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アルビン・トフラー研究会(勉強会)  

アルビン・トフラー、ハイジ夫妻の
著作物を勉強、講義、討議する会です。

第四章 暗号の解読(2-1)

2014年10月22日 22時30分46秒 | 第三の波
March,1980
Alvin Toffler; The Third Wave, William Morrow, New York, 1980
第三の波 昭和55年10月1日 第1刷発行 アルビン・トフラー著 徳山次郎 監修
鈴木建次 菅間 昭 桜井元雄 小林千鶴子 小林昭美 上田千秋 野水瑞穂 安藤都紫雄 訳

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第四章  暗号の解読(2-1)

 いかなる文明にも、表面にはあらわれない、その文明固有の暗号がある。ここで言う暗号とは、ひとつの文明のあらゆる活動の底に流れているいくつかの法則、あるいは原則を集大成したもの、と言ってよい。それは、さまざまなケースに姿をあらわすその文明の、基本的構図のようなものである。産業主義が地球上を席巻していくにつれ、それまで表面にあらわれなかった、この文明特有の基本的構図が、次第に明らかになってきた。それは、相互に密接な関連性を持つ六つの原則から成り立っており、この六原則が今日まで、何百万、何千万という人間の行動を規制してきたのである。この原則は、前の章で述べた生産と消費との決定的な分離から派生したものであり、われわれの生活に見受けられる、あらゆる亀裂にかかわってきた。その影響は性やスポーツから、労働、戦争などにまでおよんでいる。
今日、学園、企業、あるいは政府部内で、激しい闘争が続出しているが、その多くは、この六つの原則をめぐっての闘いである。第二の波の人間は、本能的にこの六原則を適用し、自分たちの文明を支えているこの原則を守ろうとするし、第三の波の人間は、それに挑戦し、原則自体に攻撃を加えているのだ。そのことは、本書で次第に明らかにされるであろう。

規格化
第二の波を支えている六原則のなかで、もっともわかりやすいのは、「規格化」である。産業社会が無数の規格品を生産することは、だれもが知っている。しかし、ほとんどの人が見過ごしているのだが、いったん市場の果たす役割が大きくなると、規格化されるのは、コカコーラのびん、白熱球、自動車のトランスミッションといった類だけではなかった。人間は、規格化の原則を、そのほか多くの事物に適用したのだ。このことの重要性を最初に理解したひとりが、セオドア・ベイルであった。彼は今世紀のはじめ、アメリカ電信電話会社(AT&T)を設立し、巨大企業にまで成長させた人物である。
 1860年代の末、鉄道郵便の事務員をしていたベイルは、郵便物の宛先が同一の場合でも、配達ルートは必ずしも同一ではない、という事実に着目した。郵便袋は目的地へ着くまでにあちこちを行ったり来たりして、目的地へ着くのに数週間かかることもあれば、数ヶ月かかることもあった。そこで彼は、配達ルートの規格化という考えを導入した。宛先が同一の手紙はすべて同一の経路で配達される、という考え方で、これによって、彼は郵便事業の革命をなし遂げたのである。その後、彼はAT&Tを創立した際に、今度は、アメリカ中の家庭用電話機を全部黒の規格品に統一してしまった。
ベイルは受話器をはじめ、すべての部品を規格化したばかりでなく、AT&Tの業務の手順、管理体系まで規格化した。彼は1908年に中小電話会社をいくつか吸収合併したが、その正当性を主張して、次の点を強調した。「規格化の進んだ工場を中央で管理することによって、交換業務、法律問題の処理といった分野で経費の節約が可能であると同時に、電線、電線管そのほか施設の建設費の節減も見込まれる。さらに交換業務と料金計算が一本化されることによる経費の削減については、言うまでもない。」第二の波の世界で成功するためには、ハードウェアに合わせて業務の手順とか管理上の日常業務など、ソフトウェアをすべて規格化しなければならないということを、彼はよく理解していたのである。
