伊藤博文を撃った男
安重根(アンジュングン)の真実
[ハルビンの凶変]
韓国で切手にもなっているこの男の事を、日本人は殆ど知らない。 かって震え続けた山河、アリランの切ない歌が生まれた国がこの男を育んだ。1909年 10 月 26 日、この日、男は中国大陸の東北部の大都市ハルビンに居た。彼は一人の日本人を待ち焦がれていたのである。それは当時、枢密院議長をしていた伊藤博文 68 歳である。伊藤は、大日本帝国の進路を決めた明治の元勲である。ハルビン駅午前九時、北の大陸の朝の事であった。この二人の男の運命は、ハルビン駅のホームで交錯する。互いに面識があった訳でもなく、幾許かの言葉を交わした訳でもなく、ただ韓国の男が発したものは、六発の銃弾であった。伊藤博文暗殺の瞬間である。
安重根(アンジュングン)、これが伊藤博文を撃った男の名前である。それから丁度 90 年の歳月が流れようとしている。以来日本人は、この男が何故伊藤博文を撃ったのか?と言う事を、又彼の掲げた大義名分について、知ろうとする努力は、一切しなかった。結果として、大多数の日本人はこの韓国での英雄に付いて、日本との関わりに付いて理解する術を持たない。こんな事は、両国の国民感情を論ずる以前の問題である筈なのにである。歴史の教科書の片隅に、小さく載っているだけの安重根が処刑されたのは、事件から 5か月後の事である。そして日本ではこの男の記憶は、歴史の闇の中に消える筈であった。
しかし、真実は消えなかった。事件から 86 年目、歳月と風雪に耐え、僅かに残った日本での男の手掛かりには、一人のテロリストの痛切な叫びの痕跡が残されていた。
韓国と日本の間には、越えられない暗い川が流れている。あの日、撃った男と撃たれた男は、その分水嶺に立っていたのである。
中国東北・黒竜江省の大都会・ハルビン、伊藤博文が遂に足を踏み入れることのなかった街である。1909年 10 月 26 日、ハルビン駅に到着した伊藤博文は、一番線プラットホームに降り立った。そしてここが伊藤博文と言う明治の大政治家の終焉の場所となった。 その暗殺地点には、今は何の痕跡も残されていない。
当時の伊藤は、来日中の韓国皇太子『英親王』の教育係を務めていて、政治の第一線からは退いていたが、依然として政界に隠然たる力を誇っていた。その彼が満州漫遊の旅と称して、大磯の自宅『滄浪閣』を出たのは、1909年 10 月 14 日の事である。
彼は一介の足軽の子から立身出世して、初代にして四度に亘り総理大臣を務め、明治の元勲と呼ばれた彼は、富国強兵を推進し、大日本帝国の礎を築き上げた。その成果の一つが日清・日露戦争で獲得した中国大陸での巨大な権益である。旅の表向きの目的はこれらの地域の視察となっていたが、本当の目的は全く別にあった。
この漫遊と称する旅の三か月前、『韓国併合』の閣議決定がされている。これは当時の
外相の『小村寿太郎』と首相の『桂太郎』が計画を練り上げ、伊藤の了承をとったものである。この発効を目前にして伊藤は重要な任務を背負っていたのである。それはロシアと談合して韓国併合の了解を取ると共に、南満州鉄道の利権をロシアと折半する事である。韓国併合を巡るロシアの要人との会談、それが伊藤と言う明治の元勲を中国大陸に向かわせた理由であった。北九州の門司から満州に渡った伊藤は、10月 20 日に旅順・203 高地を、24日には奉天と、現地の熱烈な歓迎を受け、自らこれが最後のご奉公であると言っていたが、10月 25 日の長春の夜が、彼の最後の宴席となる。この日の夜行で伊藤を乗せた列車は一路ハルビンへ向かう。
このハルビンには、帝政ロシアの大物政治家ココーフツオフ蔵相が待っていた。しかし、伊藤を待っていたのは、ココーフツオフだけでは無かった。胸に伊藤への積年の怒りと憤りを秘めた、招かれざる男がいたのである。伊藤の列車が到着したのは、丁度、午前九時である。男は出迎えの群衆の中に紛れ込んでいた。一番線のホームには、ロシアの儀杖兵が整列しており、伊藤がホームに姿を現したのが 9時 25 分、ロシア兵の閲兵を行う。男は伊藤との距離 5㍍で兵列の影から見つめていた。伊藤が閲兵を終えた時、男の拳銃が火を吹く。男は逃げる様子も、悪びれた様子も無かったが、ただ官憲に取り押さえられた時韓国万歳と叫んでいる。
