぐり込んでしまうか、さもなければ病的な悲観主義におちいる。この世は不条理で狂っており、意味がないのだと思い込んでしまう。たしかに人生は大きな宇宙的見地から見れば、取るに足らないであろう。事実、かくされてはいるが、明確な秩序が厳然と存在するのであって、それは、第三の波による変化と、いまや力がおとろえつつある第二の波による変化とを峻別する術さえ心得れば、すぐに看破できる。
この二つの波がしらのぶつかりあいによって起こる矛盾を理解することによって、われわれは未来についていまよりはっきりしたイメージを持つことができるだけでなく、われわれが歴史に対して個人としてどんな役割を果たしうるかについても、洞察力を与えられることになるのだ、というのは、いかに一見微力なようでも、われわれひとりひとりがいわば生きている部品となって、歴史を形成していくほかはないからである。
変化の波と波がぶつかり合って生じる激流は、職業、家庭生活、性的行動、個人的倫理観などに反映する。それはライフスタイルや選挙の際の投票行動などにも、はっきりあらわれてくる。なぜなら、個人生活においても政治的行動に際しても、物質的に恵まれた国に住むわれわれは、自覚しようとしまいと、本質的には以下の三つの生き方のどれかしかできないからである。消滅の運命にある秩序を維持しようとする第二の波の人間であるか、現在とは根本的にちがう明日を築こうとしている第三の波の人間であるか、それとも、それら二者の中間、つまり混乱しながら、少しずつ自己消滅していくか、そのいずれかでしかありえないのである。
金ブームに踊る投機狂から暗殺まで
第二の波のグループと第三の波のグループとの対立が、実は、われわれの社会に蔓延している政治的緊張関係の主要な原因になっている。今日、政党や候補者がどんな政見を発表しようと、かれらの間の内部抗争は、下降線をたどりつつある産業中心主義体制から、だれがいちばん大きな利益を絞り出すかの争いにほかならないと考えてよい。別の言い方をすれば、よく使われるたとえだが、政治家たちは沈没しかけているタイタニック号で、デッキチェアの奪い合いをやっているようなものだ。
より基本的な政治問題は、これから明らかにするように、だれが産業社会の末期を支配するかではなく、急速に産業社会にとって代わりつつある新しい文明を、だれが具体化していくかということである。われわれがその場その場の政治的小競り合いに目を奪われ、それに精力や注意力を使い果たしている間に、表面には見えないが、はるかに本質的な闘いがすでにはじまっているのだ。一方にまだ過去の産業中心主義の熱烈な支持者がいることはいるが、他方、食糧、エネルギー、軍縮、人口、貧困、資源、環境、気候、高齢化社会、都市における共同体の崩壊、生産性が高く、高い賃金を得られる仕事の必要性など、世界のもっとも緊急な課題が、もはや産業主義体制の枠のなかでは解決できないことを認識しはじめた人たちが、何百万という単位で、ふえつつある。
この両者の対立こそ、ここで言う「明日への大闘争」にほかならない。
第二の波の既得権を手放すまいとする人びとと、第三の波の世界を生きようとする人びととの間の対決は、すでに各国の政治をとおして、電流のように急速に伝播している。非工業国においてさえ、押し寄せる第三の波によって、これまでの戦線はいや応なしに書き変えられてしまった。農業社会の、多くの場合封建制度的特権階級と、産業社会のエリートとの間のこれまでの闘いは、資本主義体制下であれ社会主義体制下であれ、現実化しつつある産業主義の退潮によって、新しい様相を呈することになった。第三の波による文明が出現しつつある現在、急速な産業化は新植民地主義と貧困からの解放を意味するのだろうか、それとも実際には、属国状態の永続を保証するものでしかないのか。
こうした広範な背景を頭に入れてはじめて、われわれは新聞の見出しの意味がわかるようになる。なにがわれわれにとってより重要なのか、どうやって自分たちの生活の変化をコントロールする賢明な戦略を立てたらよいか、それが理解できるようになる。
この本を書いている現在、新聞の一面には、イランの政治的混乱と人質問題、韓国の朴大統領暗殺、急騰する金への投機、アメリカにおける黒人とユダヤ人との反目、西ドイツの軍事予算の大幅増、ロングアイランドにおける火刑の執行、メキシコ湾における大量の石油流出、史上最大の核反対集会、放送用周波数の割り当てをめぐる経済大国と小国との対立などが報じられている。宗教的な覚醒運動も、リビア、シリア、アメリカなどでつぎつぎに隆盛化の気運を見せており、狂信的なネオ・ファシストたちは、パリにおける政治的暗殺の正当性を主張している。またゼネラル・モーターズは、電気自動車開発のための技術的障害を克服したと発表している。こうしたばらばらな新聞記事に、一貫した統合性を与えることが急務である。
産業中心主義を維持しようとしている人びとと、それに代わる時代を切り拓こうとしている人びととの間で、現在、熾烈な戦いがくりひろげられている。このことさえはっきり認識すれば、われわれは世界情勢を理解するための、強力な鍵を手にしたことになる。それ以上に大切なことは、国家の政治にたずさわっていようと、企業の戦略を練っていようと、あるいは自分個人の生活上の目標を追求していようと、われわれは世界を変えるための、新しい道具を手にすることである。
しかし、この道具を使いこなすためには、古い産業中心の文明を延命させる変化と、新しい文明の到来を容易にする変化とを峻別しなければならない。要するに、新旧両方の社会、われわれ大部分の者が生きていた、第二の波の産業中心の社会体制と、これからわれわれ自身およびわれわれのこどもたちが生きていくことになる第三の波の文明を、両方とも理解しなければならないのである。
以下の各章では、第三の波の世界を探究する準備として、第一、第二の波による変化を、もうすこし詳細に見てみることにしよう。われわれは、第二の波の文明がけっして行き当たりばったりの要素の寄せ集めではなく、多かれ少なかれ予測可能な、相互に関連性を持った部分から成るひとつの体系だということを理解できるはずである。また、産業中心の社会での生活の基本的なパターンは、文化の伝統や政治制度の相違にかかわりなく、どの国においても同じだということも理解できるであろう。これが実は、今日の反動主義者たちが-「左翼」であれ「右翼」であれ-なんとかして維持しようとしている文明なのである。そして、それこそ、文明の歴史のなかで、変革をせまる第三の波によっておびやかされている世界なのである。