ベイル以外にも、産業社会を育成した「偉大な規格化推進者」は大勢いる。もうひとりの例は、アメリカの発明家フレデリック・ウインスロー・テイラーである。もともと機械修理工で、のちに機械礼讃者となった彼は、労働者ひとりひとりが従事する仕事の段取りを規格化することによって、労働は「科学的」に行なわれる、と確信していた。今世紀初頭、テイラーは、ひとつの仕事に対して最良の方法はただひとつしかなく、その仕事をするのに最適な道具もただひとつしかない、という結論をくだした。仕事の手順や道具はそれに合わせて規格化すべきであり、さらにまた、その仕事を完成するのに必要な時間についても、規格化された作業時間を設定すべきだ、というのが彼の主張であった。
こうした哲学で理論武装したテイラーは、世界有数のマネジメントの教祖となり、生前没後を通じて、フロイト、マルクス、フランクリンなどと並び称された。「高能率熟練工」「出来高払い制度」「超高能率労働者」といった言葉に彩られたテイラー主義を礼讃したのは、しぼれるだけしぼったはずの労働者の生産性をなおも高めることに熱意を燃やしていた、当時の資本主義社会の雇用主だけではなかった。賞賛主義の立場に立つ人びとも同じようにテイラーに夢中だったのである。レーニンは、彼の方法を社会主義にもとづく生産の場にも、活用すべきだと主張した。レーニンはロシアを工業化することを第一の目的として共産主義者になったような人だが、規格化の熱心な信望者という点では人後におちなかったのである。
第二の波の社会では、労働そのものの規格化とともに、雇用手続きまで、次第に規格化が進んでいった。規格化された試験によって、仕事に向かないと思われる人間を見きわめ、排除した。これは行政事務の分野で、とくに著しかった。全産業を通じて、基準賃金が決められるようになり、賃金以外の福利厚生、昼食時間、休日、苦情申し立て手続きなどに関しても、同じように規格化が進んだ。若年層を労働市場へ送り込むために、教育関係者は規格化されたカリキュラムを立てるようになった。ターマンや、ビネのような人びとが、規格化された知能テストを考案した。学校の採点法、入学試験のやり方、卒業資格についての規定なども、同じように規格化された。〇×式試験もすっかり一般化した。
一方、マスメディアも規格化されたイメージを普及させた。何百万、何千万という人びとが同じ広告、同じニュース、同じ短編小説を読むようになったのだ。中央政府による少数民族の言語の抑圧、それにマスコミの影響も加わって、次第に方言は姿を消すようになった。なかにはウエールズ語やアルザス語のように、一地域の言語がそっくり姿を消しそうになった例もある。米語、英語、フランス語という標準的な言語が、標準からはみ出た言語にとって代わってしまった。この点、ロシア語にも同じことが言える。かつては、さまざまに異なった顔を持っていたはずの地域が、どこへ行っても同じようなガソリンスタンド、広告板、ありふれた住宅などしか見当たらなくなり、地方色がすっかり失ってしまった。「規格化」の原則は、日常生活のあらゆる面で進行していたのである。
さらに詳しく、この点を見てみよう。産業革命後の文明は、重量や長さの測り方の規格化を必要とした。前産業時代のヨーロッパでは、どこでも度量衡ばらばらだった。フランスの産業主義時代の幕開けになった大革命の直後、各地でばらばらだった度量衡が統一され、新たにメートル法と太陽暦を採用する法律が公布されたことは、けっして偶然ではなかった。場所が変わっても一律な度量衡は、第二の波によってほとんど全世界に普及したのである。
さらに、大量生産方式が機械、製品、作業工程の規格化を必要とするようになると、肥大化を続けてやまない市場もそれに対応して、貨幣の規格化と価格の規格化まで要求するようになった。歴史的にみると、もともと貨幣は、国王はもちろん、銀行や個人によっても発行されていた。アメリカでは、地方によっては、19世紀に入ってからでさえ個人が鋳造した貨幣が流通していたし、カナダでは1935年まで、そういう状態が続いていた。しかし、産業化の進んだ国は、次第に政府以外の貨幣発行を禁止するようになり、そういう状態が続いていた。しかし、産業化の進んだ国は、次第に政府以外の貨幣発行を禁止するようになり、単一の、規格化した通貨が国内を流通するように努めたのである。