男に対する取り調べは、ハルビンの日本総領事館で行われる。取り調べに当たったのは、検察官・溝淵孝雄、通訳は園木末喜である。最初の質問に男は『安應七 30 歳、猟夫』と答える。しかし、その毅然たる態度からは、どう見ても一介の猟夫には見えなかった。取り調べの二人が驚かせたのは『伊藤公爵を何故敵視するようになったか?』と言う質問をしたときである。彼はその理由を、立板に水のごとく、 15 項目に列挙したのである。
(1) 伊藤の指揮で韓国王妃を殺害 (2) 韓国に不利な五か条を締結
(3) 軍隊に不利な12箇条を締結 (4) 伊藤の強制で韓国皇帝を廃位
(5) 韓国の軍隊を解散 (6) 義兵弾圧のための良民多数虐殺
(7) 韓国政治その他権利の剥奪 (8) 伊藤の指揮で教科書を焼却
(9) 国民の新聞購読を禁止 (10)国民に黙って第一銀行券を発行
(11)良民の土地を剥奪 (12)東洋の平和を攪乱
(13)韓国保護と称する不利な施策施行 (14)現日本皇帝の御父君を廃す
(15)韓国は無事なりと世界を欺く
更に男は『私の思っていることを直ぐ日本の天皇に上奏してください。東洋の危機を救ってくれることを切望する』と言い添えている。
11月 4日、政治家として始めての国葬として伊藤博文の葬儀が日比谷公園で営まれた。人々は何故暗殺されねばならなかったのか?と彼の死を悼んだ。事件当時に伊藤が着ていた衣服が残されている。血に染まったフランネルの肌着に開いた銃痕には、安重根と言う男の願いが込められているのである。
ハルビンに勾留されていた安重根は、やがて旅順監獄へ移送される。伊藤公暗殺の犯人を迎えて旅順監獄は異様な緊張に包まれた。 ここで警護と看守を務めていたのが、憲兵の『千葉十七』である。彼も又、安重根と言う男に怒りと憎悪を抱いていた。だが彼はやがて、ある奇妙な思いに囚われていく。
[二つの大義]
安重根は単純なテロリストではなかった。悠々たる態度、そして口にする言葉は東洋の平和であった。尋問の溝淵検察官は戸惑いを覚える。安重根の言う東洋平和の東洋とは、支那、日本、韓国、シャム、ビルマの五か国を指しており、平和とは全ての国が自主独立して行くことであった。怯まず、揺るがず、春風のようなテロリストの態度に、憲兵の千葉の憎悪も、やがてこの男への興味と変わって行く。彼の発する言葉の一つ一つが千葉の心を取り乱していた。
当時の日本にとって、朝鮮半島は安全保障上の防波堤であった。そのために韓国に勢力を伸ばそうとする清国やロシアと絶えず戦いを繰り広げ、これを死守してきたのである。
多くの日本人は韓国を保護し、支配する事が東洋平和への道であると信じていた。しかし安重根と言う男がこの考え方に一つの波紋を投げ掛けたのである。
11月 24 日の第六回尋問で、安重根は『日清戦争が韓国の独立を計るためと日本は言うが日本の野心は韓国の併呑である。列国はそれを知りながら黙視している』と主張した。
彼は自分の行動は単なる殺人では無く、東洋平和の為であると言うのである。日本の大義と安重根の大義がぶつかり合い、揺れていた。
獄中での安重根は、何時も静かに十字架に祈りを捧げていた。千葉は既に果たしてどっちが正しいのであろうか?と迷う程になっていた。旅順監獄は異様な雰囲気に包まれつつあった。
しかし、安重根の存在を人一倍恐れていた人物が、日本にいた。桂内閣随一の切れ者、小村寿太郎外務大臣である。旅順から逐一報告を受けていた小村外相は、12月 2日、旅順に宛て『政府ニ於イテハ安重根ノ犯行ハ極メテ重大ナルヲ以テ、懲悪ノ精神ニヨリ極刑ニ処セラルルコト、相当ナリト思考ス』と打電する。これは裁判が始まる前の異例の通達である。極秘裏に韓国併合を進めていた小村にとって、世界の耳目がこの男に集まる事を恐れたのである。安重根とは何者なのか?それを解く鍵は、極端に短い薬指を持った彼の左手にあった。
[恨]
安重根は、旅順の監獄で自らの生い立ちの記を『安應七歴史』として書き残している。
彼は1879年 7月に、平穣の南方に生まれる。彼の家は高貴な家柄であり、文官と武官を兼ねて地方の行政を一手に司る『両班ヤンパン』と言う貴族階級である。当然広大な屋敷に多くの使用人を抱える生活であった。生まれた時、彼の胸と腹には、北斗七星に似た七つの黒子があったので、それの因んで『應七』となずけられた。しかし、余りの腕白振りのため、もっと落ち着いて勉学に励むようにと、後に重根の名を与えられたのである。
この貴族生活は長くは続かなかった。1894年 2月に起きた『東学党の乱』によって韓国は戦火に包まれた。この内乱に乗じて勃発したのが、1894年 8月の『日清戦争』である。この時の日本の開戦の詔勅は『東洋の平和を維持し、韓国の独立を強固にする』であった。当時の安重根は、日本が韓国のために戦ってくれていると信じていた。安重根の一家は戦火を逃れるため、カソリックの教会に身を隠し、ウィルヘルムと言う神父との出会いによって家族全員が洗礼を受けた。キリストの教えに感動した安重根は、信仰の道に入り、福音の伝導を志す。 しかし、1904年韓国は再び戦火にまみれる。日露戦争の勃発であった。ウィルヘルム神父は、ロシアが勝てば韓国の主人はロシアになる、日本が勝利すれば、韓国は日本の属国になるだろうと憂慮していた。安重根は西洋人の神父の言葉に反発した。彼は飽くまで同じ東洋人の日本を信じていたのである。しかし彼は、日露戦争の詔勅が、日清戦争の時とでは、微妙に変わっていたのに気が付いていなかった。日露戦争の詔勅には『東洋の平和を維持し、韓国の独立を強固にする』に代わって『東洋の治安と韓国の保全のため…』と言い換えられていたのである。神父の予言はことごとく現実となった。
日露戦争に勝利した日本は、1905年 11 月 17 日、『第二次日韓協約』を押しつけ、事実上の植民地支配としてしまう。韓国の外交権は剥奪され、軍隊は解散させられ、全ての行政を監督するために1905年 12 月には『韓国総監府』が設置され、初代の総監が伊藤博文である。
裏切られた安重根は抗日運動に身を投じ、ゲリラ戦に参加する。多くの同胞が殺され、祖国の山河は、血と涙に濡れた。そして彼の胸に刻まれたのは[恨]の一文字である。
安重根は、日本軍の追及を避け、ロシア領のウラジオストクに、拠点を作った。ここで彼は亡命韓国人と『大韓義軍』を組織し、自ら騎兵参謀中将となり、抗日を続けた。そしてある日、同志と共に祖国に命を捧げる誓いを立てる。それは左手薬指の先端を切り落として国旗に血書したのである。これが『断指同盟』の結成である。しかし、多勢に無勢の義軍は劣勢を強いられ、彼はこのままでは祖国が消える、世界にこの危機を伝えねばならないとの、たった一人の戦争を決意する。
第一回公判で、彼は世界中がこの裁判を注目していると信じていた。彼は伊藤公を殺害すれば、自決でもする気があったか?の質問に対して『私の目的は韓国の独立と東洋の平和の維持であって、伊藤公を殺害するに至ったのも、私怨から出た物ではなく、東洋の平和のためにしたので、未だ目的を達した訳ではないから、伊藤公を殺しても自殺する意思は無かった』と答えている。
岡山県笠岡市に在る浄心寺、1993年に大発見が有った。お経蔵のなかから意外な物が発見された。初めは極く当たり前の書と思われたが、安重根の署名があったので住職の津田康道も驚愕する。それは安重根が旅順の監獄で書いた三輻の遺墨であった。落款の替わりに薬指の短い手形が押されていた。この三輻の遺墨は、旅順監獄の教誨師を務めていた住職の大叔父に当たる津田海純が持ち帰った物である。発見された物はこればかりではなく、 68 枚に及ぶ記録写真もあった。その中には勿論、事件に纏わる写真も含まれていた。 取り分け目を引いたのは旅順監獄の中の安重根の姿である。この獄中にこそ、彼の本当の戦いがあった。
[処刑の曠野]
裁判は、旅順の関東都督府・高等法院で行われた。安重根にとってはこの法廷こそが、祖国の危機を訴える場所であった。しかし、その願いは無残に打ち砕かれてしまう。彼にとっては、祖国は占領されているに等しい、その中で祖国を侵略する者と戦おうとしていたのであるから、戦場に於ける捕虜と同じであり、政治犯として扱われるべきであり、単なる刑法の殺人罪で裁かれるのは堪え難いことであった。
1910年 2月 10 日の第四回公判、検察側の論告求刑で溝淵孝雄・検察官は『安重根の犯罪は知識の欠乏から生じた誤解による。頑迷・自尊の排日新聞や論客の説に盲従した結果から、韓国の恩人たる伊藤公を仇敵と見なし、その施策への復讐心が動機であった』として死刑を求刑した。
1910年 2月 12 日の第五回公判での官選弁護人・水野吉太郎の論調は、検察官と同様の物であった。彼の犯行を知識の欠如と誤解によるものであるとして、情状酌量を求めたのみである。