ほかにも例がある。産業化の進んだ国ぐにでも、19世紀以前は、売り手と買い手が取り引きごとに価格をめぐってかけひきすることが、まだ普通であった。ちょうど古代エジプトのカイロのバザールのようなやり方である。1825年のこと、A・T・スチュアートと名乗る北アイルランドからの移民青年が、ニューヨークに織物店を開き、ひとつひとつの商品に定価をつけるという方程式を採用して、顧客と同業者の双方を驚かせた。この「定価商法」は価格の規格化にほかならず、この商法のおかげで、スチュアートは、当時の商業界のプリンスのひとりとなった。同時に彼の方式は、大量流通の発展を妨げていた、主要な障害のひとつを除去したのである。
第二の波の先端を行く思想家たちは、いろいろ考え方のちがいはあるにせよ、規格化が能率的であるという点では、意見が一致していた。人間生活の実にさまざまなレベルで、第二の波は容赦なく、規格化の原則を適用した。その過程で、さまざまな特質や相違点が画一化されていった。
 
分業化
第二の波の社会に共通して流れているもうひとつの大原則は、「分業化」である。第二の波が進行するにつれて、言語、余暇、生活様式といった分野からは、多様性が失われていったが、それに反比例して、労働の領域では、多様性が求められるようになった。分業化を推し進めることによって、第二の波は、季節労働者のような、なんでも屋の農民に代わって、限られた分野にしか適用しない専門家と、テイラー流のやり方で、たったひとつの仕事をくる日もくる日もくりかえす労働者を登場させたのである。
1720年、あるイギリス人によって、『東インド貿易のすすめ』という報告書が公にされた。そのなかにはすでに、分業によって「労働時間と労働量の軽減」が可能になる、という指摘がある。続いて1776年には、アダム・スミスが『国富論』を公刊し、その冒頭で彼は自信をもってこう書いた。「生産力の最大の進歩は、分業がもたらした成果であったと言えよう。」
スミスは、いまでは古典的になった一節で、ピンの製造を例にとって説明している。彼の記述によれば、自分ひとりで必要な作業工程のすべてをやってのける昔流の職人が一日につくるピンの量は、せいぜいひと握り、数にして20を越えることはまず絶対にありえない、と言う。これと対照的に、スミスは自分がかつて訪ねたことのある「工場」の模様を次のように書いている。そこでは、一本のピンをつくるのに必要な工程を18の作業に分け、10人の専門の職工がいる。たったひとつの作業を受け持つ職工もいれば、二、三の作業を担当する者もいる。この方式によれば、1日に10人で48,000本、一人当たり4,800本のピンを製造できるというのである。
19世紀に入るころには、労働の場はつぎつぎと工場へ移るようになり、それにつれてピンの物語が次第に大規模に繰り広げられるようになった。さらに、分業化による人件費の節約もエスカレートする一方だった。産業主義に対する批判者の論点は、高度に分業化が進み、労働が単調な反復作業になると、やがて労働者の人間性が奪われてしまうというのであった。
1908年、ヘンリー・フォードがフォードT型の工場生産を開始した時には、一台の車を完成する作業は18どころではなく、7,882に分かれていた。後年、自叙伝のなかで、フォードはこの7,882に分割した作業について、次のような、注釈を加えている。全作業のうち、949は、「身体強健な熟練工、肉体的にこれといった障害のない人間」を必要とする。3,338は、「普通程度の体力のある男性」であればよく、残りの大半の作業は、「女性や、ある程度の年齢に達したこどもでも、作業可能」だという。そして、フォードの冷静な分析はさらに続く。「670は両足の無い労働者でも十分であり、2,637は片足の労働者でもやれる。両腕の無い職工でもできる作業が2つあり、715の作業は片腕の職工でもよい。盲目の職工でも作業可能な作業は10ある。」手短かに言えば、分業化された労働はトータルなひとりの人間を必要とせず、その人間の一部だけで十分なのである。フォードのやり方は、極端な分業化が人間性の冒涜につながる可能性を立証する、格好の事例であった。