被告人最終陳述、今まで静かに沈黙していた彼は、堰を切ったように猛烈な勢いで語り始めた。一時間にも及んだ男の叫びであった。通訳の園木は、彼から迸る言葉を必死になって訳し続け、法廷に伝えた。『私は検察官や弁護人の言うように伊藤の政策を誤解してはいない。かえって良く知り抜いていると思っている。私は東洋の平和を乱し、韓国の独立を妨げる伊藤公を韓国義兵中将の資格を以て殺したのである。最後に申し上げて置く。私には韓国独立のほかには、望むものは全く無い』これが最後の叫びであった。
しかし残念ながら、彼の最終陳述のときには、傍聴席には誰も入れなかった。日本の植民地政策批判が飛び出すと言う予想から、非公開となっていたのである。
1910年 2月 14 日の第六回公判で、裁判は僅か一週間と言う異例の早さで終結する。判決は予想通り『被告人・安重根を死刑に処す』である。そのとき彼は静かに微笑み、『最初から分かっていた』と呟いた。
旅順監獄には重い空気が流れていた。何もできない自分だが、良心の呵責と安重根と言う男への畏敬の念で憲兵・千葉十七の心は千々に乱れた。安重根は獄中で或る著作にとり掛かっていた。『東洋平和論』である。やがて別れを告げるこの世界に、自分の最後の願いを残しておこうとしたのである。殺されゆく人がいる、その人は祖国の独立と平和を願い続けている、千葉はもう我慢できずに『日本人の一人としてお詫びする』と言った。
安重根の立場に心を動かされていたもう一人の日本人がいた。旅順監獄の典獄を務めていた栗原貞吉である。栗原は何とか『東洋平和論』を完成させてやろうと思った。しかし残された時間は余りにも少い。栗原は警保局に対して『死刑執行を 15 日間延期されたい』という嘆願書を提出する。だが、国家の論理には個人の思いを受け入れる余地はなく、この嘆願は受け入れられなかった。栗原は安重根に対して『あなたをお助けできず誠に残念希望があったら何でも言ってくれ』と伝える。安重根はこの時、白地の韓服を望んだ。 それを死に装束にしたかったのである。
旅順監獄の日本人たちは、この男のために何かをせずにはいられなかった。栗原の妻は必死で白の韓服を縫い上げた。栗原典獄の孫に当たる小沢尚子さんは、祖父母たちが、彼の心のうちを何かに残してやりたがった筈であると確信している。
獄中の安重根は時間との戦いの中で、東洋平和論の執筆に追われていた。一刻も早く書上げようとしたが、遂に間に合わなかった。未完のまま、1910年 3月 26 日、その日の朝を迎えてしまった。
彼はその日、白い韓服を着ていつもと同じ落ち着き払って静かに死に臨もうとしていた。その部屋には、彼の書いた遺墨が数点残されていた。これは憲兵・千葉十七に書き残した物である。刑場に引かれていく彼の後ろ姿を、涙ながらに見送っていた千葉十七は、思わず『ありがとうございました』と絶叫し、何時までも敬礼をしていた。
午前10時、死刑執行、安重根 31 歳であった。
彼の処刑から五か月の後、1910年 8月 22 日、韓国は日本に併合された。彼の祖国は、地図から消えてしまったのである。
合掌 宮城県栗原郡若柳町が憲兵・千葉十七の故郷である。そこの大林寺の彼の墓地には、安重根の遺墨を刻んだ大きな石碑が建っている。千葉十七は彼の処刑の日から、妻と共に一日も欠かさず彼の冥福を祈った。良心の呵責と罪の意識に苛まれた千葉は、安重根と言う男の深い感銘に包まれながら、ただひたすら、合掌を続けることに、残りの人生の意味を見つけた。1934年、憲兵・千葉十七は韓国独立の日を願いながらその合掌の生涯を閉じる。未完の東洋平和論は唐突に終わっている。生前の安重根は、その構想の一端を漏らしていた。それは旅順を解放して永世中立地帯とする、日清韓三国の平和会議を開催、通貨を統一して政治経済の共同体を作ろうと言う、『東アジア運命共同体構想』である。これが彼の言いたかった事であり、最後の一行には『隣邦を迫害する者は、遂に毒夫の患を免れる事は出来ない』と書かれている。戦火の中で人生の大半を送った男であり、韓国の独立に全てを捧げた男でもある。安重根、遂に祖国に帰れなかった男であるが、今韓国では彼の肖像が切手のデザインとなって祖国を見守っている。加害者・日本人にとっての過去完了は、被害者・韓国人にとっては、現在進行形なのである。