資本主義に批判的な人びとは、分業化を資本主義に固有の現象と考えていたが、実際には、社会主義体制下の産業社会にも、はっきりとあらわれた。なぜなら、資本主義、社会主義を問わず、あらゆる第二の波の社会に共通してあらわれた労働の極端な分業化は、生産と消費の分離にその原因が求められるからである。徹底した分業化が進んでいるという点では、今日、ソビエト、ポーランド、東ドイツ、ハンガリーといった国ぐにの工場は、アメリカや日本のそれとまったく変わるところはない。アメリカ労働省の統計によれば、1960年の時点で、分類可能な職種は2万種類におよんでいる。
さらに、資本主義産業国でも、社会主義産業国でも、分業化と同時に、専門化の風潮が高まった。分業化された労働に携わる集団が、ある分野の難解な知識を独占し、新入者を排除できるチャンスを見出すと、かれらはきまって自分たちの仕事を専門的職業にしてしまった。第二の波がおしよせてくるとともに、知識の所有者と、その知識を求める顧客の間に市場が介在するようになった。前者が生産者であり、後者が消費者、と言うわけである。かくして、第二の波の社会では、健康とは自分自身の知識や注意の結果もたらされるもの(これは、自己消費の生産だが)というより、医師や、健康増進を司る一大医療官僚機構とも言うべきものによって供給される生産物という考え方が支配的になってきた。教育もさしずめ、学校という施設で教師という生産者によって「生産」され、生徒という消費者によって「消費」されるもの、ということになった。
図書館の司書からセールスマンにいたるまで、あらゆる種類の職業集団が、自分たちは、専門職業人と呼ばれる資格があり、自分たちの仕事の規準、価格、新規参加者の加入条件を決める力があるのだと、やかましく言い立てるようになった。アメリカ合衆国連邦貿易委員会議長マイケル・パーツチャックは、「現代文化はいまや、われわれ一般市民を“顧客”と呼び、われわれの“ニーズ”を開発する専門職業人によって支配されている」と言っている。
第二の波の社会では、政治的な扇動行為でさえ、ひとつの専門的職業と考えられていた。レーニンが、大衆は専門化の援助なしに革命を起こすことはできない、と説いたのもこの意味である。レーニンによれば、「必要なことは、数の限られていた職業的革命家を大衆にまでひろげて、かれらを職業的革命家に脱皮させ、かれらを組織すること」であった。
第二の波によって、共産主義者にも資本家にも、経営者、教育者、聖職者、政治家にも、共通の心情が生まれた。だれもが分業をいっそう完璧なものにしょうとしたのである。1851年、世界大博覧会が水晶宮で開かれた時、ビクトリア女王の夫君アルバート公は、「専門化こそ文明を推進していく力だ」といったが、その時代の人びとは、だれひとり、その言葉を疑わなかった。規格化と、分業化は、平行して進行していったのである。

同時化
生産と消費の間の亀裂がひろがるにつれて、第二に波の人間の時間に対する態度にも、必然的に変化が生じた。市場に依存する社会では、自由経済であろうと計画経済であろうと、時間は金に換算される。高額の機械は遊ばせておくことは許されない。機械は、それぞれのリズムで作動していく。こうして、産業文明の第三の原則、「同時化」が発生した。
人間社会のごく初期の段階でも、労働にあたって、時間は大切な問題であった。たとえば兵士が敵に奇襲をかける場合など、往々にして全員でいっせいにことにあたる必要があった。漁師が船を漕いだり、網をひいたりする場合も同様だった。だいぶ以前のことだが、ジョージ・トムソンは、労働上の必要からいかにさまざまな作業歌が生まれたかを明らかにした。船の漕ぎ手にとって、時間は「オー・オップ」という単純な二音節の音によって区切られていた。二音節目の「オップ」は力の出し方が頂点に達する瞬間を指しており、最初の音節「オー」は、準備の時間を意味していた。船を引っ張る作業は、船を漕ぐより重労働であった。そこで、トムソンは次のような説明を加えている。「力の引き出し方を頂点に持っていくかけ声は、比較的長い間隔を置いて発せられる。たとえば、アイルランドの船ひき歌では、“ホー・リー・ホー・ハップ”という具合で、最後の“ハップ”で力を結集するまでに、準備期間が多少長くとられている。」