安重根(アンジュングン)の真実
[ハルビンの凶変]
韓国で切手にもなっているこの男の事を、日本人は殆ど知らない。 かって震え続けた山河、アリランの切ない歌が生まれた国がこの男を育んだ。1909年 10 月 26 日、この日、男は中国大陸の東北部の大都市ハルビンに居た。彼は一人の日本人を待ち焦がれていたのである。それは当時、枢密院議長をしていた伊藤博文 68 歳である。伊藤は、大日本帝国の進路を決めた明治の元勲である。ハルビン駅午前九時、北の大陸の朝の事であった。この二人の男の運命は、ハルビン駅のホームで交錯する。互いに面識があった訳でもなく、幾許かの言葉を交わした訳でもなく、ただ韓国の男が発したものは、六発の銃弾であった。伊藤博文暗殺の瞬間である。
安重根(アンジュングン)、これが伊藤博文を撃った男の名前である。それから丁度 90 年の歳月が流れようとしている。以来日本人は、この男が何故伊藤博文を撃ったのか?と言う事を、又彼の掲げた大義名分について、知ろうとする努力は、一切しなかった。結果として、大多数の日本人はこの韓国での英雄に付いて、日本との関わりに付いて理解する術を持たない。こんな事は、両国の国民感情を論ずる以前の問題である筈なのにである。歴史の教科書の片隅に、小さく載っているだけの安重根が処刑されたのは、事件から 5か月後の事である。そして日本ではこの男の記憶は、歴史の闇の中に消える筈であった。
しかし、真実は消えなかった。事件から 86 年目、歳月と風雪に耐え、僅かに残った日本での男の手掛かりには、一人のテロリストの痛切な叫びの痕跡が残されていた。
韓国と日本の間には、越えられない暗い川が流れている。あの日、撃った男と撃たれた男は、その分水嶺に立っていたのである。
中国東北・黒竜江省の大都会・ハルビン、伊藤博文が遂に足を踏み入れることのなかった街である。1909年 10 月 26 日、ハルビン駅に到着した伊藤博文は、一番線プラットホームに降り立った。そしてここが伊藤博文と言う明治の大政治家の終焉の場所となった。 その暗殺地点には、今は何の痕跡も残されていない。
当時の伊藤は、来日中の韓国皇太子『英親王』の教育係を務めていて、政治の第一線からは退いていたが、依然として政界に隠然たる力を誇っていた。その彼が満州漫遊の旅と称して、大磯の自宅『滄浪閣』を出たのは、1909年 10 月 14 日の事である。
彼は一介の足軽の子から立身出世して、初代にして四度に亘り総理大臣を務め、明治の元勲と呼ばれた彼は、富国強兵を推進し、大日本帝国の礎を築き上げた。その成果の一つが日清・日露戦争で獲得した中国大陸での巨大な権益である。旅の表向きの目的はこれらの地域の視察となっていたが、本当の目的は全く別にあった。
この漫遊と称する旅の三か月前、『韓国併合』の閣議決定がされている。これは当時の
外相の『小村寿太郎』と首相の『桂太郎』が計画を練り上げ、伊藤の了承をとったものである。この発効を目前にして伊藤は重要な任務を背負っていたのである。それはロシアと談合して韓国併合の了解を取ると共に、南満州鉄道の利権をロシアと折半する事である。韓国併合を巡るロシアの要人との会談、それが伊藤と言う明治の元勲を中国大陸に向かわせた理由であった。北九州の門司から満州に渡った伊藤は、10月 20 日に旅順・203 高地を、24日には奉天と、現地の熱烈な歓迎を受け、自らこれが最後のご奉公であると言っていたが、10月 25 日の長春の夜が、彼の最後の宴席となる。この日の夜行で伊藤を乗せた列車は一路ハルビンへ向かう。
このハルビンには、帝政ロシアの大物政治家ココーフツオフ蔵相が待っていた。しかし、伊藤を待っていたのは、ココーフツオフだけでは無かった。胸に伊藤への積年の怒りと憤りを秘めた、招かれざる男がいたのである。伊藤の列車が到着したのは、丁度、午前九時である。男は出迎えの群衆の中に紛れ込んでいた。一番線のホームには、ロシアの儀杖兵が整列しており、伊藤がホームに姿を現したのが 9時 25 分、ロシア兵の閲兵を行う。男は伊藤との距離 5㍍で兵列の影から見つめていた。伊藤が閲兵を終えた時、男の拳銃が火を吹く。男は逃げる様子も、悪びれた様子も無かったが、ただ官憲に取り押さえられた時韓国万歳と叫んでいる。