第二の波によって機械が導入され、労働歌が歌われなくなった。もともと作業の同時化は、自然発生的であり、有機的なものであった。それは季節のリズム、生理的な反応、地球の自転、心臓の鼓動などに倣
ったものであった。ところが、第二の波の社会では、それとは対照的に、機械の鼓動に合わせるようになったのである。工業生産が一般化すると、機械そのものの高額なコストと、労働の高度の相互依存性という二つの要因によって、同時化がいっそう厳密に要求されるようになった。工場である作業工程を担当する労働者グループの作業がおくれると、それ以降の工程では、さらに遅れが大きくなる。こうして、農耕社会ではさほど重要でなかった時間厳守ということが社会的要請となり、各種の時計が普及するようになった。1790年代のイギリスでは、すでに時計は珍しいものではなくなっていた。イギリスの歴史家E・P・トンプソンの言によれば、時計は、「産業革命によって、いっそう大規模な労働の同時化が要求されるようになった、まさにその時点で普及したのである。」
 産業文化のなかで育ったこどもが、早い時期から時計の読み方を教えられるのは、けっして偶然ではない。学校の生徒が始業ベルに間に合うように登校する習慣を身につけさせるのは、始業のサイレンの鳴る時刻までに、確実に工場や事務所に出勤させるためである。仕事は時間で計られ、秒単位で細かく計測されるようになった。朝9時から午後5時までの勤務が、大多数の労働者の、勤務時間の原則になった。
 同時化が進んだのは、労働だけではなかった。第二の波の社会では、採算や政治的配慮を無視してまで、社会生活をすべて、時計で律し、機械の要求に合わせる必要が出てきた。余暇の時間まで、あらかじめ決められていた。労働のスケジュールのなかに、標準的な休暇や休日、休憩時間の長さが設定されるようになった。
 児童は一定の年齢でいっせいに就学し、卒業していく。病院も患者をいっせいに起床させて朝食をとらせる。こうしてラッシュアワーが発生し、交通体系が危なくなる。放送局は限られた時間帯に娯楽番組を編成し、ゴールデンアワーが生まれる。原料提供者や販売担当者の都合によって、あらゆる仕事に、その仕事特有のピーク時間やかきいれ時ができるようになった。さらに同時化の専門家まであらわれた。工場の作業促進課、線表作成者から交通巡査、はては標準作業時間の研究家まで、さまざまな人たちがそれである。
 反対に、新しい産業社会の時間体系に反逆する人びとも出てきた。そして、ここでも男女差が問題となった。第二の波のもとで労働に従事した人びとの大部分は男性で、かれらがいちばん従順に時計の動きにしたがった。
 第二の波の社会では、世の夫たちは常にこんな不満をもらしている。妻は平気でひとを待たせ、時間の感覚がない。いつまでも着替えに気を取られ、約束の時間にいつもおくれる、と言うのだ。大方の女性は、家事という相互依存を必要としない仕事をしているため、男性ほど機械的なリズムに支配されずに働いてきた。同じような理由で、都会人は田舎の人がのろまで、あてにならないと見下す傾向があった。
「奴らはいつも約束の時間にきやしない。どだい、約束を守る気があるのかどうかもわからんのだ」と言うわけである。こうした不満が出てくるのも、もとをただせば、高度に相互依存の必要な第二の波の労働と、畑や家で行なわれる第一の波の労働との差に帰着する。
 ひとたび第二の波が支配的になると、本来、もっとも個人の好みに合わせて行なわれるはずの、日常的なこまごましたことまでが、一定の歩調を持った産業社会のシステムに、しっかりと組み込まれてしまった。アメリカでもソビエトでも、シンガポールでもスウェーデンでも、フランスでもデンマークでも、あるいはドイツでも日本でも、大多数の家庭が同じような時刻に起き、同じような時刻に朝食をとって出勤する。就業時間も、帰宅時間も同じなら、寝室に入り、眠りにつくのも同じ、その上、愛を確かめ合うことさえ、程度の差こそあれ、時を同じくしているのだ。これは、文化全体が規格化、分業化という二つの原則に加えて、同時化という第三の原則を採用したためである。(続く)