男に対する取り調べは、ハルビンの日本総領事館で行われる。取り調べに当たったのは、検察官・溝淵孝雄、通訳は園木末喜である。最初の質問に男は『安應七 30 歳、猟夫』と答える。しかし、その毅然たる態度からは、どう見ても一介の猟夫には見えなかった。取り調べの二人が驚かせたのは『伊藤公爵を何故敵視するようになったか?』と言う質問をしたときである。彼はその理由を、立板に水のごとく、 15 項目に列挙したのである。
(1) 伊藤の指揮で韓国王妃を殺害 (2) 韓国に不利な五か条を締結
(3) 軍隊に不利な12箇条を締結 (4) 伊藤の強制で韓国皇帝を廃位
(5) 韓国の軍隊を解散 (6) 義兵弾圧のための良民多数虐殺
(7) 韓国政治その他権利の剥奪 (8) 伊藤の指揮で教科書を焼却
(9) 国民の新聞購読を禁止 (10)国民に黙って第一銀行券を発行
(11)良民の土地を剥奪 (12)東洋の平和を攪乱
(13)韓国保護と称する不利な施策施行 (14)現日本皇帝の御父君を廃す
(15)韓国は無事なりと世界を欺く
更に男は『私の思っていることを直ぐ日本の天皇に上奏してください。東洋の危機を救ってくれることを切望する』と言い添えている。
11月 4日、政治家として始めての国葬として伊藤博文の葬儀が日比谷公園で営まれた。人々は何故暗殺されねばならなかったのか?と彼の死を悼んだ。事件当時に伊藤が着ていた衣服が残されている。血に染まったフランネルの肌着に開いた銃痕には、安重根と言う男の願いが込められているのである。
ハルビンに勾留されていた安重根は、やがて旅順監獄へ移送される。伊藤公暗殺の犯人を迎えて旅順監獄は異様な緊張に包まれた。 ここで警護と看守を務めていたのが、憲兵の『千葉十七』である。彼も又、安重根と言う男に怒りと憎悪を抱いていた。だが彼はやがて、ある奇妙な思いに囚われていく。
[二つの大義]
安重根は単純なテロリストではなかった。悠々たる態度、そして口にする言葉は東洋の平和であった。尋問の溝淵検察官は戸惑いを覚える。安重根の言う東洋平和の東洋とは、支那、日本、韓国、シャム、ビルマの五か国を指しており、平和とは全ての国が自主独立して行くことであった。怯まず、揺るがず、春風のようなテロリストの態度に、憲兵の千葉の憎悪も、やがてこの男への興味と変わって行く。彼の発する言葉の一つ一つが千葉の心を取り乱していた。
当時の日本にとって、朝鮮半島は安全保障上の防波堤であった。そのために韓国に勢力を伸ばそうとする清国やロシアと絶えず戦いを繰り広げ、これを死守してきたのである。
多くの日本人は韓国を保護し、支配する事が東洋平和への道であると信じていた。しかし安重根と言う男がこの考え方に一つの波紋を投げ掛けたのである。
11月 24 日の第六回尋問で、安重根は『日清戦争が韓国の独立を計るためと日本は言うが日本の野心は韓国の併呑である。列国はそれを知りながら黙視している』と主張した。
彼は自分の行動は単なる殺人では無く、東洋平和の為であると言うのである。日本の大義と安重根の大義がぶつかり合い、揺れていた。
獄中での安重根は、何時も静かに十字架に祈りを捧げていた。千葉は既に果たしてどっちが正しいのであろうか?と迷う程になっていた。旅順監獄は異様な雰囲気に包まれつつあった。
しかし、安重根の存在を人一倍恐れていた人物が、日本にいた。桂内閣随一の切れ者、小村寿太郎外務大臣である。旅順から逐一報告を受けていた小村外相は、12月 2日、旅順に宛て『政府ニ於イテハ安重根ノ犯行ハ極メテ重大ナルヲ以テ、懲悪ノ精神ニヨリ極刑ニ処セラルルコト、相当ナリト思考ス』と打電する。これは裁判が始まる前の異例の通達である。極秘裏に韓国併合を進めていた小村にとって、世界の耳目がこの男に集まる事を恐れたのである。安重根とは何者なのか?それを解く鍵は、極端に短い薬指を持った彼の左手にあった。
[恨]
安重根は、旅順の監獄で自らの生い立ちの記を『安應七歴史』として書き残している。
彼は1879年 7月に、平穣の南方に生まれる。彼の家は高貴な家柄であり、文官と武官を兼ねて地方の行政を一手に司る『両班ヤンパン』と言う貴族階級である。当然広大な屋敷に多くの使用人を抱える生活であった。生まれた時、彼の胸と腹には、北斗七星に似た七つの黒子があったので、それの因んで『應七』となずけられた。しかし、余りの腕白振りのため、もっと落ち着いて勉学に励むようにと、後に重根の名を与えられたのである。
この貴族生活は長くは続かなかった。1894年 2月に起きた『東学党の乱』によって韓国は戦火に包まれた。この内乱に乗じて勃発したのが、1894年 8月の『日清戦争』である。この時の日本の開戦の詔勅は『東洋の平和を維持し、韓国の独立を強固にする』であった。当時の安重根は、日本が韓国のために戦ってくれていると信じていた。安重根の一家は戦火を逃れるため、カソリックの教会に身を隠し、ウィルヘルムと言う神父との出会いによって家族全員が洗礼を受けた。キリストの教えに感動した安重根は、信仰の道に入り、福音の伝導を志す。 しかし、1904年韓国は再び戦火にまみれる。日露戦争の勃発であった。ウィルヘルム神父は、ロシアが勝てば韓国の主人はロシアになる、日本が勝利すれば、韓国は日本の属国になるだろうと憂慮していた。安重根は西洋人の神父の言葉に反発した。彼は飽くまで同じ東洋人の日本を信じていたのである。しかし彼は、日露戦争の詔勅が、日清戦争の時とでは、微妙に変わっていたのに気が付いていなかった。日露戦争の詔勅には『東洋の平和を維持し、韓国の独立を強固にする』に代わって『東洋の治安と韓国の保全のため…』と言い換えられていたのである。神父の予言はことごとく現実となった。
日露戦争に勝利した日本は、1905年 11 月 17 日、『第二次日韓協約』を押しつけ、事実上の植民地支配としてしまう。韓国の外交権は剥奪され、軍隊は解散させられ、全ての行政を監督するために1905年 12 月には『韓国総監府』が設置され、初代の総監が伊藤博文である。
裏切られた安重根は抗日運動に身を投じ、ゲリラ戦に参加する。多くの同胞が殺され、祖国の山河は、血と涙に濡れた。そして彼の胸に刻まれたのは[恨]の一文字である。
安重根は、日本軍の追及を避け、ロシア領のウラジオストクに、拠点を作った。ここで彼は亡命韓国人と『大韓義軍』を組織し、自ら騎兵参謀中将となり、抗日を続けた。そしてある日、同志と共に祖国に命を捧げる誓いを立てる。それは左手薬指の先端を切り落として国旗に血書したのである。これが『断指同盟』の結成である。しかし、多勢に無勢の義軍は劣勢を強いられ、彼はこのままでは祖国が消える、世界にこの危機を伝えねばならないとの、たった一人の戦争を決意する。
第一回公判で、彼は世界中がこの裁判を注目していると信じていた。彼は伊藤公を殺害すれば、自決でもする気があったか?の質問に対して『私の目的は韓国の独立と東洋の平和の維持であって、伊藤公を殺害するに至ったのも、私怨から出た物ではなく、東洋の平和のためにしたので、未だ目的を達した訳ではないから、伊藤公を殺しても自殺する意思は無かった』と答えている。
岡山県笠岡市に在る浄心寺、1993年に大発見が有った。お経蔵のなかから意外な物が発見された。初めは極く当たり前の書と思われたが、安重根の署名があったので住職の津田康道も驚愕する。それは安重根が旅順の監獄で書いた三輻の遺墨であった。落款の替わりに薬指の短い手形が押されていた。この三輻の遺墨は、旅順監獄の教誨師を務めていた住職の大叔父に当たる津田海純が持ち帰った物である。発見された物はこればかりではなく、 68 枚に及ぶ記録写真もあった。その中には勿論、事件に纏わる写真も含まれていた。 取り分け目を引いたのは旅順監獄の中の安重根の姿である。この獄中にこそ、彼の本当の戦いがあった。
[処刑の曠野]
裁判は、旅順の関東都督府・高等法院で行われた。安重根にとってはこの法廷こそが、祖国の危機を訴える場所であった。しかし、その願いは無残に打ち砕かれてしまう。彼にとっては、祖国は占領されているに等しい、その中で祖国を侵略する者と戦おうとしていたのであるから、戦場に於ける捕虜と同じであり、政治犯として扱われるべきであり、単なる刑法の殺人罪で裁かれるのは堪え難いことであった。
1910年 2月 10 日の第四回公判、検察側の論告求刑で溝淵孝雄・検察官は『安重根の犯罪は知識の欠乏から生じた誤解による。頑迷・自尊の排日新聞や論客の説に盲従した結果から、韓国の恩人たる伊藤公を仇敵と見なし、その施策への復讐心が動機であった』として死刑を求刑した。
1910年 2月 12 日の第五回公判での官選弁護人・水野吉太郎の論調は、検察官と同様の物であった。彼の犯行を知識の欠如と誤解によるものであるとして、情状酌量を求めたのみである。
被告人最終陳述、今まで静かに沈黙していた彼は、堰を切ったように猛烈な勢いで語り始めた。一時間にも及んだ男の叫びであった。通訳の園木は、彼から迸る言葉を必死になって訳し続け、法廷に伝えた。『私は検察官や弁護人の言うように伊藤の政策を誤解してはいない。かえって良く知り抜いていると思っている。私は東洋の平和を乱し、韓国の独立を妨げる伊藤公を韓国義兵中将の資格を以て殺したのである。最後に申し上げて置く。私には韓国独立のほかには、望むものは全く無い』これが最後の叫びであった。
しかし残念ながら、彼の最終陳述のときには、傍聴席には誰も入れなかった。日本の植民地政策批判が飛び出すと言う予想から、非公開となっていたのである。
1910年 2月 14 日の第六回公判で、裁判は僅か一週間と言う異例の早さで終結する。判決は予想通り『被告人・安重根を死刑に処す』である。そのとき彼は静かに微笑み、『最初から分かっていた』と呟いた。
旅順監獄には重い空気が流れていた。何もできない自分だが、良心の呵責と安重根と言う男への畏敬の念で憲兵・千葉十七の心は千々に乱れた。安重根は獄中で或る著作にとり掛かっていた。『東洋平和論』である。やがて別れを告げるこの世界に、自分の最後の願いを残しておこうとしたのである。殺されゆく人がいる、その人は祖国の独立と平和を願い続けている、千葉はもう我慢できずに『日本人の一人としてお詫びする』と言った。
安重根の立場に心を動かされていたもう一人の日本人がいた。旅順監獄の典獄を務めていた栗原貞吉である。栗原は何とか『東洋平和論』を完成させてやろうと思った。しかし残された時間は余りにも少い。栗原は警保局に対して『死刑執行を 15 日間延期されたい』という嘆願書を提出する。だが、国家の論理には個人の思いを受け入れる余地はなく、この嘆願は受け入れられなかった。栗原は安重根に対して『あなたをお助けできず誠に残念希望があったら何でも言ってくれ』と伝える。安重根はこの時、白地の韓服を望んだ。 それを死に装束にしたかったのである。
旅順監獄の日本人たちは、この男のために何かをせずにはいられなかった。栗原の妻は必死で白の韓服を縫い上げた。栗原典獄の孫に当たる小沢尚子さんは、祖父母たちが、彼の心のうちを何かに残してやりたがった筈であると確信している。
獄中の安重根は時間との戦いの中で、東洋平和論の執筆に追われていた。一刻も早く書上げようとしたが、遂に間に合わなかった。未完のまま、1910年 3月 26 日、その日の朝を迎えてしまった。
彼はその日、白い韓服を着ていつもと同じ落ち着き払って静かに死に臨もうとしていた。その部屋には、彼の書いた遺墨が数点残されていた。これは憲兵・千葉十七に書き残した物である。刑場に引かれていく彼の後ろ姿を、涙ながらに見送っていた千葉十七は、思わず『ありがとうございました』と絶叫し、何時までも敬礼をしていた。
午前10時、死刑執行、安重根 31 歳であった。
彼の処刑から五か月の後、1910年 8月 22 日、韓国は日本に併合された。彼の祖国は、地図から消えてしまったのである。
合掌 宮城県栗原郡若柳町が憲兵・千葉十七の故郷である。そこの大林寺の彼の墓地には、安重根の遺墨を刻んだ大きな石碑が建っている。千葉十七は彼の処刑の日から、妻と共に一日も欠かさず彼の冥福を祈った。良心の呵責と罪の意識に苛まれた千葉は、安重根と言う男の深い感銘に包まれながら、ただひたすら、合掌を続けることに、残りの人生の意味を見つけた。1934年、憲兵・千葉十七は韓国独立の日を願いながらその合掌の生涯を閉じる。未完の東洋平和論は唐突に終わっている。生前の安重根は、その構想の一端を漏らしていた。それは旅順を解放して永世中立地帯とする、日清韓三国の平和会議を開催、通貨を統一して政治経済の共同体を作ろうと言う、『東アジア運命共同体構想』である。これが彼の言いたかった事であり、最後の一行には『隣邦を迫害する者は、遂に毒夫の患を免れる事は出来ない』と書かれている。戦火の中で人生の大半を送った男であり、韓国の独立に全てを捧げた男でもある。安重根、遂に祖国に帰れなかった男であるが、今韓国では彼の肖像が切手のデザインとなって祖国を見守っている。加害者・日本人にとっての過去完了は、被害者・韓国人にとっては、現在進行形なのである。